2-2 氷の一族の流文流説

「こんにちは、シキナ様。ご了承もいただかず、ユリウス様の龍に乗せていただいて申し訳ありません」

 ユリウス様の手を借りて階段を降りていくときに、思い出した。一般的な令嬢は夫や婚約者、ごく親しい友人以外の異性を袖が触れ合うほどの距離には近寄らせない。妻や婚約者のいる相手ならなおさら、連れ合いの女性に配慮して距離を保つことが求められる。それが貴族社会の常識だから、アルくんは自ら王都に来た。普通の貴族女性なら、初対面の異性が近寄ることを拒否すると見越して。

 学院では貴族の子女による男女の垣根を越えた交流を推奨しているため、例外的に一部のマナーが省かれている。私は学院の外では貴族同士の交流をほとんど経験してこなかった。そのせいで教本に載っていない類いの行儀作法への意識が希薄だった。

 シキナ様へ向き直り謝罪する。私は「将来的にこの家の一員になる人間」ではなく、一時的な婚約者だ。そのことは彼女にも伝えられている。ユリウス様がご厚意で送ってくださるとおっしゃっても、私は立場を弁えて遠慮しておくべきだった。

「あの子、嫌がっていましたか?」

 シキナ様は瞬きを一度して、そう問いかけてきた。

「あの、水龍がですか?」

「ええ。嫌がっていなかったなら、大丈夫です。龍は、背に乗せる人を選びますから」

 案じることは何もない、と言うような陰りのない声で彼女は答えた。私は中へ入るように促されて、恐縮しながら進んだ。特に気にされていないように見える。でも、私はあまりに社交慣れしていない。粗相のないようによく考えて動かないと。

 シキナ様は持っていた本を戻しに本棚へ向かった。ダークブラウンの木製格子にガラスが張られた本棚だ。二段重ねで彼女の身長より頭一つ分ほど大きい。貴婦人の私室には珍しい大型の家財道具には、隙間なく本が並べられている。

「どうぞ、お掛けになってください。私は、あなたが訪ねてくださるのが嬉しくて、沢山お菓子を作りました。あなたのお口に合うか分かりませんが、よろしければ召し上がってください」

 彼女は窓辺のダイニングセットに戻ると、片側の椅子の背を引いてくれた。テーブルの上には水墨画のような淡い筆跡のスミレが描かれたティーセットが整えられていた。淵に金粉の散った皿には焼き菓子が乗っている。

「ありがとうございます。とっても、美味しそうです」

 ユミルでは身分を問わず、女性は相手に対する親愛の証として手作りのお菓子を振る舞う。そのため、学院の寮には調理室があったし、ゲームでは作成したお菓子を贈るとキャラクターの好感度を上げることができた。それなりに踏み込んだ行為とされるので、学院では女生徒みながお菓子を贈り合っているわけではない。私のように親友と呼べるような深い関係の相手を作らず、恋愛沙汰にも関わらない生徒には縁のない慣習だった。

「私は、王国のお菓子がとても好きです。焼くと幸せな匂いがすると感じます」

 ティーポットにお湯を注ぎながら、彼女は口を開いた。青灰色の輪に囲まれた黒い瞳が透き通った朱色に染まっていくガラスを穏やかに見つめている。爽やかな茶葉の香りと焼きたての甘い匂いが混ざって、一層深く吸い込みたくなるような空気が漂った。

「アルブレヒト様もすごく甘いミルクティーを飲んでいました。甘いものがお好きなんですね」

「ええ、子どもたちも、ユリウスも、何でもない日であってもケーキを焼くべきだと思っています。この土地の全ての人々にとっても、生きることがそうであるように、好きなものが食べられる生活であるように願っています」

 皿の上のお菓子はどれも綺麗で、見るからに作り慣れた人の手による品だ。縦長の帽子のように膨らんだスコーン、規則正しい線の刻まれたマドレーヌ、色とりどりのマカロン、スパイスの香るアプフェルクーヘン。アルくんが砂糖をふんだんに溶かしたミルクティーを飲んでいたのも、甘いものを食べ慣れていたからだろう。

 シキナ様の言葉選びには、一つ一つ手に取って、思案してから発しているような響きがある。そして、時々斜め下に視線を移しながら話す。その仕草はどこかで見覚えのあるものだった。

「レディ、とお呼びすると、私にはとても遠く感じます。お嫌でなければ、ロゼッタとお呼びしてよろしいですか?」

「もちろんです、シキナ様」

「ありがとうございます。ロゼッタ」

 私が返事をすると、彼女はほっとしたように唇を微かに緩めた。私は「ロゼッタ」ではない人間になってしまったのに、その声は「私」を呼んでいるように感じることが不思議だった。

「私は、あなたがここに来てくださって、私と話をしてくださることがとても嬉しいです。しかし、心配な気持ちもあります。無理にご自身の役目を受け入れていないか、ということが」

 ずっと、考えていた。歴史上では共にありながらも、今は王国とは離れた存在になってしまったミカグラの民にとって――彼女にとって、王都から来た私はどう映るのか。良い印象を抱かなくても無理はない。

 ロゼリジュのキャラクターたちの人生を追う過程で、私はアルヴァルディ領の支配者が移り変わってきたことも知った。王家の直轄地である時代もあれば、アルヴァルディ侯爵家が辺境伯の称号を戴いてその地を治める時代もあった。どちらにせよ、初代の氷の代行者と星宿の巫女のように、戦いの最前線であり続けた北端の地に支配者自身が定住した例はなかった。ロゼリジュでヴィルヘルムは王都の百合の騎士団に所属しながら、アルヴァルディ辺境伯家の嫡子として領内に出現した魔獣の対処に追われていた。辺境伯家の誉れとは王家を守る剣と盾であることで、領地を経営することではないようだった。騎士としてのアルヴァルディの誇りを私は否定できない。しかし、この土地を顧みず、支配者が変わっては自分たちへの扱いを変える王国の人間を、ミカグラの民が信用しなくなっていたとしても、無理からぬ話だと思う。

「運命の時が訪れたとしても、それを幸運とするか、非運とするか、自分で決めてよいものだと、私は思います。貴方がここに来たことが、運命に非ずと感じたならば、それはそのままに受け入れて、より善い道に進む方法を考えられるのですから」

 それでも、彼女が私に会い、話をすることが嬉しいと言ってくれて安心した。知りたいと思い、対話を選ぶことが許されるなら、特別なことができなくても誰かの手を取れるはずだから。

 ロゼリジュはとにかく行動を重んじるゲームで、会話の量、共に過ごした時間、相手に見せる態度で関係性が変わっていく。私はこの作品の、他者へ誠実に向き合い、相互理解を目指す構図が好きだった。乙女ゲームとしてはフラグ管理やステータス上げが大変で、周回にも時間がかかるから向き不向きがあると思うけど、神に選ばれた存在である彼らが特別ではない方法で絆を確かめていくところに、私は魅力を感じていた。

「私は自分の意思でこの城に来たわけではありませんが、婚約者に指名された方がアルブレヒト様で良かったと思っています。アルブレヒト様は私がこちらでお世話になるうえで、私の気持ちを尊重して、生活の保障をしてくださいました。なので、私もアルブレヒト様が大切にしていらっしゃるものを尊重したいと思っているんです。ですから、ミカグラの民の皆さんのことも、知りたいと思っています」

 ここへ来たことは少なくとも悪い運命ではないと思っている。いい運命、というと巻き込まれたアルくんに迷惑がかかる気がするし、私自身も偶然の巡り合わせという感覚でいるけれど。無理にここでの生活を受け入れたわけではなく、むしろ王都で「ロゼッタ」として生きるよりも自由でいられる。

「ロゼッタは裁縫が好きだとお聞きしました。私たちの間では、針仕事が上手なことが美人の条件の一つです。あなたのような女の子はきっと歓迎されます」

「あの、そのことで、よろしければお願いしたいことがあったんです。アルブレヒト様やユリウス様のマントの刺繍を教えていただきたくて。初めて見たときから、ずっと気になっていたんです」

「私は刺繍が上手ではないので、きちんとお教えすることは難しいと思います。でも、一緒に練習しましょう。あなたが好きなものを私も知りたいです」

 ユミル貴族には、レース編みや刺繍を趣味にする女性が多い。彼女の言葉が謙遜ではないとしたら、この城には王国的なステレオタイプを押し付ける人が居なかったということだ。それはとても貴いことに思えた。

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