一章 机の角の乱れ

 水谷は教室で騒ぐ男子を前にしてカラスを思い出していた。

 張りに入るとカラスはでかい声で鳴くらしい。巣に近づくと至近距離を飛びまわり威嚇をする。橋の欄干に留まるカラス、その玉のような瞳に寄っていったら唾を吐かれるようにして怒鳴り散らされた。

 クラスも同じ。縄張りの主張は笑い声だし、その群れの強さは声の大きさで決まる。実に動物的で嫌になる。

 内藤、町田、尾崎は三人でコントみたいなことをしている。そのコントのツッコミが強いだ何だで三人がもみくちゃになり始めた。ふざけんな、と怒号を飛ばしながら机の間を走る町田、へらへらと笑って走る尾崎。それを内藤が東や南島と共に手を叩いて笑っている。

 角のそろえられた机が、逃げ惑う町田の手によってずらされてゆく。追う尾崎がその机の間を広げてゆく。乱れた机の角の所有者はそれを見て笑っているけれど、気持ちの底は見えない。それを遠くで内藤が横目に見て、もう一度笑っている。その様子を見つけてしまい、気分が冷めてゆく。

 三人が暴れている反対側で水谷は粛々と文化祭準備を始めていた。少路はダンボールへ色を塗り、入江と高野もダンボールへカットを入れる線を描き、他の班へダンボールを渡していた。文化祭まであと二日ということもあり、作業は佳境を迎えていた。話をしながらでも皆手を動かして作業をしていた。

「今日天気悪いよね」

「…なんで急に天気の話よ」

 黒と濃いめの赤とどちらをか少路の筆が迷っている。

「いや、悪くない?天気」

「天気の話に付き合うほど暇じゃないのよ」

「じゃあ面白かった漫画の話しよ」

「水谷と漫画の好み合わないし」

「ちょっとつれなくない?」

「つれなくしてみた」

 意地の悪い表情で、目だけで笑っている。どうやら随分と機嫌が悪いようだった。それならば触れるのは止そうと手元の作業へ視線を向けた。それを見て少路が何を思ったのかわからないが、ごめんと一言謝罪した。別に気にしちゃないけど、と水谷は返答する。、

「そういえばさ、廃墟の絵だけど、結局文化祭二日前になっちゃったけどいつにしようか」

 気まずい空気を変えようとしたのか、先より温度があった。そんなに無理することないのにな、と水谷は思う

「文化祭の次の週の土日で良いんじゃない。土日なら荷物運ぶのにウチのお父さんが車出してくれるって」

 荷物を持っていくのは面倒だからと父親に無理やり約束を取り付けたのだが、

「いいよ。私らでやることだし、私らでやろう」

 些細な事だとでも言うように少路は言う。水谷は「そうだね」と同意して返したのだが、こうした自覚的に自立しようとしている少路の姿に水谷はどうも焦る。もうそんな姿勢で生きるのかと、まだ甘えても良くないかと思ったりする。けれど友達に置いていかれるような気がして口には出せない。せめて背中が見える位置にいたいとそう思う。

「聞きたかったんだけどさ、前皆で集まって壁に描くラフを考えた時あったでしょ。結局皆我が強すぎて決まらなかったけどさ。あの時思ったけど、水谷の絵、前より上手くなってたよね?」

 水谷の手元の作業を見ながら言う。

「少路と同じ。描き溜めたスケッチブック、大山先生にみてもらってるよ」

「そうなの?」

「偶にね」

「なんで黙ってるかな」

「少路みたいに漫画を投稿するって目標があるならいいんだけど。目標も無いのに描いている事を『何で』って思われるのが恥ずかしくて」

「いーじゃんそんなの。恥ずかしさが無くなるように百回くらい聞いてやろっか」

 言って直ぐに一回目を言い始めたので、水谷は「じゃかしい」と少路の額に指を突き刺して遠くへと押しやった。先までの機嫌はどこへ行ったのやら、だ。

「でも大山先生に見てもらう前からそれなりにかけてたよね?」

「それはお母さんが美大出てるんだけど、その方針か知らないけど昔から一緒に絵を描いてたの。中三まで毎年写生大会が家族行事としてあったし」

 水谷は幼い頃、写生に行くのは普通の事だと思っていた。そうではないと気づいたのは中学に入ってからだというのだから水谷自身、呆れてしまう。

「やっくんとお父さんも?」

「総出で」

 少路が珍しく素直に驚いている。が、それより何だか、引っかかるところがある。やっくんという単語だ。やっくん、て。我が家でやっくんなんて呼ばれるのは、水谷庵戸の兄、水谷躍(みずたに やく)以外存在しない。

「なんでウチの兄ちゃんをやっくんて呼んでる?」

「言ってないけど」

「言った」

 澄ました顔で言ってのけたのは合格だけど、水谷は引く気はない。

 沈黙。

 その間、少路の瞳を抉るように覗き込んでやる。

「いやー、前にあった時に連絡先聞かれて」

 我慢できなくなった少路は大きく息を吸うようだった。少路にしては珍しく端切れが悪い。

「聞かれて?」

「偶に、ごく偶に連絡なぞとったりしてまして」

 水谷は何と返したものかと思案したが、沈黙に耐えられないと言ったばかりに少路は捲し立てるように、

「水谷さんて言ったら水谷と被るじゃん。だから躍さんて呼んでた縁だけどやっさんの方が呼びやすくなったの。でもやっさんて呼ばれるのは嫌だって言うからやっくんて呼んだのが始まりで……」

 なにそれ。やっさんでいいじゃん。どんなこだわりよ兄ちゃん。

「いや、いいんだけど。別にブラコンじゃないし。ただ二人とも何も言わないし。なんか、なんか複雑だわ」

「い、一回言いそびれたらさ、やましい事とか別にないのに言いづらくなっちゃって」

「それで、付き合ってるの?」

 一応、こればっかりは妹として、友人として聞いておかなければならない。

「してないしてないそういうんじゃないよ。本当に偶に連絡が来るくらい。内容だって水谷の体調心配する事ばかりだし」

 少路は面白いくらい盛大に狼狽した。

「私の体調?」

「ほら。前、ダリアの過敏症で水谷が気持ち悪くなって動けなくなった事あったじゃない。あの時やっく、お兄さんが迎えに来たでしょ。だから偶に水谷の様子を心配して連絡が来るの。お母さんに頼まれるんだって」

 前に四人で遊びに出た際、少し背伸びをして個展に入った事がある。入江に画像を見せられる程度なら大したことはないのだが、四方を囲まれてしまったら体調の制御がいっきに乱れてしまった。確かにあの時兄ちゃんが迎えに来てくれた。俯いて吐き気を押さえている水谷に少路と躍や高野と入江がどんな言動をしていたのかなんて知る由もない。

 それならばとこれ以上追求する事は止めた。水谷は関係をはっきりさせたかっただけだ。別に二人がどんな関係性を築こうが本人たちの勝手だ。

「でもいいよね、仲良くて。ウチはお姉ちゃんも私もやりたい事にしか向いてないから全くお互いを理解してないよ。来年起業するって言い出してさ。両親はそれについていけなくて右往左往してるんだけど、そこへ私が漫画家とか言ってるから毎日騒がしいよ」

「漫画は理解されない?」

「当面は成績さえ落とさなければって感じ」

「少路は落とさないね」

「ホント大変だよ」

「なのに廃墟の絵、参加するんだ」

「楽しそうじゃん。コンクリの壁に絵描くとか普通できないでしょ。私美大とか行くつもり無いから今後そんな機会ないだろうし」

「え、じゃあどうするの?」

「大学行くなら漫画家を目指すのを応援するって言われて、散々揉めたけど行くことにした」

「学科は?」

「決めてない。とりあえず漫画描く時間稼ぎだから」

「プロになれなかったら?」

「そりゃ観念して就職するしかないでしょ。親が言うには大学はその為の保険だし」

「いいな」

「何にも良くないよ」

「いや、そうやって掛け値なしに打ち込めるものがあって羨ましい」

 本当にそう水谷は思う。この先胸の内に将来への希望が形作られることが有るのか。ひと月後に進路表を提出しなければならない事を思うと憂鬱になった。

 この文化祭展示の準備をするにあたっていくつか諍いがあった。そして今日もまた小さな火種が教室で燻っていた。

「ねえ、この色って何色?」

 作業始めの喧騒は落ち着きをみせ、それぞれが役割を果たす為に黙々と作業に勤しんでいた頃、他の班から回ってきた疑問があちこちの班を伝播していた。

 眼鏡を上げた少路が、隣の班の子と図案の描かれたクロッキー帳を覗いていた。基本的にざっくりとした指示なのだが偶に過剰に思える拘りがある。

「ヘリオルブルーってどんな色?」

 少路は近くにいた水谷を呼び、クロッキー帳を指差す。しかし水谷も首を振る。それから一番の大物に取り掛かっている入江と高野に声を掛ける事になった。

「知らない。ブルーはブルーじゃない。ダンボールに塗るのになんでもいいでしょ」

「知らない。ブルーはブルーだし。所詮は文化祭の飾りに些細な拘り出しても仕方ないでしょ」

 入江も高野も同じ意見だった。

 図案がぐるぐる巡り、ざわついた空気を察してか、東が席を立って寄った。

「ちょっと、ちゃんと指定通りにやってよ。こっちで色見本を見ながら頑張って配色したんだからさ」

「それじゃヘリオブルーっての持ってきてよ」

 高野が即座に反応する。

「美術室にあるんじゃないの。ってか美術部だったら知ってるでしょ。色くらいさ」

 高野の言い様が気に入らなかったのだろう、東は苛つきを隠さない。次いで、

「本気でやってるんでしょ。コンクール出すんだって?」

 嫌な顔だなと思った。明らかな挑発だった。

「あんたに関係ないだろ」

 高野が立ち上がり、東へ詰め寄ろうとした。

「おいおいあんま熱くなるなよ。色見本見せるからさ、もし美術室に無いんだったら似たような色でいいから作ってよ。こっちもせっかく色選んだんだからさ」

 間に入ったのは内藤だった。しかし、高野の熱は収まらない。

「だから、文化祭の飾りの色にそこまで拘らなくたっていいでしょ。手間もかかるし、こっちも手一杯なの」

「そんなに言うならそっちで作ればいいんじゃない。出来たら私ら塗るよ?」

 入江も高野の後に続く。

「それができねぇから頼んでるんだけど。美術部さんさ」

 矛先が自分にむけられ、内藤も次第に苛つきを見せた。周囲からも入江や高野の意見に賛同するような小さな後押しがあり、内藤は黙らせるように舌を打つ。その不穏な空気の中、間に割って入った男が居た。

「もうやめろよ、内藤。俺もそこまで拘らなくて言いと思うよ。色作る時間もかかるだろうし。お前らが頑張ったのは分かるけどな」

 橋詰藤太だった。橋詰はグループ間に隔たりなく話をする数少ない人だ。けれど内藤は誰が言おうが、その内容に意も介さない。

「いやお前みたいなのに頑張り認められてもな。つかお前どっから湧いたんだようぜーな格好つけてんなよおい」

 前を遮る橋詰の肩をおし、東凪の手を引いて机へ戻ってゆく。

「あいつらダルいわ」

 席についた内藤が仲間へ、そして教室全体に聞こえるように言う。

 高野は髪をクシャクシャにして「気色悪いわ。何この感じ」と機嫌の悪さを隠さない。

 入江が橋詰に礼を言っている間、水谷はまだ怒りを収められていないであろう高野の服の端を引いた。

「ごめん、高野。私も加勢できたらよかったんだけど」

「なんでよ。適材適所でしょ。私等そうやってやってきてんじゃん」

 高野の言い様にはまだ怒りが含まれていた。ともすれば威嚇のような物言いだったが、水谷はそれを言葉のまま受け入れた。少路も不安そうだったが、胸をなでおろした様子だった。

 日に日に濃くなってゆく不穏な空気は秋の空気に似ている。薄ら寒くて期待より不安を誘っているような。とはいえ展示物の制作は一応進みはしていた。各班毎の繋がりはともかく、それぞれの班の中では和気藹々と作業が行われていたからだ。全体としてどうかと問われれば不穏そのものではあったのだが。

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