二章 準備室と先生

 久しぶりに雨が降った。

 そんなはずはないのだが、夏休みに台風が来てから暫く雨が降っていなかったように思う。久々に雨を浴びたら冷たくて、風が熱を奪ってゆく。

秋が、始まっていた。

 薄暗い美術準備室で朝から止まないゆっくりとした雨を水谷は眺めていた。

 今日、美術部は休みの日だったが、四人は集まって思い思いに過ごしている。

「先生さ、退職っていつだっけ」

 雨を眺めていた水谷はスケッチブックを相手にしている大山渓の背中を覗く。

「今月末かな」

 大山は集中しているのだろうスケッチブックから顔を上げずにぼんやりとした声で言う。

「もっと学校にいたらいいのに」

 と入江。

「そうだよ。男におんぶに抱っこって時代でもないでしょ?それとも玉の輿?」

 大山は重そうにじわりと首に力を入れて高野へ向く。その後、疲れたと言わんばかりに大きく伸びをした。

「別におんぶに抱っこで辞めるわけじゃないよ」

 面倒臭そうに大山は口を開く。

「もともとさ、教職についたのって職にあぶれない為に職員免許取ったからで、さして興味があったわけじゃないんだよね。不景気続いてるし公務員でいいかなって思った程度だからさ」

「わ、教師ってそんな感じで目指すの?」

 入江の素直な気持ちだったのだろうけれど、少し挑発的にも聞こえた。そしてそれを受けたように、

「あ、そういう反応?純粋だねえきみぃ」

 大山は嫌らしい流し目で生徒を睥睨する。

「ま、私はってだけだけど。志高い人ももちろんいるよ。でもそんな人ばかりのわけないじゃん。それに現実みてやる気失くすっていうか、なんとなく温度の低さになれちゃったりもするし。まあ教職に限った話じゃないんだろうけど」

「だから辞めるの?」

「そう、だから辞める」

 少路が聞いて、大山は堂々言った。その姿勢に皆一様に面食らい言葉を失った。

「なーに、納得いかない?まあ結果的にはそうなんだけど。辞めようかなって思ってたらやりたいことがたまたま見つかってさ、副業始めたんだよね。公務員副業禁止だけど。そんでぼちぼち利益出てきたし、入籍したしでタイミングいいかなって。ま、やりたいことみつかってなくても多分辞めてたけどね」

 それぞれの反応を確認しながら大山はゆっくりと心情を伝えてゆく。

「なんだろ、人を相手にする職業って私にとっては大変でさ。それも社会に出てないコドモ相手になると」

 大山の試すようなからかうような言い様が楽しくなって「だってこどもだもーん」と言い返す。大山はその反応に微笑むと、訥々と続ける。 

「境界線を引かなきゃいけないのよ。教師は生徒に平等に接さないといけないからさ。なのに生徒によってはその境界線を越えて立ち入らななければならなかったり、君達みたいに駄弁りに来られたらさ、境界線なんてぐちゃぐちゃになっちゃうでしょ。教える生徒の年齢は変わらないのに私たちは年を取っていくし。対生徒にとれる方法が経験によって増えることもあるけれど、今までのやり方じゃ通用しなくなることもある。関係の構築に失敗しても毎年リセットできるけど、せっかく築いた関係性もまたイチからでしょ。なんだかそれも大変でさあ。まあ私にゃ向いてなかったんだろうね」

 目にかかった髪を耳へと掛けると大山の両の目が明らかになった。ふと、最近一段と綺麗になったなと思った。肌は綺麗だし、髪にも艶がある。それに加え、目に見えてスタイルがよくなった。結婚式の姿を見てみたかったなと水谷は思う。きっと滅茶苦茶綺麗だっただろうから。

「境界線がぶれると何が問題なの?」と入江が問いかけた。 

「嫌いな奴も出てくるしさ」

 四人の生徒を見て言う。

「可愛くなっちゃうじゃん。本当は叱らなきゃいけない事があってもまあ今日はいいかって思ったりもしちゃうんだよ。こんなに面白いことがあったんだよって報告したくなっちゃうじゃん。でもさ、私は教師だから、私が初めに決めた教師たる理想像はそういうことはしないから。だから辞めるの」

「先生本当に保険で教員免許とって教師になったの?」

 もしかしたら大山先生の言っていたことを少路が一番信じていないのかもしれない。大人に懐くような子ではないのに、漫画のストーリーの相談を唯一していた相手だ。その付き合いの中で大山渓という先生の人柄を知っているからこそ、質問せずにはいられないのだろう。

「そうだよ」

 それでも、大山の答えは変わらない。

「嘘つき。それだけでってわけないよ。幻想標準世代なめんな」

 少路が涙を溜めて言った。

「先生感謝してるからね。落描き事件の犯人が私達じゃないか疑われてた時庇ってくれたこと知ってるからね」

 入江も泣き出しそうだった

 根拠なんて無いのに庇い続ける大山先生が教師達の中でどんな立場にあったかなんて想像に難くない。

 あの日職員室から出た処に立っていた大山の姿を思い出して水谷の目からも涙が溢れた。そして水谷の横では高野が誰よりも盛大に泣いていた。

「何、いいよ。私教師だし。ただあなた達が大人になった時同じように自分より下の子が理不尽に晒されそうになった時、信じてあげてね。優しいあなた達ならきっとそうするんだと思うの。でもね、現実って結構そうするのに容易な状況でなかったり、環境が許さなかったり肝心な何かしらが揃っていない事ってあるから。そういう時でもね、躊躇ってもどんな形でもいいから手を差し伸べてあげてほしい」

 真剣な眼差しで、優しくて、そして強い。こんな大人がもう二週間もしたらいなくなってしまうのだと考えると凄く心細かった。

 先生からは色々教わった。中には未だ納得していない事もある。けれど恩師は最高に格好良い大人だった。

「あ、高野と入江はコンクールに関しては一応次の担当の先生に引き継ぐけど最後まで面倒みるから。水谷のスケッチブックもみるし、少路の相談にものる」

 いつもの汚れた鼠みたいな椅子から大山は立ち上がった。

「さて、私は職員室戻るわ。あ、最近いろいろと治安悪いからあまり遅くならないように帰るんだよ」

 大山は口早にそう言うと、気恥ずかしそうに後髪をくしゃくしゃとやって踵を返した。

「それと帰る時は鍵閉めて職員室持ってきて」

 そう言い残し、準備室を後にした。


 誰も声を発さなかった。先より雨脚が強くなった気がする。あたりも暗くなってきた。水谷は明かりをつけるため立ち上がる。

 少しだけ温度が上がるような明るさが教室に灯り三人の表情が明らかになる。

 皆んな目が赤い。鼻をすする音が聞こえる。視線を合わせたことで泣いた顔を見られるのが恥ずかしくなったのか四者それぞれ明後日の方を向いて涙を拭いた。

 四人は再度顔を突き合わせる。

水谷は一歩前に出て意思を発する。

「提案があるんだけど」

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