二章 チョークを立てる
昨晩「明日の朝は早く起きるからお弁当はいらないからね」と母に伝え「早く起きて作るからいいよ」と返ってきた言葉を信じて起きたのだが、家を出る段になってまだ寝間着姿の母に謝罪の言葉と共に千円札を受け取った。
まだ少し薄暗い朝に人の少ない電車に乗って、学校へ続く道へと出ると、ゆっくりとした足取りの高野の背中があった。
おはようと声をかける。おはようと眠そうな声が返ってくる。
それもそのはずだ。現在時刻はまだ六時になっていない。いつもより二時間程早い登校だ。
「眠そうだけど大丈夫?」
「今だけだから。筆握れば集中するから安心して」
「まあ今日はチョークだけどな」
分かっている、というように高野は水谷の肩をはたく。
「今日も全力で描くから」
眠そうな高野に挑発的な視線を送ると「上等じゃん」と瞳は相変わらず眠そうだったが口元は楽しそうに弧を描いた。
学校へ到着すると門も昇降口も全て鍵が開いていた。
二人は靴を履き替え、廊下に出る。当然だけど長い廊下の突き当たりまで誰もいない。二人はいつもと同じように階段を上って教室を目指す。
クラスにはカバンがすでに二つ置かれていた。少路と入江はすでに到着しているらしい。
美術室へ向かうと、エプロンをかけて準備する少路と入江、そして体育教師の猪俣がいた。猪俣は二人の顔を見ると静寂を割く声量でおはようと発した。
猪俣って男は声がでかくて身体もでかい体育教師で、学内の風紀を取り締まる役目を負っている為あまり良い印象を抱いたことがない。だから、先日大山先生の休みを見計らって朝早く登校したいから鍵を開けてくれと職員室へお願いしに行った時に手を挙げてくれると水谷は思っていなかった。
「お前らよくも、こんな朝早くから自主的に集まるよな」
「先生こそ、なんで鍵明けにきてくれたんですか?こんなこと言っちゃせっかく来てくれたのに悪いんですけど、こういう事に手を貸してくれる印象がないんですよね」
まだ頭が眠っているからなのか高野はやけに尖った物言いをし、水谷は朝から面倒は勘弁してくれと思いひやひやする。
「役割が役割だからいつもは厳しいことを言わなければならないけどな、お前らは別にルールを破っているわけではないだろう。職員室に相談にきて、勝手にやっているわけでもない。なら、俺は応援するさ」
高野はふうん、とあまり納得していない様子で返事を返した。
「ちゃんとしている奴等には注意される奴等とはまた別で鬱陶しいと思われている事は知っているさ。だけど大勢を管理してゆく上でこれがルールだと声高にしないと、統制が取れなくなるだろ。お前らならそれが分からないわけじゃないだろ。たくさんの生徒がいるから屁理屈を言う奴もいるし間違った事をする奴もいるからな。基準を提示し続けなければいけないんだよ。けどあくまで基準は基準だ。感謝を伝えようってことや挑戦しようってことを止めさせるようなことはしていないつもりではいるんだけどな」
猪俣はでかい図体を出口までもっていくと、
「始業十分前までに終わらせろよ。HRに支障が出ると今後こういうことが出来なくなってしまうかもしれん。それがどんな理由であれだ」
それから扉を閉める直前、
「お前らの絵、楽しみにしてる」
と言い残して去っていった。エプロンを結ぶのに気を取られていた水谷はそれを言った猪俣を見る事は出来なかった。
「朝っていいよね。やる気が出る」
入江がチョークの準備をしていた。
「そう?私は夜の方が絶対良い」
「私も朝苦手だな。昨日終わらせられれば良かったんだけどね」
高野に少路が続く。
「思ったより時間かかるもんだね。一応今日も許可もらっておいてよかったよね。もうちょっと練習出来れば良かったんだけどな」
昨日までの作業を眺めながら入江が言う。
「仕方ないよ。水谷が言い出したのが丁度二週間前だったんだから」
美術室の南端に掛けられた黒板には多色のチョークで塗られた描きかけの絵があった。昨日の放課後に描き始めたは良かったが慣れないチョークでの絵に二時間描いても描き終えることができず、下校を迫られた結果猪俣へ頼むこととなった。チョークでの練習は何度かしたが如何せん慣れないツールの為時間が読めなかった。それでも完成までもう少しの処まで来た。
四人はエプロンを掛け準備を終えると、それぞれが自分のポジションへ向かう。準備は出来たと謂わんばかりに制服の袖をまくり、誰かが描きだすのを伺っている。
「じゃあ描くよ」
威勢の良い入江の号令から一斉に黒板へとチョークを突き立てる。
何を描いて、どんな構図にするかは四人で決めた。学校校舎の引きを背景に、大山夫妻の結婚式の写真を参考に夫妻の胸部までのアップを入れ、花の咲く枠にメッセージを添えた。
描き始めれば眠そうにぼんやりとした奴は誰一人いなかった。恩師の笑う顔が見たい一心で。いつか学生時代を振り返る事が少なくなっても、先生の事を年に一度思い出せば良いくらいであっても、思い返す回想の起点が今日であるような日にしたい。
水谷は挙げていた腕を一度回し、逆の手で水を手にとった。ふと教室の外を見ると教室前方の出入り口から腰窓まで人で埋まっていた。ちょっと前までは騒がしいなと感じていたが、静かになったから一目だけ見て去っていったのだろうと思っていた。
でも実際は二十人くらいが、固唾をのみながら見守っているという雰囲気だ。実際見入るのもわかる。完成に至っては居ないもののもうほぼ完成に近い状態で我等が事ながら出来が良いと水谷は思う。練習と比べても成果がでているし、構想通りの絵になっていた。
水谷は人垣を見渡すのもそこそこに、他三人の進捗を確認する。四人それぞれ描く箇所を分担していたが、練習通り絵のタッチも合って異物感もない。廃墟に絵を描いた時はそれぞれ別の絵を好きなように描き殴ってそれはそれで楽しかったけれど、一つの絵を目的の為に描くのは凄く楽しい。チームワークで作り上げるということが、色々なものを共有出来ている事が心地良くて、もうすぐ描き終わらなければならないのにもっと描いていたくなる。
再び取り掛かろうとしたその時、視界の端に東が居るのを捉えた。捉えたものの関係ないと頭を振り、ずり落ちた袖をもう一度捲リ上げた。あと少しの完成へ向けてチョークを握る。
喧騒は遠く、周囲は静かだった。ただカツカツカツと黒板を突く音だけが響く。
水谷は自分の箇所の仕上げに問題は無いかと最後の確認に入った。小さくなったチョークをもう一度握り、気になった処を細かな修正を入れていった。その時だった。
パチパチパチっと丁度教壇まで届くぐらいの、何かが弾けた音がした、ような気がした。気になって手を止めると他三人も手を止めて音のした人垣を振り返った。
完成を見届けようと場に留まった生徒達も突然の音にざわめいていたが、その中で一人だけ、東凪が放心していた。他三人も一人だけぽつんとしている東凪を不思議そうに見ていた。漸く視線が集まっていることに気づいたのか、東はすぐに顔を背けて場を去ってしまった。
気を取り直して再開になるかと思ったが、皆もう細かく付け足している程度でそろそろ完成で良いのではないかとの話になった。水谷は改めて自分の仕事を眺めて同意した。
完成、とその言葉が教室の外まで伝わると、大きな拍手を貰った。長いこと拍手をされていたのだが、流石に気恥ずかしくて四人揃って一礼する事で波は小さくなっていった。。
写真撮影が始まった。一言あって真正面から撮る人もいれば、遠巻きに取ってゆく人も居た。それはそれで嬉しかったが、一番見て欲しい人がいて、感謝を伝えたい人が居た。HRまであと二十分だった。
入江が大山先生を呼びに行こうと言った。今日で最後。もう授業もない。大山先生はただ退職にあたって片付けや事務作業を行う為に通勤するのだという話だった。
四人は人混みを脱し、急いで職員室へ向かった。猪俣に完成の報告と礼を言った後、大山の背を押して美術室へと戻った。そして、これまでの最大の感謝と、「大好き」を伝えた。
それから涙を浮かべた、一番望んだ大好きな人の笑顔を見た。
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