二章 兄
「兄ちゃん」
「どした」
「聞きたいことがあるんだけど」
リビングに一人アイスを食べながらスマホを触っていた水谷庵戸の兄、水谷躍が顔を上げる。
「なんだ、狐につままれたような出来事にでもあった?」
「まあ、似たようなものかな。ねえ、魚とか大鍋以外の幻想って存在するの?」
「そりゃなあ。海外の幻想拠点はジャンルに縛られない幻想で混沌を極めてるだろ。ニューヨークなんて悪魔天使何でもござれの大魔京だ。確かに豊島区幻想は海洋生物くらいしか出現しない、世界的に稀有で統制の取れている幻想拠点なんて言ったりするよ。けど、基本的に視覚としての幻想はなんでもありだ。幻想が魚や大鍋くらいだと思ってしまうのは統制が取れすぎているが故だね。不思議に対して幻想って断言しないのは日本くらいさ。海外ならヒャクパ断言するよ。ま、幻想の介在しない不思議なんていくらでもあるからさ、それはそれで正しいんだけど」
なるほど、と水谷は思う。そして同時に入江の顔が浮かぶ。入江は割りとそういう考え方に近かったように思う。だが彼女は単に幻想が黒幕だ!と叫ぶ程短絡的ではなかったが。そう思うと、そんなに意外には思わなかった。
「それじゃアブラムシの幻想っている?あ、アブラムシかどうかはわからないんだけど」
躍は残ったアイスの棒を前歯を使って滑らせて飲み込んだ。
「いや、十中八九蚜虫(アブラムシ)だろう。起きた現象と虫の習性を重ねてしまうものでさ、幻想標準世代の幻想に対しての直感的判断って往々にしてその通りなんだよ。だから直感で蚜虫だと判断したのなら、庵戸の思った通りであってるよ。蚜虫は境界に住む虫で、その境界の死守が幻想としての蚜虫の習性だよ。ま、幻想原理とも言うけどな」
水谷は躍の言う言葉をゆっくりと咀嚼して飲み込む。
「幻想って…視えない幻想を視たり触ったり出来るの?」
「幻想の特性によるな。五感で干渉できるかはそれぞれ幻想の持つ特性、つまりは幻想原理によるんだよね。スカイフィッシュは触れないけど視えるだろ。でも幻虫は蚜虫みたいに活動が活発になるまで見えない種もいる。けどまあ幻想原理に関係なく道具持ったり訓練積んだりすれば干渉する事が可能だったりはするけどな。ビヨンドの発生は昔っからあちこちにあるんだよ。民話に残る悪霊退治や妖怪伝説もその一つだし。今も話題に上る都市伝説や学校七不思議なんて異聞奇譚は幻想による部分も大きい。そういうものに対峙してきた歴史を持つウチみたいな大学の研究室だとか、近場で言えば神社の係累なら、干渉する事は難しい話じゃないさ」
「東神社とか?」
「あそこは国から豊島区幻想の最奥、裂けた大穴のある禁測地の管理を任されてるからまず間違いなく可能だよ。で、もし東の姓を名乗っているのだとしたら決定的じゃない」
「飼ったり云うこと聞かせたりは出来る?」
「飼うっていうとちょっと違うけど、あいつらは境界に住むって言ったろ。人の持つパーソナルエリアに放てばその境界に住みついて、蚜虫は住みやすいようにその境界線を維持する。人は居場所を提供し、幻虫は居場所を心地良くする共存関係を築くことは可能だよ。東神社の古臭い言い方で言えば幻想に『憑かれた』状態ではあるけどな」
水谷は一度考え、そしてやはりわからなくなっている己に気づく。
「根本的な話して良い?幻想って何?」
『幻想』と言うと十年前に出現した知らない事の多い存在の話なのだけど、水谷にはどうもフィクションとして聞いたことのある存在に思えて仕方がない。
「昔でいえば悪霊だとか妖怪とかそういうの。スカイフィッシュも幻虫も昔で言えば全部そういった類に括られるよ」
躍の言葉にふわっとしていた幻想に対してのイメージが今まで聞いたフィクションとして見聞きしてきたそれにピタリと当てはまり、幻想が出現して十余年にしてやっと形を得た。
「それが、裂けた大穴から現れるの?」
水谷は聞くが躍はあーと口を大きく開けて天井を仰ぐと、面倒臭そうな顔をして「そう考えておけば良いよ」と頷いた。水谷はじっと躍を見つめるが、躍は突っ立ったままの水谷をよそに三人がけのソファーに思いっきり寝転がった。
「そろそろ本題に入ろうぜ。誰かのエリアに蚜虫を見つけたって話だろ?」
気にはなっていたが誰もハッキリとした答えを知らないものだと思っていた。確かに躍も日常会話からその手の話に詳しい事は察していたが、改めて躍を前にして頭に浮かぶ質問もなかった。当たり前の事に対して疑問を持つのは、それが何かしらの理由から目の前の壁として立った時だけなんだ、と水谷はたった今実感に至る。
話題に後ろ髪引かれる思いはあるが、確かに本題はそこではない。
「この間文化祭での落描き事件、お母さんから聞いた?」
「ああ。今流行のアンハッピーサインだろ。大変だったな」
「うん。でも、私はそのアンハッピーサインを描く側の人間だからさ。あれの意味知ってる?」
「内在する不満だろ」
「凄い、よく知ってるね」
「まあ、上っ面程度ならな」
躍も幻想標準世代と言われる世代かだったがそれに関係なく昔から様々な感覚に優れていた。
「あれ見てね、すごいなあって思ったの。SNSみれば『凄く共感しました』ってそこら中に書かれてて、同じ様に思いながらも、一方でなんだかはしたないなって思ったりもするの。だって誰かの言葉に救われるより自分で悩み抜いて想像し続けて、考え続けて出した答えがもしかしたらあったかもしれないでしょ。自分で自分の答えを見つけたのだとしたら、それは小さくても確かな自信になるじゃない。なのに、与えられた答えに喜んでいるだけにしか思えない『凄く共感しました』にはやっぱりはしたないって思っちゃうの」
正直アンハッピーサインの主題から意図に気づいた時、情けなくもあった。今救われなくても水谷自身がその悔しさをわかっていれば良いと思っていたから。自身と友達の力で毎日乗り越えてきているという自負に変えていたからだ。それが、共感によって少し救われてしまった事を情けなく思ってしまった。
「だけど共感てやっぱり必要だからら。音楽だって、音楽自体が助けてくれるわけじゃないけど、でも変化の入り口に進む力だったりするでしょ。だって今日を生きる力になる。持続する様な決して強い力じゃないけれど、同じ思いを持った人がいるのが分かると頑張れるの。アンハッピーサインは私にとって鼓舞だったから。だから情けないけれどこれでいいのかなって。あとはもう今まで通りやっていけるって思ったの。でもさ、虫がなんでか視えちゃって、さ」
「せっかく仕方ないなって思えたのにさ。幻想はズルじゃん。だってそうでしょ。個人の持つエリアなんてしょっちゅう人と触れ合うわけでしょ。人と人とが今持ちうる能力によって結果が出るわけじゃん。もちろんその結果が穏やかな結果になることもあるよ。でもそうではなくて押しのけて思いを通したり拒絶することを目的にするのなら、そしてそれが幻想のお陰で叶うのだとしたら、納得いかないじゃん。それに、ただ楽をしたいだけなのなら、もっと納得がいかないじゃない」
もともと東の傲慢な態度が好きではなかった。でも傲慢な有り様は良い思いをする事はあるかもしれないけど、恨みや反感を買うこともあるだろう。利益を得る為に水谷に真似が出来るかと言われても出来ないわけで。そう思えば目を瞑って耐える事も出来た。けれど、マイナス部分を負うつもりはなくて、楽をしようっていうのは納得がいかない。けれど。
「で、どうする?」
躍は水谷を水に言う。
「どうもしないよ。どうも出来ない」
「そうか」
そう、けれど、水谷には何も出来ない。だからどうもしない。
もう一本アイス食べちゃおっかな、と水谷の意気を受けても躍の様子は変わらない。
「ああ、だけどさ、どうやったら虫を殺せるか知ってる?」
虫を、なのだけれど水谷は自身の喉から発せられた殺すという単語に我が事ながら驚いた。
「アン、もうすぐ中間テストじゃなかった?」
躍は二本目のアイスに齧りつき、前歯が痛いと騒いでいる。その仕草にも関係のない話を持ち込まれた事にもイラつき舌打ちが出た。
「そうだけど、それが?」
水谷の心情を悟り落ち着けと躍は諭す。
「蚜虫ってのは外圧に対して抗う力を持つけど、あいつらの許容を上回る力を与えると消えちゃうんだよ。つまり、蚜虫の内側の人間が持つ雰囲気や空気ってものを別の雰囲気で押し潰せばいいわけさ。テストの日ってなんかちょっと違うじゃん。自信に満ちた奴もいるし、自信なさそうな奴もいるけどさ、仮にも進学校だし、皆テストに対して真剣に取り組もうとしているだろ。机に座っている時点ではへらへらと余裕を見せている奴だって、教室にテスト抱えた教師が入ってきて配られれば顔つきも変わっていつもと少し違うピリッとした空気が教室を覆う。四十人全員が真剣になることなんてそうそうないだろ。全員が平等に試される場で全員が衒いもなく真剣になっても良い場で、ならざるを得ない場なんだ。その大人数での真剣さが蚜虫を殺すんだよ」
「なるほど、ね」
真剣さを相手に押し付けることが出来ればそれで蚜虫は消える。
「まあテストになればそのうち消えてゆくだろうからさ、あまり気にしない方がいい。それにテストを逃しても現代社会、人と有ってストレスを感じないように生きるなんて不可能だからね。自然と蚜虫も削られてゆくさ」
ありがとう、と水谷は礼をいう。アイスを食べ終えた躍は台所の流しに棒を捨ててもう一度ソファに背を沈めた。
水谷は部屋に戻って躍の言ったことを考えていた。真剣さ。人を選ばず真剣さを出すと嘲笑われたり馬鹿にされたりするようなそんな空気感がある。羨ましいのか嫉妬なのか、真剣さをスカして笑うようなそんな雰囲気。だから誰も表立って真剣になれなくて、だから一人で真剣になるか本当に信頼のおける友達の間でしか真剣さの共有はない。
ただ、見せつけられればいいなと思う。文化祭の壁一面に塗り立てられたアンハッピーサインのように。私も見せつけられたら良いなと天井をみつめてそう思うのであった。
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