一章 準備室と生徒

 今年度、一年生に混ざって二年生から仮入部届けが出された。美術部に在籍する高野充と入江比奈が二年になって同じクラスとなった少路柚木と水谷庵戸を部活に勧誘したらしい。がしかし、もう九月も終わりと言うのに未だに仮入部のまま美術準備室に入り浸っていた。そのことに対して高野も入江も特に不思議がる事も、正式に美術部員になるよう強く言う事もないようで、美術部顧問の大山渓(おおやま けい)の悩みと言えば悩みだった。件の二人は今日も美術準備室へと足を運び机に座っている。一人は漫画を描き、一人は小説を広げている。


「君達さ、いい加減本入部決めたら?」


 書類づくりに飽きてつい口を突いて出たのはもう何度目かになる勧誘だった。


「嫌です」


 水谷は読んでいた本から顔を上げて大げさに表情を険しくする。


「でも仮入部なんて、それもニ年になって半年もするものじゃないよ」


「嫌なものは嫌なんです」


「何でよ」


「本気にならないから居心地が良いんです」


 水谷は躊躇いなくはっきりと言い切った。大山は水谷を困ったように見つめ、


「ぬるま湯に浸っているだけじゃないの」


「ぬるま湯だから心地良いんじゃないですか」


「宣言するな。そんなしょーもないことを」


「言葉の上でそうだと言っているだけで、宣言て程に気持ちは込めてないですよ」


 大山は困った表情を更に深くする。こちらは埒が明かないと判断し、もう一つの山へと手を掛ける。


「じゃあ小路はどう?」


 問いかけられた少路はネームを描くのをやめるとゆっくりと状態を起こすと、水谷に並んで作ってますと謂わんばかりの渋い顔をした。


「私等って一緒にいるけど、別に一枚岩ってわけじゃないんですよ。行動と意思が結果的に一緒になることが多いってだけで」


「それなら、入部する?」


「でもやっぱり結果は一緒なんですけどね、たまたま」


 大山は盛大にため息を吐く。皮膚粘液を纏った魚類のように言葉の間をすり抜けてゆく。面倒臭くて、扱いづらいし、分かりづらい。大山は退職するまでに二人の入部を決めさせようと考えていたのだがどうやら難しそうだという結論に至った。


「言っておくけど、他の先生にそれじゃ通用しないからね」


 大山は自身がいなくなった後の準備室に水谷と少路がいられるのかが少し不安に思っている。大山の退職の日までもう数カ月後まで迫っている。結婚で退職。後任の先生には伝えてあるがいつまでこの状況を許してくれるのかは分からない。だからせめてもうちょっと扱いやすそうな生徒をやってくれると助かるのだけど、と思うが口には出さない。ただ何を考えてるのか分からない生徒のつむじをじっと見つめるだけだ。


「先生本当に辞めるんだ」と水谷がつぶやいた。「そんなに結婚相手が良いんですか?」と少路が続く。


 大山はどう言葉を選ぼうかと考えていると、


「私達よりも?」


 水谷だ。先の質問の答えが読めたのだろう、より答えづらい質問を重ねられたが大山は笑いながら躊躇なく頷いてみせた。


「あーもうやだ。やってらんないよね、少路。もうやってられませんよ」


「同意」 


 水谷が大きな身振り天を仰ぐ。


「忘れるよ、教師のことなんて。たまに思い出して十年、二十年に一回くらいは会っても良いかなと思う程度だもん。それに実際に会う機会も同窓会程度でしょ。他人同然だよ。なにせ私がそうだから」


 そう、大抵の人間にとって教師とは思い出で、関係が続いてゆくことは稀だしそれで良いのだと大山は思っている。


「大人って直ぐ先の話をするよね。それに未確定の出来事を経験で抑え込むのはズルいと思う。持ってない経験について言われたって黙るしか無いじゃん」


 押し黙った水谷の後を少路がバトンを継いだ。自分たちが大人として、気にせず見逃していることに平気で足を踏み入れてゆく。その豪胆さと無謀さを羨ましいとは思うまいと、ゆっくり裏返りながら浮かび上がりかけた気持ちをやさしく沈めるのだった。


「抑え込んでるわけじゃないよ。ただ一度飲み込みなさいな。事この話に関して言えば数限り有る未来だから。そう外したものでもないと思うよ」


 少路は何かを言いかけたが、次が発せられる事は無く不承不承といったように頷いた。それを横目で見ていた水谷も諦めたように机に伏した。


「しょうもない会話に付き合ってくれる大人が居なくなっちゃうんだー」


 大山の耳に届くか届かないかくらいの水谷の呟きだった。大山はあえて聞こえないふりをして汚れた鼠みたいな椅子に背中を預けた。タイミングよく水谷に返答するようにボロの椅子がギシイと唸りをあげる。そのまま会話は続かず、誰も声を発さなかった。


 少路はイヤホンをしてネームの続きに戻り、水谷は本を捲り始めた。大山も暫くはぼーっと天井を見上げていたが、書類の横に積まれた体作りを扱った健康雑誌をなんとなく開いた。


 大山は結婚式の日付が決まったこともあり、三十を過ぎてだらしない身体を引き締める為にジムへと通っていた。土日を含めて週二回通う事を目標にしている。結婚式を目標と定めて運動を始めたのだが、案外楽しく、最近では趣味であるとすら思い始めてきた。昔から生産性のあることが好きだった。ゼロから作り上げる美術が好きで、特に絵を描くことを好んだ。そして美大へ通った。だからというべきなのかスポーツというものにさして縁がなかった。自分にとって生産性を感じていなかったことも縁がない一つの理由でもあった。が、大人と呼ばれ久しく、使われず衰える一方の肉体の維持向上は生産性よりも正常さへの回帰、その喜びが大きかったのかもしれない。自然と動くようになった体、動かさないと落ち着かなくなった精神が誇らしく思える。未成熟な子供や庇護元とやり合ってゆく教職という仕事はなかなか精神的に過酷だ。そんな毎日にあって、肉体の正常さの獲得とその喜びは精神の正常さの確認でもあったのかもしれないと思う。


 肉体の理想へのアプローチや、維持向上に向けたモチベーション作り、また仕事とは切り離されたジム仲間と交流を持つこと、成熟した大人との関係を築く事は有意義に感じられた。


 ねえ先生、と本を開き始めたと思っていた水谷が再び顔を上げていた。


「強さってなんだと思います?」


 大山は不意を打つ質問に思わず体制を崩した。さてこのぬるぬるとした生物は次に何処を目指すのだろうか。大山は探るようにして言葉を振るうことにする。


「仕上がった体を常に備えている事とか」


 とぼけるように、健康雑誌の一文を放り込んだ。


「健康雑誌の話じゃなくてさあ」


「じゃあお金と権力と才能と精神力があれば強いんじゃない」


「そういうんじゃないの」


「いや、それら持ってれば強いよ」


「そーいうのって結局武器持ってるだけじゃないですか」


「武器もってたら強いでしょ。武器を持つまでに培った経験に加えてそれを扱う才能と、暴力にしないための精神力。強くない?」


「じゃあ弱さってそれらを持ち合わせてないってことですか」


「そうなるかな」


「じゃあ私は弱いですか」


「それら全部を持ってる人に比べたら社会的には弱い存在かな。それは私もだけどさ」


 というかさ、と大山は続けて言う。


「誰と何処で何で戦うかにも寄るでしょ。まずね、目的の見えない会話を強いられる私大変よ」


「……言えない事だってあるじゃん」


 急に水谷はしぼむように小さくなってしまった。


「何にしても、今の水谷がお手軽に持てる本当の強さなんてものはないよ。何かをやってゆく過程でそれらを獲得するんだろ。でも、それが無いから学生やってるともいえるんだ。これからだよこれから。そんなものをさ、ずっと探してゆくんだよ」


「それじゃ先生はさ、敵意を持った自分より強い奴が近くに居たらどうする?」


「私がっていうか。一般的に言えば距離を置くんじゃない」


「何か求めてるのと違うんだよなー」


「力との付き合い方なんてそんなもんよ。それが処世の術って奴だよ」


「やっぱり格好悪い」


「格好悪くても技術ってのは力だよ。社会に出たら強さで勝ち取るより傷付けられないように守ることの方が多くなるの。我慢する強さを身につける事も大事だけど、上手くやり過ごせるならそれは技術で力だと私は思うよ。保身ていうやつさ」


 えー、と非難の声が上がる。


「それは、最高にダサく感じるんですけど」


「そりゃ、保身、て確かにイメージ悪いよ。けどね、人や組織の絶対的な理不尽との対峙っていうのが将来きっとあるんだよ。どんなに腹が立ったって、他にも面倒な事柄を抱えていたり、くたくたに疲弊していながらそんなのと戦ってられないんだ。だから自分自身を正常に保つ為に、それを避けたりする術が必要なの。避けたり戦わなければ勝敗もないし失敗もないでしょ。やっぱり力だからさ、過ぎれば人を害するし格好悪いかもしれないけど、そういう術も理解していかなければならないんだよ」


 言っていて嫌になる。これを教育と言うのだろうか。大山は自分自身のストレスのはけ口にしていないか省みる。


「さっきも言ったけど君等は若くて、まだ処世術にも眉を潜める学生で、だから強くなるまでは強さを借りれば良いんじゃない」


「どういう事?」


「心構えって奴かな。辛い時とか悲しい時、それを乗り越える一助にする心構え。今開いてるそれにもあるんじゃないの」


 大山が指し示した先を水谷が追う。先まで水谷が開いていた本だ。その隣で、少路はいつのまにかイヤホンをはずしていた。


「もうださいわ。やめよ水谷」


「えー何が」


「強さなんて人に聞かないでよ」


「強さは人に聞くものじゃないって知らなかったし、それを人に聞くことがださいってことも知らなかった」


「知ってようが知らなかろうが格好悪いものは格好悪い」


「えー全然分からんその美意識」


 ブツ切りで矢継ぎ早な二人の掛け合いに大山はこらこらと口を挟む。


「はいはい喧嘩するな」


「喧嘩じゃないっす。意見交換です」


 水谷は何でも無いように言う。


「じゃれあいっていうか、甘噛みっていうか」


 盛大に本日何度目かわからないため息を大山は吐く。カーテンの隙間から、強い西日がくっきりと床に線を伸ばしている。グラウンドを走る女子ソフトボール部の掛け声が遠く聞こえた。


「君達さ、他に人がいる場合はもう少しわかりやすくやって」


 二人は返事とも取れるようで取れないような唸り声を上げた。ケモノかと大山はひとりごち、もう一度、背中をボロ椅子に沈めた。




「先生終わったよ」


 日が完全に沈み、大山がそろそろ電気付けなくちゃなと思った頃、準備室のドアから入江が覗いた。大山は雑誌を挙げて報告に答える。隣では片付けをしているのだろう机を引きずる音が聞こえる。


「二人共帰るよ」


 入江の肩の後から覗いたのは高野だった。


 へーい、と返事をした水谷と少路はのろのろと机上に置かれた物を鞄にしまい始めた。


「あ、ねえ進路希望表書いた?」


 準備室に居た皆はなんとなしに水谷と少路が道具を一つずつ片付けるのを視界に入れていた。その少しだけ空いた会話の間に高野は滑らせるようにして差し込んだ。高野自身は何気ない顔をしていたけれど、差し込んだというにぴったりなタイミング、そのギャップに違和感があり大山は四人の生徒達の様子を伺う。


 大山以外の四人が互いの顔をみやる。


「まだ、書けてないな」


 入江が口にすると、バラバラと水谷と少路も続く。


「私も。困っちゃうね」


「私は親次第かな。やることは決まってるし」


 言ってもまだ高校2年で、今後いくらでも書き直す事は可能なのだから気楽に。なんて、まだまだ数少ない将来との直面の機会を邪魔してやることなど出来ようはずもなかった。


「そうか、私だけじゃなかったのね」


 高野は大きく息を吸う。


 どこか気まずい雰囲気に大山は締め切られていないカーテンを引いてお茶を濁す。


「ところで絵を描きに行くって話はどうする?」


 カーテンを引いた音を切り替えのタイミングにして、高野は別の話を振った。


「おじいちゃんには話して許可はもらったよ」


 準備室の入り口で待つ入江が反応する。


「塗料とか、道具はどうしようか?」


 今度は水谷が発すると、他に欲しい物も有るし私が行くと入江が答えた。


「いや、皆で行こうよ。それぞれ役割があるわけでもないし、買い物するのも楽しいじゃない?」


 少路が言うと、入江は了解して「それじゃあ明日皆で」と意見がまとまった。


「何、みんなで絵描くの?」


 大山は目の前で飛び交う会話に少しだけ興味が湧いた。


「そう、入江の爺ちゃんが持ってるラブホの廃墟に広いコンクリの壁があって、そこに落描きしに行くんだ」


「何、ラブホ?廃墟?」


 軽く高野は言うが、教師としては不穏さを感じ得ない単語にまた「ぞろ面倒な話じゃないだろうな」と大山は眉を寄せる。


「そう。去年に肝試しで行ったラブホの壁に絵を描こうと思って。ロンドンて、よくわからない名前のホテル。知らない?」


 『ロンドン』は数十年前の好景気に建てられたモーテル型ホテルだった。建設当時はラブホテルが需要増加の最中にあり、建設ラッシュが続いていた。その波に乗り、ビジネスホテル事業で成功した入江の祖父はラブホテル事業にも手を出したらしい。しかし、もともと立地が悪かった事、そして好景気に終わりが訪れ以降不景気が続いたことにより、改修費用を捻出できずあえなく廃業にした。それから数十年間売り手が付かず、廃墟として代々の若者へ肝試しの場所を提供するに至っている。以上が入江による説明だった。


「女子高生があんまりラブホとか言うな。それにな、廃墟とはいえ人の敷地に入って持ち物に落描きするのは不法侵入に器物損壊になるんだからね」


 やっぱり面倒じゃないかと、と大山は髪をかき上げた。今日だけで眉間に寄った皺の後が残ってしまうのではないかとすら思う。こちとら結婚式を控えた花嫁だと言うのに。


「だから、うちのじいちゃんのホテルで、じいちゃんの許可はとったの」


 さっき言ったよセンセーと呆れた生徒達の顔が並んだ。


「何、入江のお爺さんのホテルだったのか」


「行ったことある?」


 大山は胸を撫で下ろして安心したからだろう、その無防備な姿勢に投げられた質問に頭が止まってしまった。


「行ったこと……」


 大山はなんだか、いろいろと考えてしまった。友達に話すような感覚で答えようとしたが、それはまずいかもしれないと一度押し黙る。けれどこの数秒の間はもしかして凄く致命的に成りかねないのではないかと更に逡巡を重ね、いよいよ不味いな、この沈黙を加味した上でどう答える事が正解なのかと迷路の最奥に立ちすくんだその時、男子生徒が大山を呼んだ。部長が最後の鍵をどうすべきかと律儀に聞きに来たのだった。


 大山は助かったとばかりに部長に返事を返すと「ほら、鍵閉めるってさ」そう言って準備室の生徒たちを追い出した。


 なんだなんだと不満を口にする女子生徒達の背中を押して今日の部活を締めるのだった。

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