一章 Phenomenon-friction イジメの無い普通の教室
文化祭を前に喧騒に湧く放課後の学校は活気に満ちている。2-8の教室も例に漏れず話し合いで決まった企画、ホラーハウスの準備に忙しい。AからEに分けられた班ではそれぞれが割り当てられた役割をこなしている。
A班は全体の進捗管理と文化祭執行委員とのやり取りに加え、キービジュアルの作成を請け負い、他はホラーハウスを分担して受け持ち制作にあたっている。
水谷 庵戸(みずたに あんこ)の所属するC班は美術部員が多いということもあり、看板の制作や大きめの制作物を請け負っていた。小路 柚木(しょうじ ゆうき)や美術部員の高野 充(たかの みちる)、入江 比奈(いりえ ひな)と共にやいのやいのと騒がしく、四角いダンボールを広げていた。
キービジュアルが決まる前まではビジュアルを貼り付ける裏板を作っていたのだが、キービジュアルが決まったと、Aグループからクロッキー帳を渡された。
決定稿というより案のようで、ぼんやりとした絵を入江と高野が必死に解読し膨らめて確かにしていた。二人の後ろからクロッキー帳を覗くと、ハロウィンを詰め込んだような、ホラーハウスというより何でも詰め込んだビックリハウスに思えた。
「水谷。今ね、高野と頑張って紙に描き直して形にしたんだけど、隅の方のぼやあっと描いてあるやつわからん。、もう無理何これ阿呆」
「阿呆っていうな阿呆。あっちに聞こえるからせめて隠れて言って」
「水谷、何か聞いてきてくれない?」
「え、誰に?」
「描いてるの、神社の子だよね?」
「ああ、東さんね。……自分で行きなあ」
「私あの子ら苦手だし」
「私が苦手にしていないとでも?」
「大丈夫、水谷は誰とでも仲良く出来る子だよ」
「押し付ける為に人を持ち上げるんじゃないよ」
大変な役割を頑張ってくれているし、仕方が無いと水谷は席を立つ。手を合わせている入江を背に東 凪(あずま なぎ)と内藤 雄一郎(ないとう ゆういちろう)を中心とした五人の席へ向かう。
文化祭準備の喧騒の中にあって一際大きな声で笑っている集団は自信に満ち溢れている。水谷は根拠不明の自信に不信を覚えずにはいられず。いや、想像出来るが故にこの集団が好きではなかった。
「波島さん、ちょっと聞きたいんだけど」
五人の中で唯一同じ中学だった波島 牡丹(なみしま ぼたん)へ呼びかける。
進捗管理やビジュアル作成やら言っているけれど近づいてみればただ雑談しているだけのように思えた。
波島は「どうしたの?」と雑談の切りに笑顔を残し、水谷へ振り返る。
「ここ、どんな風にしたらいい?」
彼女等が描いたラフ画を指して聞く。
すると、波島は隣に座る東へ視線を送る。東は不機嫌そうに短く「どれ」とラフ画を引き寄せる。短く説明があり、回答を得た。「どれ」に少しだけたじろいだ自分が情けない。けれどなんでもない顔をして元の場所へと戻る。
「なんて?」
入江と高野が嬉しそうに水谷の表情を確かめながら聞く。
「どうでしたか?」
「別に、普通に教えて貰ったけど」
「なんだ、つまらなーい」
言って入江は机に付した後にちらりと水谷の憮然とした表情を覗き「嘘ですごめんなさい」と机に頭を擦りつけ、そんな茶番をひとしきり行って漸く作業に戻る。
真面目になった二人の手を眺めていると、肩口に長い髪が垂れる。背の高い小路が後ろから覗き込んできた。
「どう、進んでる?」
「今漸くね」
集中する二人に代わって水谷は答えた。
水谷は鉛筆でフラフラしていたラフ画を二人が線をはっきりさせ、見えてきた絵が一体何になるのか覗き込んでいた。それが確かな輪郭を帯びるようになると水谷はうんざりする。病に侵されたような魚が宙を泳いでいる。
「ダリアじゃん」
少路は言う。
「好きなんだねー」
と感情を含めずに入江が言い、
「らしいよね」
と高野が続く。ホラーのテイストが施されていたが明らかにダリアの影響が反映されている。
およそ十年前、日本のネットで発表された十二枚の絵。一夜にして熱狂的ファンをつくり、世界へとその熱は広がった。様々なジャンル、文化を越えてダリア・ラック・ベリの世界観は影響を与えている。今をして尚ダリアのフォロワーを称する画家・音楽家・作家・建築家等、肩書きは様々に有名無名を問わず生まれ続けている。
水谷は「気持ち悪くなりそう」と零し、眉間を押さえて絵から視線を反らす。
「大丈夫か?」
少路は水谷を覗き込む。
「黒くテカった薄いアイツを見るようなものよ」
「きっついな」
入江は顔を歪める。
「自分が嫌いな物を作るってどんな罰ゲームよ」
高野が同情をよせて言った。
「幻想標準世代も大変だよね。私は結構薄い方だから魚に対して抵抗値高いのは羨ましいなって思うけどさ。こうやって共感性高くて嫌いなものへの反応も過敏になっちゃうのはなあ」
と入江。
「そうね。けど共感性高い事って私等の間じゃ当たり前だけど、意外と大人って知らないよね」
水谷は疑問を口にする。
「ああそうかも。あれ何で?」
と高野も首を傾げた。
「まあ、私らが最初の幻想標準世代みたいなものだからな、当事者じゃない大人は分からなくて当然でしょ」
水谷はどこかで聞いたことがあるような意見を申し訳程度に添え置いた。
それから話題に一区切り付いたのを見計って少路は疑問を口にする。
「ダリアの絵って言っちゃえば豊島区幻想の風景画じゃん?技術さえあれば誰だって描けるものをありがたがるのが私にはわからん」
「なんでだろうね、でもそのただの風景画が描けないんだよね。不思議と。ダリアと同じように豊島区幻想を描いてみてもダリアのフォロワーに成り下がっちゃう。同じ風景画なのにオリジナルでないと思ってしまうんでしょ」
高野は言う。がしかし、気に入らないと鼻息荒く入江が割って入り、反論を試みる。
「それはダリアのフォロワー共がダリアを神聖視する為に言っているか、自己満足を超えられずに燻っている連中が自尊心を保つ為に声を挙げているだけで、『私も豊島区幻想の表現者だ』と手を上げる人だっているし、それをそうだと認める人も居るよ」
「でも同じものを描いているのに、認められた描き手がダリア一人しかいないのって事実じゃない」
「表現者全員が影響を与えるような有名な描き手ばかりじゃないよ。大多数に認められていないだけで、豊島区幻想の描き手と評価を受けている人も居るよ。私の好きなアーティストにもね。ていうかこれ、いろんなところで討論されてるし、私の言ってることもどこかで聞いた受け売りだしで意味ないわ。コンビニに並んだオカルト雑誌でも読んできな」
入江の反応に高野は嬉しそうに笑顔を浮かべ、話を続ける。
「今の時代オカルトも再度見直されてるよね」
UFOとかUMAの特集を週刊誌もやるじゃない。『幻想と振り返る未知との遭遇』とかってさ」
「あーいうものの結論て、最後には全部幻想が黒幕だったのでは?で終わるんだよ。UFO研究科もUMAハンターもそれで良いのかって思うけどね。だって幻想なんてそのうち解明されてゆくよ。科学に弓引いて未知や不思議を守ってきた連中が、己の正しさの証明の為に幻想を最後の砦にしていいのかってさ。正しさの証明の為なら良いよ。でも、もしも本当は未知や不思議を守りたいのに、都合が良いからってぽっと出の幻想をバックにつけようってんならさ、もう幻想を解した科学によって今度こそぺんぺん草も生えないくらいに駆逐される準備をしているだけにしか思えない。伏線張ってんのよ。馬鹿らしい」
「UFO研究家とUMAハンターを応援してるのか否定してるのか良くわからない話し方だな」
「後ろ指差されながらも自分にとって大切なものを守ってきたのなら、幻想に飛びつかずに貫いて欲しいと思っているだけ」
「そういうのは所詮他人事だから言えるんだ。私ならそれが今まで主張してきたUFOでなかったとしても、未知を見た事は確かだったんだって見返して欲しいと思うけどな」
なるほどなあ、と水谷と少路は作業そっちのけにして、二人のじゃれあいにのんびりと耳を貸していた。
わかった、と入江は何某かを閃いたと高野の眉間に人差し指を向ける。向けられた本人とそれ以外が入江の指先に視線を集めた。
「じゃあ私も見返そう。私がダリアの影響を受けていないと公言している幻想の描き手の絵を見せるから。水谷に」
そしてぐりぐりとした指紋の刻まれた人差し指が水谷の眉間へと移動した。
入江のハンドルをぐるぐる回すような急な話の転換に皆置いてけぼりをくらっていた。が、いつもの事ではあると咄嗟に頭を高速で回転させる。それから三人の理解が追いついて丁度、水谷は心の底から嫌だという顔をした。
「水谷が気持ち悪くならなかったらダリア以外にも豊島区幻想の表現者は居るって事で良いでしょ?」
「私が気持ち悪くなったからって信憑性ないよ」
勢いの入江に水谷は一応抵抗を試みる。
「いや、水谷この間お茶した喫茶店で流れてた有線音楽聴いて眉間に皺寄せてたでしょ。あれのギターが歌詞と曲を作ってるらしいんだけどね、ギターが熱狂的な豊島区幻想のファンでダリアフォロワーなんだって。聞いた曲からダリアの影響力を嗅ぎ取るって凄くない?絵ならジャンルが同じだし、まだ分かるけどさ」
水谷は曲を聴いて気持ちが悪くなったのは初めてだったからなぜ体調が悪くなたのか、その時は分からなかった。
まさかそんなはずは無いだろうと言うこともできず、入江の言う事に納得してしまう。
薄目でいいから、一瞬だけだから、駄目だったらすぐ止めるから、と説得されしぶしぶ承知した。
体裁としてしぶしぶではあったが、この面白い流れを止めたくなかったというのが水谷の正直なところではあった。
水谷が良いならと高野は乗り、少路も面白そうだと前のめりになった。
「いっくぞー」
入江の一言から始まり、スマホに入った画像をフリックを繰り返し、十枚見せられ全てに嫌悪を感じた。
「うっそ。全部駄目?これぞって奴集めたのに?ちょっともう一回ちゃんと見て」
信じられずに馬鹿を言い出す入江に水谷は「さっさとスマホを仕舞いなさい」と入江の頭をはたく。これを終了の契機に高野が立ち上がる。
「ほーらほら。幻想の唯一の描き手はダリア様ただ一人だってわかりましたか入江さん」
と嫌らしい口調で高野は入江を追い詰める。
「ばっか、水谷が全てじゃないから」
「今回のルールでは水谷がジャッジするって決めたんだから、私の勝ちだよね」
先の勢いはどこへやら、入江は完全に追い詰められていた。
「あやまってくれるかな、比奈ちゃん」
高野は入江の名前を可愛い声で呼ぶ。
入江は何で謝罪まで要求されなきゃいけないんだと抵抗するが、ルールを絶対とした勝利の条件を手にする高野は泰然としていた。
入江は微笑みを浮かべたまま、瞬きもしない高野と三泊程見つめ合うと、終には諦め「ごめんなさい」と呟いた。
入江が謝ったことで茶番に終始負が打たれ、茶番の犠牲者は散々だとアピールするように机に顔を突っ伏した。
「長い流行とはいえ、世はネット時代で良かったね。糞味噌混ぜた価値観の坩堝から好きな物を掬い出せるんだから。テレビ全盛の時代だったら右も左もダリア一色で心臓がこむら返りして死んでるよ」
少路は私の後頭部へまだ冷たいペットボトルを押し当てた。
「聞いたこと無い死因で死にたくないな」
冷たさを感じながら水谷はしばらくじっとしていた。
「水谷さーん、Cグループで近くのお店からダンボール貰ってきて貰えない?」
雑談の後、デザインを纏める美術部組と、実制作組とに分かれて黙々と作業を開始していた。取り仕切るAグループの東凪が軽く手を振りながら近づいてくる。先は乾いた感じの対応だったのに今は態度に艶がある。己に都合よく世界が回ってると考える事無く、そうだと信じる事すら無く、ただただそういう人種なのだろう。
嗚呼嫌いだと、水谷はそう思う。そんな思いを隠しながら水谷は返事を返す。
「こっちがもうちょっとで一息つくから、そうしたら行ってくるよ。どれくらい必要かな」
「内藤、どれくらい必要?」
東は後ろを歩いて来たA班リーダーの内藤優一郎(ないとう ゆういちろう)と波島に問いかける。
「えーと、とりあえず沢山。他の班に訊いてみたらまだまだ全然足りないって。あっちの遊んでる連中使って良いから、よろしくね」
内藤はクラスの隅で作業に加わるでも加わらないでもない四人組を指して言う。一応あそこは雑用係のE班ということに成っていた気がする。けれど雑用係といえば特に明確な目標を持って仕事をするグループではないので何もしなくても特に問題はないのかもしれない。ただ、何もしていない人達というのはこの活気あるクラスでは酷く浮いていた。
「学校の倉庫にある台車を使っても良いって話だから」
水谷が了承すると、波島は可愛い笑顔を残して去り、東は表情を確認する間もなく踵を返していた。
「しごとー?」
視線を下に向けたままだるい、と言った感じを滲ませて発したのは少路であった。びーっとガムテープを伸ばして無造作に千切り、えいやと段ボールを繋げていた。仕事がひと段落したところで少路はメガネを調整しながらこちらを向き、サラリとした長い髪が揺れた。
「ダンボール貰って来てってさ」
「あ、さっき高野も入江も絵の具持ってくるって美術室行っちゃった」
「まあ、部活に所属している人達のありがたいこと」
ですな、と少路は頷く。
「それじゃあ少路のキリがついたらさ、気分転換に出よーよ」
少路は空になったガムテープの芯をクルクルと回す。
「外に出られると思ったらもう集中力が一気に切れちゃった」
「雑用班を引き連れてたくさん持って来いってさ」
少路は立ち上がるとクラスの隅っこへとゴミを踏みづけながら向かっていった。談笑をしているところに容赦なく割り込み事情を話し、ダラダラとした四人を引き連れて水谷のところへと戻ってきた。
「それじゃ行きましょっか」
何故そんなにもやる気があるのだと思わせる元気な笑みの少路を目の前にして水谷は苦笑して頷いた。
近所にあるスーパーと電気屋に目星をつけた。波島が言っていたように校舎の裏にある倉庫から足回りの錆付いたリアカーを借りて四人の男子達が一台を二人で押している。東京とはいえ、立入禁止区域近くに学校はあり、人通りは少なく田舎と変わらない。歩道の通路を占拠しても誰が文句を言うでもなかった。たまに主婦のおばさんが自転車に乗ってくるか泳ぐ小魚と遭遇する程度だ。
道中、少路は四人組の一人に声を掛けていた。相手は裾野 吉喜(すその よしき)だ。暗くて人とあまり関わらないイメージのあるグループで唯一他に比べれば社交的な奴である。
このツーショットはたまに見たことがあった。水谷と少路は高校で出会ったが、少路と東は小学校からの付き合いがあり、時々クラスの端で目立たず話をしていた。ゲーム好きな彼等と情報交換をしているらしい。
東の身長は水谷より高く、女としては背丈のある少路と同じくらいで、男子にしては小さい方かもしれない。見た目はひょろっとしていて目は温和な感じ。髪を流行に合わせたりだとか自分なりに制服の着方を変えたりだとか、そういう風な事はしていない。以前少路が「あいつもちったあ外見気にすればマシになるのにな」と言っていたことを思い出した。
「ねえ裾野、あんたのところの班なにやってんの?」
「俺らは雑用だから特に仕事無いよ」
「暇でしょ。みんなやってるのに逆に浮いてるよ、あんたら」
「まあね、でもみんなで決めた割当だろ。役割は果たしてるよ」
「仕事貰いに行ったりさ、リーダーの内藤君に言えばいいじゃん」
「普段会話も交わしたこともないからな。話しかけなきゃいけない理由が俺にとって薄い。そもそも皆俺達に仕事が無いこと分かってるのに何も言ってこないだろ。俺達から合わせに行く理由もない。ただ言われればこうやって仕事もするよ」
「はーん。まあ、どうでもいいけど」
少路はひどく呆れた顔をしていた。まあ、格好悪いっていうのは良く分かる。っていうかダサイ。
「お前だって東とか波島さんとかああいうグループにいるわけじゃないし、別に親しくないからこうやって雑用やらされてるんだろ。俺とかわらないじゃないか」
「あんたらと一緒にすんな。私等は凄く親しくなくても関わりはあるし、あんたらみたいに軽蔑しあってない」
「そんな訳ないだろ。見てりゃわかるよ。それに程度の差こそあれ、ああいう奴等が持ってるイメージは俺もお前らも似たようなものだ」
少路が言っていることはもっともなことだった。そして、裾野が言っていることもまた水谷にはよく分かる話だった。裾野達とは違う、そりゃもうどう客観的に見たところでこいつらの暗いイメージっていうのはクラスの中の影みたいなもので、皆にそう認識されているだろう。この文化祭で受け持っているポジションの選ばれ方からしてもそうだ。残ったものを受け取ったようなものだし。でも、だからって私達にそういうイメージがないかって言われたらそうだともいえないことも事実なのだ。そういうイメージが無いグループっていうのは他にあるし、そういうイメージだけってグループも他にある。ただの客観的な事実として。
本当にくだらないけれど見下し、見下される連鎖がある。多分それは見下すとかいった滲み出す程度のうっすらとした悪意が、上位のポジションに立つことを選ばれているという承認が、連鎖を生み出している。
でも、こんなことは少路だってわかっているのだ。今人に指摘されたから言い返してしまったけれど、冷静になった頭ならそんなこと言われるまでもない、と言うはずだ。
ただ、例え日々薄っすらと漂う見下すような空気を甘受しようと、確かにプライドがあるのだ。見下されている、だなんてそりゃ誰も認めたくは無い訳で。もちろん水谷にもそれはあった。
「まーまーま、落ち着こうよ少路」
止めに入った水谷に二人は何だお前は割って入ってくるんじゃねーよ、という非難の視線を向けたが、
「裾野も黙れー」
水谷は裾野の反応も構わず胸を押し、三歩四歩と壁まで押し付けた。
裾野は「なんだよ」と体を捩り、水谷から離れると沈黙した。気まずい雰囲気は全員に伝わり、言い合いに加わらなかった男子三人も沈黙を守っている。そのままスーパーへ向かい、野菜の香りが残る段ボールを貰ってリアカーに乗せた。店員さんからしてみれば仕事の最中に来た分際で碌に愛想もみせず、どんよりとした空気を纏ったままダンボールを持ってゆく姿は失礼極まりなかっただろう。
気づけば徐々に日が落ちて暗い青にわずかな夕日が混ざり、薄暗い闇が覆った。遠くに見える山の陰に廃墟になったラブホの看板が不気味に照らされて見える。空を飛ぶ鰯の魚群が落ちる太陽の中へ消えてゆく。錆付いた車輪がギイギイと音を立てて回る。
大きな大鍋が学校を沈めている。ダイダラボッチが落とした大鍋の中には沸き立つわけでもない凍てつくわけでもない、ぬるま湯が溜まっている。校門の前で華やかな飾り付けをする実行委員の脇を抜け、大鍋の中へと入ってゆく。
全員で段ボールを抱えて教室へと向かった。滑って落ちそうになるダンボールを抱えながらえっちらと階段を上る。それから廊下を歩いて教室が在る。階段を登り切る手前、水谷の視線の先に東と波島が話しているのが見えた。水谷は段ボール貰ってきたよ、と声をかけようとしたのだが。
「まだ帰ってきてないんだね水谷さんと小路さん」
「おっそいなー何やってるんだか。やってもらいたい事有るのに。ダンボール貰ってくるだけでどれだけ時間かかってんだか」
「どーせさぼって遊んでるんでしょ」
「あんな奴らと遊んで楽しいのかな」
「ま、彼女ら居なくても大して困らないからいいけどね」
「でもダンボールないと困るでしょ」
二人は自分たちに気付かずそのまま教室へと入って行った。水谷と少路はそこに立ち止まり、後ろを歩いていた裾野は何も言わずに水谷と少路を追い抜いて教室へとダンボールの束を持って入った。
少しして、教室の入り口に立つとクラスメイト達はダンボールへと群がっていた。けれど、裾野達に感謝を述べる人間はいなかった。少なくとも水谷の位置までそういう声は聞こえてこない。裾野は何事もなかったかのように、教室を出る前と同じように四人隅に集まって会話を始めていた。
水谷と少路はダンボールをクラスの隅に放ると、何か示しあったわけでもなく同じ方向へと歩み始めた。渡り廊下を進んでと旧校舎の三階へ、そして女子トイレの後ろから二番目の和式の個室。
ぎい、ばったん。
二人して息をついた。肺にあった空気を全て出し切り、吸い込んだところで、
「なんでトイレなの?」
「それ、私も聞こうと思った」
少路が尋ねるも水谷にもその理由はわからない。
「何か突然どっと疲れたわ」
伏した顔の切れ長の目がいつもより鋭いのに、疲れているように見える。
水谷は大きなため息と共に口を開く。
「気にしなければどうでも良いっちゃどうでもいい話だけどさ。でもさあ……」
水谷は言おうか言わまいか迷う。
「どうした?」
不自然に空いた間に少路が顔を向ける。
「勘違いとかって」
「うん」
「我慢がならないよねー」
「勘違い?……東と波島のこと?」
「どうだろーね」
少路は苛立だしげに目にかかる前髪をかき上げた。
「水谷さあ、話のネタを小出しにして私の様子を探りながら喋るの止めなって」
水谷は意識していたわけではなかったのだが、少路が話に乗ってくるかそうでないかで方向を変えようとしていたかもしれないと数秒前の言動を振り返る。
「別に誰にも言ったりしないよ。ま、口は災いの元とか言うしね、信用はどうあれおっかなびっくりってところはわかるけど」
それを聞いてなんだかおかしくなって水谷は笑顔を零した。だって、
「少路は案外自虐的だよ」
「何、いきなり」
「信用はどうあれってさ、少路を信用してなかったらこの学校で誰を信用してんのよ私は」
「高野とか入江とか」
「それはもちろんだけどね」
真っ直ぐ信頼の言葉を発する水谷に少路は視線を宙に泳がせている。
「うーん、そう言われるとちょっと照れる。けど、誰を信用してるとかっていうのを確かめるのって怖いじゃん。信用していてもそれを確かめるなんて出来ないよ。恥ずかしいし。調子に乗って痛い目見るのも嫌じゃん」
「少路って大人だよねー」
「はあ、どこが?」
「眼鏡かけてるし」
「それは関係ないわ」
少路は水谷の肩を軽く押し「褒められるのかと思って緊張して損した」と零し二人して笑った。トイレの外くらいなら間違いなく聞こえていただろう。もしも隣に誰か入っていたなら驚いておしっこが止まったかもしれない。何だか無性に可笑しくて十数秒ひひひと続いていた笑いがだんだん引いてきたところで水谷は口を開いた。
「私はさ、本が好きだし漫画も好きだしバトミントンも好きだし人間観察も好きだしビジュアルバンドも好き。で、考えることはちょい根暗だしスタイルはよくないし容姿だって中の下ってところだと思うし流行とかについて行くのが精いっぱいだしこの間、世界史の平均点が75点のテストで35点をとった」
「よく自分のことをそこまで悪しざまに言えるね。ていうか水谷か、あのテストで最低点とったのは」
えーそうなんです、と照れながら頭を掻いてまた言葉を続ける。
「まあ、私がどう思われてるとか、何が原因で今の自分があるのかっていうのはある程度わかってんのよ。何回も頭の中でシュミレートしてんの。こうやって口に出すと傷つくけどね、自分で言っておきながら」
「だろうよ」
呆れた顔の少路。
「だからある程度人に言われてもね、許容半分ていうのはあるの。だけどさ、事実を事実として言われるのはまだ良いんだ。だけど自分の価値観を乗っけてあたし達を下にみているっていう勘違いが我慢できない」
水谷は胸の内の怒りを言葉に乗せて発散する。大きく息を吸って吐き出した。
「と、言いながら我慢しながら生きてくのが私等なんだなこれが」
少路はため息を付きながら大げさに首を振った。間髪いれずにこの台詞を入れられる。冷静になった少路は流石だと水谷は思う。
「ええ情けないことに」
水谷も苦笑をして深く頷いた。
「私等かっこ悪いなー」
「だねえ」
「私等って弱いよなー」
「そだねえ」
ジャンプすれば届きそうな程の低くて狭い天井を二人して見上げた。そして水谷は何を思うでもなく便器のレバーに足を乗せて踏む。
ごしゅっほばー。
勢いよく流れてゆく水。二人は弱まってカスまで絞り出すように水を飲み込む便器をじっと無言で見つめていた。
「さってと」
沈黙を破って少路が口を開いた。
「戻りますか」
「そうだね、戻りますか」
水谷がカギをスライドさせて外にでた。
ぎぃ、と蝶番が錆びた音を鳴らして重々しく開いたはいいけれど、当然のように先と全く変わらない薄ピンクのタイルが張られた狭っくるしいトイレがあった。
でも溜息をつくこともなく教室へ戻る廊下をゆっくりと歩く。
「帰ったらホラーなお城作らないといけないんだよね」
少路はぺったんぺったん上履きを鳴らしてゆっくりとした足取りだ。
「段ボールとガムテープと画用紙で、城ねえ。そうだ、それならダリアイメージとかだるいし、別のお城にしちゃおう」
「背景の奥の方だからバレなさそうだよね。それに当日照明も暗くするのに見えるかね」
クラスに戻りづらい気持ちを忘れるように、どうすれば城を簡単に作れるのか荒唐無稽なアイディアを出し合った。
正直しんどかった。疲れてもいた。面倒臭くも思った。けれど、そんなことはきっと些細なことで、それは朝起きて眠いことが理由で学校を休もうかと思うのと変わらなくて、そんなのは理由は違ってもいつも起こり続けてることだから。虚勢で胸張って、何でも無い顔をして教室へ向かうのだ。
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