一章 廃墟にて
週末の土曜日、入江が案内してくれたホテルロンドンの一室は、稀に人が立ち入る県道に面した棟ではなく、反対側にある棟だった。県道側はかつて扉が壊され修繕していない為、簡単に立ち入る事ができたが、案内された棟は施錠されているので人が立ち入ることは稀ということだった。駐車スペースの横の階段を上がり、入江が扉を開くと、随分かび臭い香りが鼻についた。玄関を土足であがり、寝室と隔てられた扉を開ける。二十畳程の一室がそこにあった。割られた窓ガラスから風雨が入るのだろう、窓に近い床は腐り朽ちていた。周囲を見渡すと調度品の椅子の足は折られ、転がったランプは割れていたし、天井にあるはずのシャンデリアは黒ずんだベットの上に沈んでいた。床は土に枯れ葉に分厚い埃。タバコの吸殻に空き缶や教科書、果ては書きかけの履歴書なんかも落ちていた。履歴書の記入年月日をみるに、侵入行為も随分昔の事であることが伺えた。水谷はそれを含めて、退廃した部屋に美しさを覚えた。時の芸術とでもいうのだろうか。時の中に留め閉じ込め、ただ時のみによって手入れをされたような芸術だ。立ち入ってはいけない、動かしてはいけない、声をだしてもいけない、そんな冷たい静謐さ。それを美しいと思う、不思議な気持ちが芽生えた。色々と考えてみても美しいという感覚が湧き上がる理由がわからない。部屋を目にしてたっぷりと十秒間誰もが口を開くことが出来ず、多分他の三人も似た何かを考えていたように思う。
当然電気がきているわけも無く、シャンデリアも落ちていて明かりもない。けれど窓から差し込む陽光のお陰で明るさに問題はなかった。誂え向きの壁もあり、丁度良いことに壁紙も剥がれかかっていた。
「ここ、いいでしょ?」
沈黙の中、先陣を切って声をだしたのは入江だった。
「そうね。広いし、壁紙を剥がしちゃえばコンクリが良いキャンバスになるね」
少路が答えた。
「あまり物を動かしたくないね。関係ない処はそのままで良いよね」
汚れとか埃もそのままが良いよねと高野が言い、皆が同意した。せっかくの時の芸術を綺麗にしてしまうのは違う気がしたからだ。
壁紙を剥がす前に四人は床に養生をし、それぞれホームセンターで買った道具を持って壁紙を剥がしにかかった。もう十月になるのに、玉の汗が額に浮かぶ。汚れても良いように替えた学校ジャージの袖を捲くり黙々と作業を進めた。思えば電気より水が無い事の方が大変だった。飲水に関しては買ってきたので問題はなかったが、作業に水がないのは致命的だった。途中、近所の公園から水を持ち出す事ができなければ大変だったことは言うまでもない。
「ねえ、昼は明るいから良かったけど、暗くなったらここ怖くない?」
入江へ少路が尋ねる。
午前中買い物をして、昼食を取ってからホテルに入ったのは午後の一時だった。あれから三時間程度作業を行ったがもう外は日が傾き始めていた。
「あ、滅茶苦茶怖くなるわ。ほんと真っ暗になるから。そろそろ片付けしたほうが良いかも」
水谷は「作業もこんなところでしょ」そう言って壁全体を見回した。
「昔は廃墟だからさ、噂とかもあったんだよね。痴情の縺れで殺された女の幽霊がでるとかさ。廃墟になった後、近くの道で事故にあった霊が集まるとかさ」
「ちょっと止めてよ」
バケツに汲んだ水で少路がじゃぶじゃぶと手を洗っている。怖いのが苦手な少路は一足先に片付けを始めようとしているようだ。
「うそうそ。殺された人とか居ないって爺ちゃん言ってたし。ホテル前の道で事故もずっと無いみたいだしさ。居ない霊は集まりようがないでしょ」
「それなら、いいけどさー。最近都市伝説とかもよく聞くしさ、なんか怖いじゃん?」
そうなの?と水谷は皆を確認する。入江がその質問を受け取り、
「怖がるような都市伝説は知らないけどなあ。私が知ってる最近の有名処だと、SNSでとあるアイコンのユーザーに喧嘩を売ると何故かフレンドのアイコンが全部ゴリラアイコンに変えられちゃう『ミリオンゴリラ』とか。街の隅にいる全身タイツの『怪人ぱてぱて』にお金を貢ぐと同じタイツを渡されて楽園に迎い入れられる話とか。他にも『黄金バット伝説』『紙吹雪を撒く兎』『渡れない国道』とかネットみると結構出てくるよね」
「わ。全然知らん。そうなの?」
「もっといっぱいあるよ。夏は怪談話がよく回ってきたものだけど、秋は都市伝説系が多いね」
誰から回ってくるのかと聞くと、塾の子達からだね。いつも同じ奴だけど、と付け加えた。
「それ本当にあった話なのかな?」
「あってもおかしく無いんじゃない?前に話したUFOやUMAの話と同じさ。魚は宙を泳いでいるし、学校は大鍋の中に沈んでるじゃない。幻想がバックにつくならどんな不思議も起こりうるでしょ」
「この間ってそんな話だったっけ?」
「どの記事読んでも結論を幻想に丸投げにされたら読者としては詰まらないって話だったと思うけど」
そうに決まってる、と言わんばかりの強い眼差しだった。少路はその時を思い出すように天井を見上げていたが、比奈は話を続けてそれを阻む。
「それにほら、学校を沈めている大鍋、ダイダラさんの落とし物だっけ?こんなのが当たり前にあるくらいだよ。何があってもおかしくないよ」
「何、あの大鍋ってそういう名前なの?」
少路は主題とは違う所で反応をみせた。しかし入江は気にせず、
「どうだろ。うちのばあちゃんはそう言ってたよ」
少路は初めて聞いたようだったが高野も頷いていたので知っているのだろう。水谷も聞いたことがあった。東京にいくつか点在する器はまとめてダイダラさんの落とし物シリーズと言われていた。
突然「あっ」と入江が声を挙げた。その声に視線が集中したのだが、当の入江は「何で忘れていたのだろう」と一人呆けている。
「ねえ、今唐突に思い出したんだけどね、皆コピーバンドって知ってる?」
入江お得意の突飛な話題の転換だ。入江は三人の心情などお構いなくまたハンドルをぶん回す。
それを追う少路が「大学生とかが軽音サークルでやってる奴でしょ」と返答する。
「まあ、そうね。お姉ちゃんの学祭に行ったんだけどね、そこで演奏してたの」
それで、と高野が先を促す。
「そこで見たんだよ。紙吹雪を撒く兎」
なにそれ、と誰かが言った。
「さっき言った都市伝説の一つだよ」
入江はちゃんと聞いてよね、と唇を窄めて非難し、話を先に進める。
「祭りに現れる兎でさ、知らない?その兎が居ると祭りが成功するって言われてるの」
「でも学祭のコピーバンドのライブでしょ?」
訝しげに高野は入江へ問いかける。
「そうだよ」
「人は集まってたの?」
「最初は少なかったけど徐々に集まってきたよ」
「で、どうだった?」
「すごく良かったよ。もともと好きなバンドのコピーだし」
「ねえ、何その顔」
『大学生のコピーバンド』と言う単語を聞いた瞬間に、高野、水谷、少路の間に会話は無かったが、不審さが共有されていた。
「いいけど、なんか学生のコピーバンドに出た兎って微妙だなあと思って」
「何さ、微妙って」
それから少路が言いづらそうに、共有された不審さの正体の説明を始める。
「だって良い音楽を演奏すると出るって話でしょ確か」
「コピーバンドが良い音楽演奏したっていいじゃん」
「大学生のコピーバンドって質は低そうだし、やっぱオリジナルだからこそ、その演奏に価値があるんじゃないかと思うわけですよ」
「それ言ったら吹奏楽とかピアノ演奏はどうなるのさ」
「あれはどんな曲の演奏も高い質で演奏表現する事が到達点だから。オリジナルだろうとカバーだろうと関係ないでしょ。でも入江の言うバンドは違うじゃん。みんなオリジナルを期待してる。その中にコピーというよりカバーがあったっていいけど、メインはそこにはならないでしょ」
「なるほどね。でもさ、そもそも求めてるものが違うのよ。コピーバンドで演奏するって事はオリジナルなんて期待してるわけないじゃん。到達点はコピー元なんだよ。でもそんな事ありえないから代替品なの。聴く方も代替品で良いと思ってるの」
「需要と供給が一致してるって事ね」
なるほど、と少路は納得したようだった。
「私は凄いと思うんだよね。なんか私等位の年齢とか大学生とか言うとさ、承認欲求の赴くままにオリジナルとかやりそうだし、何者かに成りたがるじゃない。なのに、コピーバンドをやるって遊びで良いって言ってるんだよ。学生時代の青春の一ページに音楽があっただけで良いって言ってるんだよ。なんかその潔さが好き。もちろん例外はたくさんあるんだろうけど」
それじゃあ私からも、と高野。
「人の曲を得意げに披露してる事についてはどうなのよ?」
「愛だよ愛。分かる?そもそも模倣なんてのはさ、練習だし、遊びじゃん。じゃあなんでソレを模倣する事を選んだのかってそれは一重に愛でしょ。それ以外ないっしょ。披露するのは、ソレを愛する人との共有だよ。得意げなんて斜めに見てる奴らはさ、そもそも需要と供給の中には居ないのさ。だからそれについて考える事はあんまり意味ないよね」
「だけど学祭とかだと客はそれを求めてる人ばかりじゃないじゃない」
「……だね。だけどやっぱり学生バンドってさ、楽しければ良いんじゃないの。それを分かって客も来るでしょ。上手い下手を言う人もいるよ。高校からのお姉ちゃんの友達はいつまでたったって上手くならないし。だけど学生バンドってそれで良くない?学生サークルってそんなものじゃないの?音楽が好きなら上手い下手はどっちでもいいじゃん。けどそれでも人が集まったのならそれは質が良かった事の証左でしょ。本当に、良かったよ。コピーバンドの良し悪しってやっぱり愛だと思った。コピー元のバンドを需要側も供給側もどれだけ愛してるかだと思うの」
「都市伝説の話かと思いきやコピーバンドの話になってるな」
入江が高野に迫るその後で、少路が笑って言うが熱くなった入江は全く気にしない。
「ねえ想像して想像して!未知の体験に追いつく手段は唯一想像しか無いんだから!ほら、想像して!」
入江の熱に押されて高野が顔を歪めて助けを求めるように少路と水谷をみやる。水谷はそんな高野と交代だと入江の意気を受けるようにして前に出る。
「わかった。ちょうだい!想像させて!」
その意気や良しと目を瞑るよう水谷に促し、水谷はそれに従う。高野はホッとした表情を浮かべ、同時に、少路は二人の様子を楽しげに見守っている。
「大学のキャンパスに入ると人の往来が多くて、遠くから音が聞こえてくるの。夏祭りのお囃子が微かに聞こえてくる感じかな。わくわくするでしょ。ちょっと覗いてみようかなって近づくとステージを見ようと背伸びをしている最後列があって、その頃にはバンドが何を歌っているかわかるの。遠巻きにその演奏を聴いている人達も楽しそうにしているのね。その曲が好きだし歌が上手かったからもっと前でみたいなって思うの。隙間の空いた一つ前の列に捩るようにして並ぶと熱気がまた一つ上がった感じがしてね、もう一緒にライブを楽しんでいるんだなって思うの。左隣の人もきっとこのライブが好きなんだろうなってわかるし、右隣の人はMCの時に野次を飛ばして周囲を笑わせるのね。きっと友達なんだろうって事が分かるの。外見はちっとも似ていないのにライブMCはコピー元さながらで、早口で捲し立ててまだまだ固いお客さんを盛り上げてゆく。恥ずかしさなんて一切なさそうに、喉が潰れても構わないというように暑苦しく歌い上げてゆくんだ。好きだろ?俺は大好きだと言わんばかりにボーカルで、リフで、コーラスで、ドラムで押すの。二、三曲聴いた頃にはもう余計な事なんて思い浮かばなくなってね。そして曲の終わり、知った合図で一緒にジャンプするんだ」
想像なのか体験なのか分からない入江の世界の共有だった。
「どう?コピーだとかなんだとか関係ないでしょ」
世界が共有されていないなんて一切疑わない、入江は真っ直ぐだった。
「関係ないかもしれない。いや、割といいかもしれない」
対して水谷は正直に感想を言う。それに入江の都市伝説を真に受ける訳では無いが、これだけライブに夢中になっていれば仮に兎を目にしていたってそんな白昼夢みたいなものは圧倒的存在感を放つライブを前にしたら霞んでしまうのも無理は無いのかもしれないとも思う。
「本当かよ」
試すようで、しかし高野は楽しそうだ。少路が「水谷、詐欺に気をつけてよ」と半分心配する野次を入れる。
「結局ライブやってる人達もそれを聴いてる人達も真剣に楽しんじゃってる人達には勝てないよねってそう思いました」
「合格だよ水谷。行こうぜ、想像出来ない奴等に用などないのです。水谷にはパフェを馳走しましょう」
さながら男役を気取った入江は水谷の手をとり、部屋の扉へとエスコートする。
「え、私等はどうしたら良いんですか?」
少路は入江に付き合って、追いすがるように質問を投げかける。
「自費でならついてくることを許す」
そこまで言って、四人で笑った。それから、本当に暗くなる前に帰ろうと急いで帰り支度をして廃墟を後にした。
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