三章 幻想退治・後

 白い羽織を肩に引っ掛けた穂波の後を裾野と東は追って歩く。

 一本隣の道をリュウグウノツカイが地を這うようにしてゆっくりと泳いでいくのが見えた。実際は見るのも稀な深海魚らしいけれど、ダリアの十二枚の絵に描かれたリュウグウノツガイは立入禁止区域内ではいくらか目にするスカイフィッシュだ。スカイフィッシュは出現すると回遊しながらも最終的には禁足地へと向かう。時が立てばビヨンドへ去ってゆくか消滅してしまうので特に神社側で祓ったりはしない。けれど、あまり増えすぎてもということで半年に一回程度、大掃除と銘打って禰宜衆総出で大祓が行われる。禰宜衆に入ってまだ日の浅い裾野は参加した事は無かった。しかしリュウグウノツカイと言えば対処に二人程度の禰宜衆で当たると言われている。そんな対峙すれば禰宜衆でも厄介なスカイフィッシュを穂波は見向きもしない。だが裾野は隣の道を泳いでいるであろうリュウグウノツカイの存在をひやひやしながら気を払っていた。

「そういやさ、最近ダリアの力が弱まってるって話があってさ」

 二人を振り返らず穂波は口を開いた。

「弱まってるって?」

「単純に幻虫みたいな細かい幻想の数が増えてるし、スカイフィッシュ以外の固有の幻想の遭遇数も増えてるらしいんだよね。因子がスカイフィッシュとなって消えず、別の幻想を作り上げてるんじゃないかってさ」

「偶々じゃないの?」

「かもしれないけどね、何れにしろ注意が必要って話よ。あんたらの学校に出現したダイダラボッチの大鍋だって突然だったでしょ。異常に硬いって事しか未だにあの大鍋がどんな幻想原理を持ってるのかハッキリしてないけど、そういった幻想が突然出現することがあるかもしれないから」

 固有の幻想。虫や魚のように種類を括られない幻想。裾野も見廻りの最中に見慣れない幻想に出会うことが稀にある。

「俺達も前に見廻り中に幻虫とは違う幻想に憑かれた人と遭遇したな」

 裾野の言葉に穂波が振り向いた。東がこそこそと自分に取り憑かせた蚜虫と同様、幻想はその幻想原理によって人に憑くことがよくある。

「何、吉喜が祓ったの?」 

「まあ、祓ったっていうか。特に害を成す幻想でもなくて。結局話をしただけで勝手に消失しちゃったんだけど」

「そういう解決もあるよね。幻想に憑かれた人の心を一時でも発散なり昇華させると、結合する対象がなくなって解けちゃうんだよね」

 穂波は前方上空を見上げる。

 日が落ちかけ、西日が鋭くなった。

 しばらく穂波の後ろを付いて歩いていると路地の先に工事看板があった。「通り抜けできません」「全面通行禁止」「この先下水道工事中」「橋梁修復中」などおよそ関係ない工事看板まで十種類くらいが不自然に突き刺さっており、行く手を阻んでいる。裾野の記憶では以前廻りをした時には無かったように思える。隣で東は溜息を付く。

心中は察せた。悪戯にしても良くやるなと裾野も思う。

 仕方なく、打ち付けた杭に番線で固定されていた看板を無理やり押し倒して通路の確保を始めた。

 看板を足で思いっきり押しのけている最中、「気づいていないのか?」と穂波が問う。裾野は穂波の顔を見て、意図を察せない裾野は東を見やる。しかし東も首を振るだけだった。

「これ、巣だからな」

 下がってなと手のひらで制した穂波は熊のような厳つい爪のある右手を一薙ぎ横一閃。すると、看板は引き裂かれ、あっと言う間に道が出来た。

「拒絶のイメージを形にした幻想だね」

 本当に巣なのか裾野には疑わしい程に現実感のある看板だったが、穂波が引き裂いた看板はその形を失い霧散してしまっていた。そしてなるほどと思う。通路の先からは先まで聞こえなかった騒がしい人の声が聞こえ出した。また、ビル壁には先まで見えなかったタギングと呼ばれる落描きがそこかしこに描かれているのが明らかになった。

「この巣の幻想原理は侵入への抵抗と音の遮断、視界の制限ってところかな」

 裾野は納得し、先を進む穂波の後を追う。そして、最後に東が裾野の後を進んだ。徐々に耳に届く声が大きくなり裾野は少し緊張する。

 立入禁止区域への侵入者への対応は、話のわかる人間には特別許可証を提示し、身分証明を提拝見した後に退去願うのだけれど、話の通じない人間にはどうしても口論になってしまう事がある。所詮警察では無い為、公権力を行使することができず、現状では都の条例から退去することをお願いする事しか出来ないのだ。が、やはり面倒なので力技で煩い口を無理やり結ばせてしまうことが通例になっている。とは言っても暴力を振るうことはないのだが、当然それについては東神社の人間以外は知る由もない。

 奥へ進むと落描きだらけの路地にはスプレー缶が転がっており、四人の男女がコンクリに尻をつけて焚き火を囲い、一人の男が壁に何やらスプレーしているのを楽しそうに眺めている姿があった。遠目ではあるが四人とは近い年齢であることはわかった。気が抜けたような顔をして心底安心しているような彼等に裾野は今から水を差すような話をする事に一瞬躊躇う。だが、穂波は構わずに前進する。そして、漸く五人は巣への侵入者に気づいたようで表情が切り替わり、緊迫した。奥にはたった今描き言上げたであろう見覚えのある流行りの不満顔が描かれていた。

 お互いにどんな相手なのか視線を交錯させる事数秒、しかし穂波は一切動く気配はなかった。裾野は普段通り対応しようと一歩前へ進み出る。

「何、あんたら誰?」

 スプレーで画を描いていた男からの疑問のほうが早かった。

「すいません、神社の者で管理を任されてるんのですが」

「で?何?」

「ここ、立入禁止区域なので、立ち退いて貰いたいのですが」

「楽しくやってるとこ邪魔しないでくれる?」

「あーうっっざ。帰れよ」

 地面に座ったままの女が敵意を持って睨みつける。裾野はいつもの事だと身分証の提示を要求した。すると、五人は一瞬だけ言葉を詰まらせたがそれは何を言おうか迷ったわけではないだろう。イラつきによる間だという事は容易に想像がついた。そしてスプレーの男が、

「いいわけねーだろうが。馬鹿かよ、誰が見せるんだよ。警察でもねーのによ。立入禁止区域に入ってるのは別に俺たちだけじゃないだろ。全員に同じこと言ってんのかよ」

「みつければ全員に同じ対応してますよ」

「俺達ここに来るまでに他の奴らみたけど、そいつらにも同じこと言うんだよな?」

「だから、見つければ同じ事を言うけど人数も限られてるから対処にも限界があるんですよ」

「そんな事私らに関係ないし。だったら人雇えばいいじゃん」

 座っていた女がスプレー男の後押しをする。

 続けざまに放たれる怒りの言葉を捌くのは体力が消耗する。

 裾野は口喧嘩が得意ではない。禰宜衆に入って半年ほど、確かに最初より慣れはした。けれど、怒りの矛先に立って受け続けるのは決して気分が良いものではない。というか疲れる。自分の行いはルール上間違っていないと分かっていてもそれでも嫌な役割だった。

「これって、アンハッピーサインだよね」

 後で立っているだけだった穂波が誰に問うでもなく声をあげた。関係ないところからの突然の発言に一度皆黙ってしまう。一人だけ年齢の違う大人が発した言葉の意味を考えていたのかもしれない。

「何、お姉さん知ってんの?」

 スプレーの男が穂波へ問う。

「これが共感元?これがシンボル?なるほど、巣が薄っぺらいわけだ」

「何言ってんの?どういう事?」

 敵意をみせてきた女が反応する。がそれを全く意に介さず、穂波は言う。

「内在する不満だっけ。共感したいが為の薄っぺらい共感を集団の符牒にして安心してるんだろ。よく考えて話し合ったりもせず、その共感に差異があることを詰めようともしないで共感だって言ってるんだろ。そういう奴に限って異論持ってる事を認め合う事もしないまま仲間とか言ってるんだよね。そんな偽物で満足出来るなら人に迷惑かけないようにお家の中でお絵描きしてろよ」

「あんた何様なんだよ。あんたに俺らの何が分かるんだよ!」

「分かってるわけじゃないよ、けど巣のレシピみれば大体は想像つくよ。自分の居場所がない?もしくは嫌い?愚痴を吐き出す相手がいない?隣人を信用できない?だから気持ちを代弁したようなアンハッピーサインをシンボルにして集まったんでしょ?」

 『巣』という幻想の構成要素、因子はともかくどんな意識と結びついたのかは裾野にも確かに想像がつく。その原理と幻想のビジュアル、それと年齢まで分かれば占い師でなくたって難しい話じゃない。

「知った風な事ほざきやがって。憶測でベラベラ五月蝿えんだよ」

「路地入り口の工事看板の存在に気づいてるでしょ?それでそれが薄々幻想なんだってことにも。他の入り口にもあるよね。考えたこと無いわけ無いよね。自分たちが来る時と帰る時は無いのに、中にいるときだけ現出する都合の良い看板なんてあるわけがないんだから。あんたたちのシンパシーが作り出したものなわけで、作者でなおかつ幻想標準世代の直感に引っかからないわけないよね」

 四人の男女を睥睨する穂波に一人明らかに同様している女子がいた。穂波はその女子の様子を観察して目が合うまでじっと見つめている。それから女子が我慢比べに負けたように穂波の目を見て、

「あれは私達が作ったの?」

 そう言い、穂波は頷く。

「これが何によって出来ているかなんて確かな心当たりがあなたの中にあるはずだよ。あんた達にちょっとだけ都合の良い世界を作っているんだよ」

 穂波が言った瞬間に、スプレー男が怒りの形相で前へ進み出た。男が足を一つ踏み出したところで、穂波の前に裾野が体を入れて至近距離で相対する。それから男は裾野の胸ぐらを掴む。

「ごちゃごちゃと抜かしやがって。そんなもんは知らねえって言ってんだろ」

 顔を近づけて裾野に殴りかかった。裾野は相手が振りかぶった瞬間、とっさに胸ぐらを掴み上げている側の手を持ち、甲を捻った。相手の振り被った拳は体制を崩しながら僅かに唇を掠めて振り下ろされ、そのまま捻られた方向へと転がる結果と成った。それでも男は体制を立て直し再度裾野の前へ立とうとしたが、後ろにいた男が慌てた様子で立ち上がり、肩を抑えて諌める。

「おい、止めておけって井岡!佐野も手かせ!」

「離せ!大杉!」

 大杉と呼ばれた男はスプレー男を必死に抑え、その様子を見て直ぐにもう一人の男、佐野も抑えに回った。

「そう、あんたの言う通り、ごちゃごちゃ抜かしたね。だけどそんな適当に見繕った信念も理念もない知った風な言葉の羅列に狼狽えちゃ駄目だよ。弱さに気づいてしまったのなら、態度と言葉で隠すかどうでも良いところをそれと見せなきゃ。でもそれが出来た上で自分の動機を語れる強さも持てないとね。じゃないとせっかく定時に上がって手伝いに出てるのに楽しくないわ」

「もういいでしょ。あまり煽らないでくださいよ」

 大杉は井岡を抑えているのか自分を抑えているのか分からないくらい苦々しく眉間に皺をよせて言う。

「別に煽ってないよ。それに先に煽られたのは私達なのに、私達は煽っちゃいけないだなんてそんな事言っちゃうの?」

「……あんたは大人でしょうが」

「だからアドバイスよ。大人だからね。それを煽りと取ってるのはそっちの方。素直に聞いておきなさいよ。嘲う為に心を暴いて晒し者にしようとする輩なんてこれから嫌って程出会うんだからね。分り易いって、舐められるよ」

 この時、五人の怒りが小さくなったような気がした。多分穂波が言っていた事が煽りでないということがわかったのかもしれない。穂波だって嘘は言うしおべんちゃらも使うけれど、真剣さを誤魔化そうとする人じゃない。そしてそういう事はきっと人に伝わる。

「……別にここに拘ってるわけじゃないし、別の処へ行くか」

 大杉が井岡の背に手を置いて諭す。

「別の処ってどこだよ」

 男達が話し合っている姿を女達も心配そうに眺めていた。その様子を裾野も同じように見ていたのだが、彼等の後ろ、男が最後にスプレーで壁に描き殴ったアンハッピーサインから煙のような靄が立ち上っているのが見えた。目を凝らしてじっと見ていると、靄と思ったそれは幻虫だという事に気がついた。同じく穂波も気づいたようで小さく溜息をついた。

 無数の幻虫がじわじわと湧き上がり飛び立ってゆく。五人はその画を背にしている為気づいていない。裾野は巣の幻想とは関係ないものだと察し、すぐに警戒を強めた。

「お前らの相手してる場合じゃなくなってきたな」

 視線を遠くに呟いた穂波の、その唐突さに五人は互いの顔を見合う。すると、女子二人が落描きから湧いた幻虫の存在に気づき、金切り声を上げて落描きの側から飛び退いた。

「ちょっと、キモいキモいキモい!何これ!」

「やだ、何!気持ち悪い!」

 二人の絶叫を皮切りに男子三人も奇声を上げて立ち上がり、逃げ惑う。

「さて、何を作り上げたのか」

 穂波はため息をつくと、看板を切り裂いた時と同じ、厳つい獣の手を振るい掠めたムシは簡単に消滅した。しかし落描きから幻虫は際限なく発生している。

「落描き消さなきゃ駄目だな」

 穂波の爪を免れた羽虫が路地の通路向こうへ集まってゆくのが見えた。何に集まっているのかと焚き火の明かりが僅かに届く薄闇に目を凝らす。ここまでの道中に見かけたスカイフィッシュかは分からないが、体長3メートル程のリュウグウノツガイへ集中しているのがわかった。リュウグウノツガイは幻虫を嫌がるように跳ねたりうねったりしていたが最終的には地面に頭から衝突するような奇行をみせ、後に動かなって消滅してしまった。幻想が幻想を喰らっていた。少なくとも裾野にはそう見えた。

「お前ら、今日は忙しいから見逃してやるから帰れ」

 穂波が声を掛けると、大きなスカイフィッシュが近くにいたという事実のせいもあってか、羽虫から距離を置いていた女性陣から「もう帰ろう」と声が上がった。手当たり次第に荷物を持ち、裾野達が歩いてきた方向へと引き返し始めた。それから穂波とのすれ違いざまに大杉が、

「偽物だなんて俺は思わない」

 ともすれば負け犬の戯言のような台詞を吐き、

「へえ、時間があるなら聞いてみたかったけどね」

 と軽く返し、佐野と呼ばれた男に手を振っていた。それから裾野を振り返る。

「多分アンハッピーサインが意識を集める触媒と化して成っているのだろうから、コンクリごと砕けば幻想も消えると思う。けれど、『花塚』でどうか試してみようか」

 穂波の言い草はまるで緊張感のない先生が受業を始めるみたいだった。その様子に肩の力が抜け、言葉に従い裾野は何も無いところからまるで花を摘み取るような所作を行う。

 それを見て穂波はずっと後ろに控えていた東を呼び出す。東は数歩近づくと膝をついて、脱力した。

 東神社には本家分家含めて三十人の巫女を擁している。その中に序列はないが、東凪は東神社の正当な巫女であり、その能力は上位に位置している。巫女は禁足地にある裂けた大穴を利用せずとも、自在に意識とビヨンドとを繋ぐことのできる媒介者である。一方裾野の所属する禰宜衆が用いるのは祈祷術であり、花塚とは開祖が悟りと共に身につけ広めた一つの流派である。意識とビヨンド因子を意図的に組み合わせ、花の幻想を顕現させる事が出来た。

 通常垂れ流しにされている意識・無意識がそれと都合の良いビヨンド因子と掛け合わせられ幻想が作られるのは単純に確率論でしかない。現在裾野が相対しているような幻想が顕現しているのは奇跡的な確率で巡り会った結果でしかなかった。一方花塚は、修行者が大峰に籠り培われてきた技術が継承され、また研鑽された結果、術者にとって都合良い幻想原理を持った幻想を顕現させる事が可能だった。種々様々なビヨンド因子の内、存在確率の高い因子と相性の良い意識の組み合わせを気が遠くなる時間、試行錯誤した結果習得した知識・技術の賜物であった。また、花を摘み祀る動作は奉舞でありそれを以て奉納とし簡易の儀式とした。所作を見て摘み取る動作だと解した同調者を儀式参加者とし、その統べられた意識でもって幻想の強度を増している。

 それに加え禰宜衆は通常裂けた大穴から溢れ散った数少ない中から因子を取り入れなければならなかったが、巫女がビヨンドと繋ぐことで、禁足地周辺に近い濃度のビヨンド因子の中から選び取る事が可能となった。つまり巫女は祈祷術・花塚で使用する幻想を顕現させる為に組み合わせるビヨンド因子の存在確率を底上げする事が可能だった。

 しかし、元々ビヨンドに近いこの立入禁止区域では花塚の効果向上もあるが幻想側への利もある為、まずは環境を変化させる必要があった。

『片喰』により場に亀裂を入れ、『金木犀』によって荒れた場を整えた。普段簡易的に金木犀だけを用いるが、花塚の基本に忠実に手順を踏む。

 裾野は汎用呪具とされた印が施された布を手に巻いて構える。印はビヨンド側のシステムと結合した意識を分解する効果があるが、所詮は汎用呪具であり、普段は街を泳いでいるスカイフィッシュや幻虫へ触れる為の呪具として使用が成される程度の代物だ。しかし『根』により、陳腐な汎用呪具の印効果を倍加させる。仕上げに『ツルニチニチソウ』により時間経過で幻想原理の減退を行う。アンハッピーサインから出た幻想原理がどんなものかは裾野に想像つかないが、少なくとも羽ばたき移動するというのであれば、減退によってそれが難しくなる。

 五分程度周囲を飛び回る幻虫を汎用呪具を纏った手で祓っていたが、青い花が咲き効果を十全に発揮しだすと、花塚による環境は完成し幻想は幻想たる原理を不能とし、飛び上がった幻虫は地に落ち、やがて消えた。

 今回四本の花塚を使用した。本来裾野一人であればそれぞれの技を十全に扱うことは難しい。裾野の力では儀式範囲を周囲数メートルに制限されてしまうからであり、その儀式範囲の中にある因子で花塚を練り上げなければならないからだ。今回は、ビヨンドと儀式を繋ぐ巫女の東が媒介者としてサポートする事で可能となっていた。

「疲れた」とつぶやいて裾野は地に体を投げ出して、東は意識を戻し膝についた砂を払っていた。

「お疲れさん。場の支配が花塚の真骨頂だから効果覿面だね。こういう数で勝負みたいな場合、ゴリ押しのパワー系は相性が悪いわ」

 穂波は途中から人に害がない事を悟ったのか、幻虫を潰すのを止めていた。

「そういえばあの獣の手みたいなのなんだったんですか?」

 もう消えてしまった右手に視線を送る。

「何かはよく分かってないけど幻想の手。猫手って呼んでる」

「絶対猫じゃないですよ。というか、花塚じゃないですよね」

「私、花塚使えないし。禰宜衆には臨時でいただけだからさ」

「え?」

 衝撃の事実に裾野は目を見開いた。穂波とは付き合いもそれなりに長いのだが、それなりに長いが故に正規の禰宜集でないだなんて、疑念も抱かなかった。引退した為に同じ現場に出ることはないが、サポート人員としてたまに手伝ってくれる存在だと勝手に思い込んでいた。

「知らなかった?私昔から森生に頼まれた時だけ臨時で手伝ってただけなんだよね。謂わば森生の私兵よ」

「じゃあその猫手、は何なんですか?」

 疑問の解答をもらったと思ったのに、裾野の頭には更に疑問符が浮かぶ。どれから手をつけようか考えたがしかし、ひとまず最初の疑問に触れることにする。

「私アカデミー出身なんだよ」

「はあ?東神社の敵じゃないっすか。よくそれで禰宜衆へ臨時でも入れたっすね」

 驚いて詰め寄る裾野に「落ち着け」と穂波はデコを抑えて制した。

「だから森生がなんとかしたんじゃないの?私はよく知らないんだよね」

 裾野のみならず東も知らなかったようで、血に膝をついたまま呆然としていた。

「それじゃ、アカデミーお得意の天然記念物みたいなレア呪具ですか?」

「話せば長くなるんだけどさ、アカデミー在籍時に教授が海外で論文の発表があるっていうからついていったの。それで準備に教授の知り合いの大学に行ったんだけど、学生サークルが戯れに悪魔召喚をやってるっていうから興味本位で見に行ったの。行ったらさ、まさか本当に召喚できちゃったって話で。契約したら力くれるっていうから内臓を贄にあげて、力を貰ったわけ」

「何をあげたって?」

 思わず裾野は聞き返す。聞き間違えたのかと思った。

「内臓。内臓っていっても小腸を少しと胆嚢だけどね」

 全く聞き間違えじゃなかった。

「物分りの良い悪魔でさ、わりと条件詳細に聞いてくれたんだよ。上乗せすればその分いいものくれるって言うしさ」

 アカデミーも悪魔召喚も色々頭の追いつかない事情と単語でいっぱいだった。けれどそれ以上に内臓に贄というインパクトのある言葉で心配にならないわけがなかった。

「それで、体は大丈夫なの?」

 たまらずにといった風に東から声が上がった。

「まあ少しだったら大丈夫だよ。私もあの頃はまだ若くてさ、全ての理不尽を腕の一振りでなぎ倒すような力が欲しかったんだよ。まあ後悔が無いっちゃ嘘になるけどあの時の自分より先に進めたからさ。それでいいかなって今は思ってるよ」

 いつも胸を張って何者も敵では無いように思える穂波さんでも、敵わないと思うような現実があったのだ。その事実が裾野にとって今日の出来事で一番の衝撃だった。

 淡く青い光を放つ花が徐々に光を失ってきた。光が完全に失われるとまた幻虫が活動の再開をするのだが、穂波は落描きの前に立つと、右手を猫手に変化させる。それから手を薙ぐと、落描きはコンクリごと抉られた。

「幻想原理は何なんですかね」

「さあ。幻想標準世代がわからないのなら、私には分からないな」

 飽きたのか、疲れたのか、眠いのか大きく欠伸をひとつ。それから穂波は一拍手を叩く。一言のねぎらいの後に、「今日は帰りましょう」といったその時に、座り込んだままの東がピンと肘を伸ばして手を上げた。

 学校じゃ考えられないくらい真っ直ぐ月へと伸びていた。裾野と穂波が伸びた指先に注目すると、東が「帰る前になんだけど」と前置きして、

「さっきの人達うちの高校の人達だったよね?クラスは違うけど」

 言って、裾野に視線が動く。しかし裾野は考えた結果、首を傾げ心当たりを見つけることが出来なかった。

「いや、絶対そうだよ。全員じゃないよ?男子二人ね。一人は一緒に遊んだことがあるし、もう一人も見かけたことがあるよ」

 東の説明を聞いても裾野の頭に浮かぶ制服を着た顔が無かった。

「なるほど。ま、それも含めて森生に報告しておくよ」

 それから穂波は地面に座り込んだままの東を立たせ、裾野の方を向いて口唇の端に指を当ててみせ、歩き出した。穂波のジェスチャーの意味がわからず、足を止めて手で唇に触れると指が赤く染まった。そういえば、先からジンジンと熱を感じていた。殴りかかられた際に避けきれなかった傷だろう。指で唇の具合を確かめていると、

「それ、痛む?」

 先を穂波と歩いて行ったのかと思っていた東が傷口を覗いていた。

「さっきまでは痛くなかったけど今になって痛くなってきた」

「大分切れてる。会所に薬箱あるから消毒くらいなら出来るよ」

 どういう風の吹き回しか心配をする東に裾野は面くらい、言葉に詰まってしまった。詰まったまま「うん」とだけ言うと、「それじゃ帰ろう」と穂波の後を追った。

 なんだか久々に東とまともな会話をしたのかもしれない。中学の途中までは普通に会話できていたのだが、終わり頃にはあまり話さなくなった。裾野はひどく懐かしい気分になった。

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