三章 踊り場
東が朝学校へ到着すると、体育教師がデッキブラシを持って渡り廊下に描かれた落描きと格闘していた。体育教師の猪俣が一生懸命にブラシで擦る姿を野次馬が取り囲んでいる。後から到着した教師が野次馬を散らすが次々と登校してくる生徒は新たな野次馬となり教師は「教室へさっさと行け」を繰り返し叫んでいる。
いくつかの落描きの中には例によってアンハッピーサインもあった。昨日見た羽虫の幻想が湧いていたのだろう、まだ僅かに宙を漂っていた。その幻虫を体育教師とは別の教師がデッキブラシを振って追い払っているのだが、幻想として認識してブラシを振っているのかは謎だった。
教師が落描きを消してしまえば裾野の出番はないかとは思うが、一応連絡を入れておく。
立入禁止区域で落描きから湧いた幻虫を確認した日から連日この様子で、昨日はバレー部の部室棟に落描きがされていた。先々週までも確かに見かけることはあったが今週に入ってから数は増大している。その度に裾野に連絡を入れているが裾野が対処しているのかは謎だ。ただ禰宜衆として真面目な裾野なのできっと指示を仰ぐなり自分で対処するなり何かしら動いているとは思っている。
「まーたあの落描きだってさ」
波島はいつも通り眠気の欠片もない、整った顔で登校していた。朝が強い事が彼女の自慢の一つだった。
「模倣犯ていうらしいよあーいうの。そんなに魅力的なのかな、匿名で不満を提示することがさ」
波島はうんざりとして言う。
東は机に鞄を置くと、橋詰の椅子へ腰掛けた。
「下手な占いと一緒だよね。あなたは日常に不満がありますか?ってやつ。だれだって不満なんてあるに決まってるでしょ、みたいな」
「ねえ、内在する不満てどこからきたの?」
波島はアンハッピーサインの意味は知っていても由来は知らなかったらしい。
「幻想標準世代が言ってるとか」
「結構眉唾じゃない?その言葉だけ独り歩きしてるイメージがあるんだけど。それにさ、幻想標準世代で括るのもおかしいじゃん。世代だとしたらさ、私達だってそうだけど魚見るくらいしか幻想と接点ないし。たまに話に上がる共感力なんて実感ないしさ」
「個人差はあるしね。でも複数人が口裏合わせずに意見が一致するとさ、やっぱりそうなのかな、とは思うよ」
東は巫女ではあったが幻想標準世代と括られる人達が持っている幻想原理を見抜くような直感力も、そこから通じる音楽や芸術に対しての特出した共感力も持ち合わせていない。しかし昔から幻想に携わっている東神社の中には代々そういった人間も多く名を連ねているし、今更信じるとか信じないとかいうようなことは無かった。ただ、幻想標準世代とかいう言葉が生まれたのは数年以内の話であることから波島が疑念を持っていることにも不思議はない。
色々捲し立てた割にはそもそも対して興味が無かったみたいに、波島は「ふーん」とだけ言い、スマホを取り出して指を動かす。それから「そういえばさ、見てこれ」とSNSのトーク履歴を差し出され、話題は次へと流れてゆく。
「現国の竹内、一年の子の親と不倫してたらしいよ」
ウソ。
「見てここ。昨日部活のメッセージ回ってきて大騒ぎ。夜中の二時までやってたんだから」
画面を覗き込むと長いことメッセージトークが繋がっていた。朝から文字を読む気にならず顔をあげて、口頭に切り替える。
「誰の親?」
「剣道部の子。東は知らないと思うよ。大会の手伝いで親が出てたらしくて。そこからなんじゃないかって言ってんだよね」
波島はバド部だったのだが、部活動では繋がりがあるらしい。「あー気持ち悪い」と腹の底から感想が出た。
「ねー、つか竹内もよく不倫とかできるよね。自分の顔見てやれって話じゃない」
「でも不倫自体は成功しちゃってるんだよね」
東は竹内のシルエットがどうだったか、顔の造形がどんなもんだったかを思い浮かべる。一般的に言って格好良い大人って感じの容姿ではないと断言できるけれど、恐らく皆が皆、容姿の良し悪しだけで人を選ばない、と考える機会がいくつかあった。
その言いようは、東の中では未だに綺麗事だ。けれど、東は実際見てしまっている。立入禁止区域にいた五人組もアンハッピーサインという、あんなわけのわからないものなのに、その共感に集まった。同じもの、近いものを互いに持ち得たから集まったんだ。
東は、自身が思う以上に人は人の容姿も含めた様々なものに惹かれてしまうのかもしれない、と今はそう思うに留めていた。
「竹内ってどこか良いとこある?」
東は自分には見出せない答えを波島が持ちうるのか、それが少し気になった。
「いや、どうみてもただのおっさんだし。顔もスタイルも良いとこないでしょ」
「学校だとそうだけどさ、プライベートは格好良かったりするのかな。無茶苦茶性格いいとか」
波島は頭おかしくなったのかこいつと言ったように顔を歪めて、
「ないないない。ないでしょー。それとも何、東はいける要素あると思ってる?」
「ないけどさ、あると思った人が居たから成立したわけじゃん」
聞くんじゃなかったと、東は後悔した。しかし当然だ、波島は出会った時からこういう奴だった。
「えー東ってそういう人だったっけ?なんか見誤ってたかな」
「……どういうことよ」
訝しむ物言いと、見誤っていたという聞き慣れない単語に構えてしまう。
「東って……こういう事に関しては自分の中にある答えで行動を決める人じゃん。分かり易い指標があるから迷わないでしょ。そういう強さじゃん。分からないものは分からないで一蹴するし」
「ものすごい単純な奴に聞こえるけど」
「単純に決められるところは単純に決めれば良いじゃんて私は思うよ。それは東を見ていて思ったんだけどね。だって、そうでないからアンハッピーサインなんてのが流行ると思うの。私嫌いなんだよね。弱さの象徴みたいでさ。弱い奴に興味ないし」
波島とは特に口には出さないながらも共通認識が成り立っているものだと思っていた。実際それで決定的に間違っていると思っているわけではないし、僅かな違いをすり合わせる必要性が有ると思ってもいなかった。だから波島が正しくどう人を見ているのか、その考え方を言葉にして初めて知った。そう、だから東にとっても決定的ではないにしても見誤っていた部分がある。
「いや、私こそ見誤ってたわ。あんたそういう感じなの?」
「どういう感じ?」
「人を強い弱いで見てるとこ」
「東だってそうでしょ」
波島は淀みなく断言した。あまりに東自身の事について当たり前みたいに言うものだから何故だが面白くなってきて、笑い始めた波島に合わせるようにして東も笑ってしまった。
内藤と町田が登校して教室へ入るなり騒がしくしていた。尾崎を見つけて何やら盛り上がり、すぐにまた教室を出ていく。出ていったかと思えば三人がまた戻ると今度は東と波島の席に寄って来た。
「階段の踊り場で三年が痴話喧嘩してるぞ」「アレはちょっとイタいわ」「しょぼい二組が言い争ってるぜ。ちょっと見てきてみ」三者それぞれが階段での争いを見てくるように促すが、「いいよ、面倒だし」「私もどうでもいいー」と東も波島もにべもない。
席を立たない二人を見て男共は「ノリ悪いな」と諦めて自席へと帰っていった。
「馬鹿だね。あいつ等」
「最近諍い多いよね。落描きもあるしさ。不倫もあったし、どうなってんのようちの学校」
波島の演技かかった嘆きに東も同意する。
しかし、東は本当に嘆きたかった。諍いがあるところに幻虫が出現するからだ。今までは諍いがあるからといって必ずしも幻虫が出現するわけではなかったが、明らかに今週は出現頻度が異常だった。
東と裾野は毎日会所に向かい見廻りを行っているのは、管轄地域内での幻想を退治し管理する事が禰宜衆と巫女の日常的な役目であるからだ。しかし、管轄地域とは外れていても、命が下れば退治に向かわなければならない。そして、自分たちが通っている学校であるのであれば当然管理出来ていなければならないというのが、東神社に名を連ねる者として当然の常識だと教わってきている。高校を卒業すれば巫女の役目からも解放されるのだし、そんな真面目にやらなくても良いかとも思う。けれど学校の幻想を管理できなかったことでウチからとやかく言われたくなかった。だから仕方なく、机の奥へ仕舞った巾着袋を手に東はひっそりと立ち上がる。
誰かに見られて内藤の言う通り喧嘩を見に行く形になってしまうのは恥ずかしかったので階段とは反対側の扉へ向かい、トイレへ行くふりをして教室を出た。すると甲高い女子の声が聞こえるのと同時に、何かが腐敗したような生臭い臭いが鼻をついた。登校してきた時には気にならなかったのだが、幻想との関わりが頭を掠める。が、ひとまず臭いに大した害はないと判断した。それよりもクラスの誰かとすれ違わないよう祈りながら階段へと向かう。階段の丁度上から、踊り場で男女が言い争っているのを覗くことが出来た。
内藤の話ではカップルが二組いると言っていたが、泣きながら訴える両者の彼女の声を聞きつけてか仲裁者が追加で四人増えていた。でもよく聞いていると仲裁者である子達も感情的になっておりまだ収束は見えない。
それもそうだ、と東は思う。夏、汚い溝に湧くボウフラが、ふらふらと漂うようにして周囲に現出していた。幻想原理は『煽り』。しかし特に幻虫への反応はないようだった。仮に感覚の鋭い人が居たとしても、大抵が目の前の事象の当事者になると幻想に気付くことは稀だ。
「あー気持ち悪い」
東は吐き捨てるように言う事で気持ちの悪いものを見たストレスを軽減させる。
背後を見て、誰も居ないことを確認した後、東は切麻(きりぬさ)を諍いの頭上へと放り投げた。ヒラヒラと浸透するように舞い、落ちてゆく。
最近幻虫の出現が頻繁ということで祓具として切麻を袋いっぱいに貰っていた。切麻とは麻を切り刻んだもので、穢れを祓う力がある。東神社では古くから麻には呪力を通す物としての信仰があった。花塚との相性も良く、麻は呪物を作成するのにも適していた。
久々に使ったので効果を少し疑ってはいたが、切麻が落ちる頃にはボウフラはあっさりと消滅していた。ついでに周りを泳いでいた小さな魚までもが巻き込まれて消えてしまっていた。消滅すると異臭もなくなったようで空気も澄んだような気がする。
これで徐々に皆落ち着きを取り戻すだろうと東は胸を撫で下ろした。
「だっる。なんで朝からこんな事しなきゃいけないの」
東神社の家系に産まれたことを恨みたくなる。ただやっておけばこの家系の中で生きる上で一定の評価も貰えるし、やっていたおかげもあって、妹の件もあるが卒業後の進路についての交渉もうまういったと思っている。裾野のように社会人になっても関わる気でいる奴も居るけれど東にはもはや興味がなかった。
東は諍いの終わりを見届けることをせず誰の注目も浴びないよう何でもない顔をしてクラスへと戻った。その戻り際、気づけば先まで漂っていた異臭も無くなっていた。
早朝、森生君からメッセージが入っていた。森生君は穂波さんの彼氏であるが、東神社の宮掌(くじょう)として社務をおこなっておりまた兼任する形で禰宜衆の副棟梁をも勤めている。普段はおっとりして初対面だと舐められがちだが、あのライオンみたいな秋庭穂波を手なづけているので決して侮れない。もちろん二十代で副棟梁という立場にいるのは禰宜衆としての優秀さの現れでもある。
メッセージにはアンハッピーサインから生まれる幻虫、その幻想原理と今後の方針が書かれていた。
スカイフィッシュを食べるという危険性を鑑みて幻想原理を見抜くことが可能な『目』を持つ人間を海外から呼び寄せ、鑑定してもらったらしい。また永らく謎だった『ダイダラさんの落とし物』と呼ばれる大鍋の幻想原理についても書いてあった。
スカイフィッシュを喰らう虫は幻虫とは違い固有の幻想であり、その幻想原理は『廃り』であること。また『ダイダラさんの落とし物』と呼ばれる大鍋の幻想原理は『学校生活』そして、大鍋に溜まり腐水の幻想原理は『不都合の結実』という事だった。どうやらここ数日で水の幻想が変質したらしい。
また今後の方針として、複雑で影響力のある幻想を作り出した人間は他にも厄介な幻想を創り出す可能性が高い為、廃りの幻虫を作り出した人間を探し出し、今後幻想の作成が出来なくなるよう意識に上書きしろとの事だった。
その事については裾野に任せることにした。ひとまず東としては立入禁止区域でアンハッピーサインを描いていた二人に話しを聞いてみることにした。
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