三章 乱れ

 東のクラスは四限が移動教室だった。美術室からクラスへと戻る途中で、教室から出てきた男子と東はたまたま目が合ってしまった。その男子が出てきた教室では、他の男子達が着替えている様子がちらちらと見える。目が合って一秒、先日立入禁止区域でアンハッピーサインを模倣していた男子だと理解した。理解したが故に目を離すことができず必然見つめ合う形になってしまった。どうすべきか考えるだけ気まずさがましてゆく。無言で見つめ合い、もはや何もなかった事に出来ず、誤魔化す様に東は話しかける事にした。けれど話しかける事になって、アンハピーサインのオリジナルの作者か確かめてみれば良い、丁度良いかもしれないなと方針を固めた。

「もう昼休み?」

「あー、四現が早く終わったからさ」

 波島と話の途中だった為、急に他クラスの男子に話しかけたことに波島は怪訝な目で見る。「急にどうした?」と続ける波島を先に教室へ帰るよう促した。

「……誰かに用だった?まだわりと教室で着替えていると思うけど」

「ううん、佐野君と大杉君にちょっと話が聞きたいんだけど」

 佐野は後ろに控えた大杉と顔を合わせ大杉が「どんな話?」と後ろから尋ねた。

「単刀直入に聞くけど、この間立入禁止区域にいたよね」

「立入禁止区域?」

「俺たちそんな所行ったことないけど」

 大杉は惚けて、佐野がそれに続く。

「あー、ごめん。話の入り口だったから質問にしたけど、そこは確定してるんだよね」

 嘘をつかせる前に言えば良かったと東は思う。恥をかかせる事を申し訳ないと思ったわけではない。嘘だと分かっている芝居を見させられるのは苦痛だからだ。

「なんだよ確定してるって」

 不満げでもなく、佐野の表情は変わらない。

「私、東神社の人間でさ。名字、東だからわかるでしょ。立入禁止区域で二人が穂波さんにボロカス言われてた時、路地の影に居たんだよね」

 佐野と大杉の張った肩の力が抜け落ちた。

「それで何、学校に言うって話か?」

 諦めたと言ったように大杉が聞く。まるで今から両の手首を差し出そうとする様子にどうやら先日程の勢いは無いようだった。

「そういう事じゃなくて、あの時アンハッピーサイン描いてたじゃない。そっちのクラスと私達のクラスに落描きしたオリジナルの作者なのか聞きたくて」

「そういう事じゃないの?」と東が言い終わる前に大杉が呟いていた。相当意外だったのかもしれない。

「…違うよ。この間の気合の入った姉さんが言った通り。ただのコピーだよ」

 佐野は随分溜めて反応した。でもその溜めが大杉と同じ様に面食らったのか、はたまた誤魔化す為に考えていたのかは東には読み取れなかった。

「本当に?」

「本当本当。じゃなかったら偽物だなんだボロカスに言われた時にそう云い返すって」

 確かにそうだと東は納得してしまった。会話をよく思い返してみればわかった話だ。けれど東は一先ず確認はしたという事で良しとすることにした。

「今日もグラフィティ?っていうんだっけ。描きに行くの?」

 東は二人の顔を見るに、まさかこれで話が終わりだと思っていないような硬い表情だった。その為用事は済んだが雑談を始めてしまう。

「いや、今日は行かないよ。それに立入禁止区域に描くのはもう止めるよ」

「それが良いよ。同級生を警察連れていくなんて嫌だしね」

 東にとって彼等が何処で何を描こうが知ったことではないが手を煩わせるのだけは許しがたかった。この回答で一安心ではあるが駄目押しにとさり気なく脅しを入れて会話を終えようとしたところだったのだが。

「あれ、東何やってんの?何か面白そうな話してるけど」

 尾藤 應矢(びとう とうや)だった。尾藤は内藤と仲が良いこともあり、前に遊んだことがある。佐野もその時一緒に遊んだ面子の一人だ。

「昼休みの始まりが早かったみたいだから、その理由を聞いていただけだよ」

「グラフィティやってるって話してなかったか?」

「それは佐野君と大杉君がね。私はやらないよ」

 その時、廊下の端が騒がしくなった。恐らく廊下にいた皆が同じ方向を向いた。廊下の向こうから三人が走り、その後ろを「止まれ!」と叫ぶ教師が追いかけている。先頭を走る小太りの男子が紙の束を散らしながら必死に走っているが、脇を走る男子二人は笑っており教師を振り返る余裕があった。三人の男子達が東の目の前を通り過ぎ、そして後に体育教師二人と一年の学年主任が続いた。教師達は生徒の名前を叫び、周囲に止めろと呼びかけるが皆突然現れたトラブルを遠巻きに眺めるだけだった。その例に漏れなかった東だったが、それもつかの間、撒き散らされた紙に印刷されていたのはアンハッピーサインであった事に気づいた東の心臓は跳ね上がる。

「なんだあれ。一年だよな?随分調子こいてる奴いるのな」

 尾藤は廊下の端を曲がってゆく一団を見送っていた。それから廊下に散った紙に描かれた落描きを見て、何の話をしていたのか思い出したようだった。

「そうだ。佐野、なんでまず俺らを誘わねーんだよ」

 尾藤は廊下の喧騒にはもう興味を失い会話を再開した。

「こういうことやるなら大杉とやった方が面白いと思ったからさ。お前には関係ねーよ」

「は?」

 もはや話に関係もなかったし、アンハッピーサインがバラ撒かれたと裾野に現状を伝えたかったのだが、佐野の喧嘩腰の返答で空気がキッと張り詰めて動き難くなった。それから廊下に今日の朝も嗅いだあの腐敗臭が立ち込めた。

 尾藤の剣幕が鋭くなると、話を聞いていたのだろう、松井と望月が教室から現れた。

「なんかさあ、最近佐野付き合いわりーよな」

「今丁度思い出したんだけどさ、こいつ俺らの事嫌ってるみたいよ。大杉と俺らのことごちゃごちゃ言ってたのを内藤が聞いてたんだってよ」

「おっそ。なんで今思いだすんだよ」

 東には笑いどころが分からなかったが松井と望月にはどうやら面白かったようで、やけに大きな声で笑いだした。

 尾藤は一人廊下に散らばった一枚の紙を拾い上げる。

「なるほど、グラフィティね。文化祭もお前がやったのか?」

 佐野は「やってないって話を今していた」といいかけた処、尾藤は突然佐野へ拳を振るった。不意打ちみたいな拳だったが佐野はとっさに反応しギリギリのところで躱した。

「あー嫌いだわ、お前みたいな奴」

「なんだイキナリ。頭おかしいのかお前」

「何やってんだテメエ!」

 二、三歩後退した佐野よりも、大杉の方がより怒りを顕にした。

「黙ってろやステラ!てめえも潰すぞ!」

「昔のあだ名で呼ぶんじゃねえ!お前いつまで猿山の大将やってんだよ!」

 そして尾藤が動き、それに反応した大杉も尾藤に殴りかかった。そこへ望月と松井が加わり、廊下は二度目の騒乱となった。

 東はパニックだった。ただ佐野と大杉に話を聞いてアンハッピーサインの作者じゃない事が分かりひとまず今日の仕事はこれで終わりだと思っていたのに、急に一年がアンハッピーサインのコピーの山を持って走り抜けて、かと思えば突然喧嘩が始まった。正直何もついていけていなかった。

 散らばったコピー用紙から廃りの虫がジワジワと湧き始め、廊下は腐臭が立ち込めている。たまたま漂っていた小さなスカイフィッシュが一瞬にして廃りの幻虫に喰われ、それによってかまた鼻孔に感じる腐臭が濃くなった。

 また廃りの幻虫とは別の様々な種類の幻虫が陰から湧き出していた。この喧嘩も、喧嘩に至る流れがあったわけだが、いくつかの幻虫の幻想原理の影響で起こった結果なのかもしれない。それでも幻虫までは良かった。幻虫までは数が増えても巫女の自分と裾野がいればなんとかする自信はあった。けれど東は尾藤の頭に角を見つけてしまった。幻虫だけでなく、「鬼」に分類される妖魔が育ちつつあるということだった。

 やばいやばいやばいが東の頭の中を駆け巡る。角が生えるのは鬼系の幻想だし、総じて気性が荒くなり力が強くなる。そしてなにより会話が通じなくなることが問題だった。鬼として顕現されたわけではなく、人に鬼が憑くという形で顕現した事は幸いだったが、理性を飛ばした化け物になる可能性は多分にある。それに放おっておけば人の中で育ちきった妖魔は人の殻を破って形をなして外へ出る。そうなってしまえば収拾がつかなくなる。だから人の内にいる間になんとしても対処しなければならなかった。

 東はパニックになった頭でどうしたものかと考えたがどうにもならず、自分がきっかけで作ってしまったこの出来事に後悔と自分の性じゃないという責任の放棄を繰り返していた。しかし当然それでは事態に何の影響もない。時間の経過と共に酷くなってゆくのを見ているのもたまらずに駆け出した。

 2-8のクラスを目指して、もうぜんぜん廊下の喧騒なんて興味ないって顔できっと気持ちの悪い笑い方をする男子達と訳の分からない話をしているだろう裾野に何とかしてもらうしかなかった。

 クラスの扉を開くと、案の定全く喧騒に興味がなさそうに群れている男子たちの中に裾野を見つける。そして、

「裾野、お願い、ちょっと来て早く!」

 クラスの人間全員が東に視線を寄せたが、気にせず裾野に早く来いとジェスチャーを送った。裾野は男子達と話している輪から顔を出すと、何も言わずに立ち上がり、東が指差す方へと走りだした。

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