一章 Boming
朝起きて目が覚める。いつもは目覚ましで起きるのに、今日は鳴る三分前に起床した。遠足を楽しみにしている小学生みたいな自分の無意識が恥ずかしい。
文化祭当日の朝、カーテンを開けば快晴で一瞬にして目が眩んだ。明かりに目が慣れるまで目を瞑って、ぼおとした頭を覚醒に近づける。朝の準備をして、用意された朝食を食べ、行ってきますと挨拶をして家を出た。
昨日は文化祭前日ということもあり、作業は佳境で大忙しだった。それに加えて入江のせいで帰るのが遅くなってしまった為帰ってご飯を食べて風呂入って寝るだけとなった。
昨日準備が終わったのが十九時、学校を出て駅まで十五分。それから入江がスケッチブックを忘れたと言い出し明日にしろと説得を試みたが聞かずにブーブー言いながら皆で学校へと戻った。昇降口はすでに閉まっており、一階にある職員室の窓を叩くと担任がしぶい顔をして寄ってきた。
「何やってんだお前ら。まだ居たのか。早く帰れ」
「帰ったんですよ。でも入江がどうしてもスケブ持って帰るって」
困ったやつだなとぼやき、親指で裏口を示す。四人は裏側へ回ると「あったら職員室へ鍵返しにこいよ」と美術室の鍵を渡された。
「俺は職員室で待ってるから」
早く行けと顎でしゃくる。四人は上履きを取りに昇降口へ向かう。すぐに足裏の体温をもっていかれ、冷たい冷たいと叫びながら四人は跳ねるように靴箱まで走った。それから美術室へと上がる。
しかしスケッチブックがないと入江が慌て、四人で美術室、準備室を探し回ったが見つからない。どうしたものかと考えていると、入江が恥ずかしそうに「教室だ」と呟いたので非難しながら2-8の教室へと向かった。つい今し方完成したホラーハウス。少路が教室の電気をつけると入江がロッカーへと向かった。水谷と少路は自分たちの制作物を改めて眺め、高野は一人他クラスの前で様子を伺い回っていた。
「私達、結構頑張ったよね。どう?水谷さん」
「気分を害される程度には良く出来てると思うよ」
水谷は眉間に皺をつくり呼吸を深くする。
「まあ私は別にアンチダリアでもないしこれはこれでって感じ。ホラーハウスと言われると違う気がするけど」
ねえ、と廊下の突き当りから展示を眺めながら戻ってきた高野へ少路は同意を求める。けれど声が届かなかったのか、高野からの返事がない。
考え込むような高野に少路が声を掛けるが、目の前まで来て漸く水谷と少路に気づいた様子だった。
「お化けでもいた?」
誂うように嘯きそれに乗っかる返答を期待したのだけれど高野の表情は変わらなかった。それから何かを発っしようとしたその時、目的の物を見つけた入江が明るい声を挙げた。ごめんごめんごめん、とロッカーからスケッチブックを持ち出した入江が誰よりも早くクラスを抜けて階段へと走りだした。それを見て三人は「誰の為に付き合ったと思ってんだ」と追いかけて、わーわー言いながら入江を追った。
そんなこんなで、昨日は疲れて寝るだけだったので、もう学校へ行くのかと不思議な気分になった。
朝からふわふわしている。文化祭とはいえ気分はお祭りで、ここ数日頑張ってきた成果の披露の場でもある。ホラーハウスのデザインは好きではないけれど、それとこれとは別の話だった。
電車に乗り、都合よく空いた席に座って文化祭のパンフレットを眺める。パンフレットを眺めると他のクラスに興味が湧くものがあった。クラス展示の役割のシフトが空いたら誰か誘おうかと思う。満員電車をやり過ごして同じ制服姿の人波に乗り学校へと向かう。見慣れた通学路に見慣れた人達。けれど皆どこか浮き足立って見えるのは決して勘違いではないのだろう。
すかしている奴もいるし、興味なさそうな奴もそれなりに居るけれど、やはり文化祭というイベントに何かしら心動かされているのは間違いなかった。
水谷は高野の背中を見つけ、声をかける。
「高野、眠そうだね」
瞼が半分ほど落ちて、表情の動きが実に緩慢だった。
「ずーと海外アーティストのPVみてたら止まらなくなっちゃったってさ」
今度教えてあげる。というが、
「私洋楽聴かないんだよね」
「水谷が好きか嫌いかとかじゃないの。知って欲しいの」
「強引なセールスマンだな」
「高野はウチの展示の受付何時から?」
「十四時半時から十五時。水谷は私の前でしょ。入江と少路はその後って言ってたかな」
「じゃあ午前皆でまわろうよ」
「いいね、私中学の同級が三組にいるから行きたいんだよね」
「あ、私もそれパンフみて行きたいと思ってた」
四人が揃う前に二人結託して行き先を決定してゆく。入江も少路も拘りが強いので結託しないと中々決まらない。二人は互いに手を差し出し、熱く握りあった。
門からしてお祭だった。看板が立てられ、アーチが花に彩られていた。文化祭実行委員の仕事だろう。登校する生徒が昨日と様変わりしつつある学校の様子を指さし、軽快な笑い声があちらこちらに咲いている。
上履きを履いて、廊下に出ると非日常がそこにあった。各クラス、早く登校した生徒から次々展示物が廊下に出された。文化祭でもなければ教室前に余計なものが置いてあればすぐに教師が走って犯人探しが始まるのに、治外法権下にでもあるような、やはり非日常だった。
水谷も高野もそれぞれのクラスを覗いて歩く。活気のある声があちらこちらから聞こえ、一年のクラスは二年や三年ほど作り込まれてはいなかったがそれでも慌ただしく準備を始めていた。階段に差し掛かると前に少路と入江の後ろ姿があった。
二人に声を掛けようとしたその時、上階から女子の声が聞こえた。いつも以上の喧騒の中、、聞こえたのは浮ついた声ではなかった。場違いな、不安を含んだようなどよめきだった。
階段を昇りきると、クラス入り口には人の垣根があった。「なんで」とか「気持ち悪い」だとか、そういった声が聞こえる。少路と入江の背中も入り口で止まった。
「どうした」と高野が声を上げる。先に居る二人は後ろを振り向くと、二人が二人とも戸惑いを顔に浮かべ、言うより見るが早しとばかりに中を指差す。
水谷は背伸びをして中を覗き見た。
クラスの中には緑と黄色の斑になった蛇がホラーハウス中を這っていた。
ダンボールで出来た壁、驚かす仕掛け、吊るされたお化けに、吸血蝙蝠。準備してあった吸血鬼とゾンビナースの衣装にも。派手な蛍光色の緑と黄色のスプレーがうじゃうじゃとうねる様にして、作ったものを否定していた。そしてクラスの前後扉間の間仕切りには悲しんでいるような怒っているような顔のマークが一面に落描きされていた。
更に後続が到着する。内藤や東達全員勢ぞろいで、戸惑いを帯びた一体からすぐに不安が伝染してゆく。
「何だよこれ、誰がやったんだよ」
始めて内藤が具体的に現状の疑問を呈し、周囲を見回す。が、誰もそんなこと分かるはずがなかった。作った物はスプレーされてリカバリーのしようも無かった。間違いなく3組の展示を行うことは叶わなくなってしまった。
内藤の発した疑問は全員へと向く。近くのクラスメイトが顔を見合わせてゆく。誰もが自分がやったわけではなく、いつも一緒にいる仲間を信じていたはずだ。でも、であるからして自分が所属するグループ以外の人間へ疑心が湧く。一丸となれないクラスにおいて足を引っ張るかもしれない存在はクラスにいるのだ。少なくとも皆の頭には存在している。
内藤に乗り、町田や尾崎も周囲を睥睨する。東も波島も男子の後ろで手を組み、成り行きを見守っている。たまたま、水谷は東と目があってしまった。反射的に目を伏せると、東が人を掻き分けて水谷の前に立つ。
突然小さな虫が視えた。その虫は東を一定距離で囲っていた。その虫は東の視線に連動し、襲うように水谷の周囲を覆った。水谷は驚いて虫を払おうとしたがその動作に入る前に突然見えなくなってしまった。気のせいなのかと思った。東は中空に意識を捕らわれた水谷を意に返すこともせず、
「水谷さんさ、このクラス展示どう思ってるの?」
騒ぎのど真ん中で東は尋問のような質問を水谷へ向ける。
「別に……何で?」
「前に水谷さん達が話してるの聞いちゃってさ。吐き気がするとか言ってなかった?」
「いや、それは違うんだって……。身体の問題で……。ダリアの影響を受けた絵を見ると気持ちが悪くなるの」
水谷の頭がうまく回らない。だから舌が追いつかなくて語尾が曖昧になる。
「まあ確かに、私ダリア好きだし。みんなでダリアの絵の要素入れて描いたけどさ。でもだから気に入らなかったんじゃないの?」
「ちょっと待ってよ。気に入らないからってこんなことしないし、台無しにするならそもそも頑張って作ってないよ」
水谷は必死に弁解する。そもそも慣れない人間に詰問されるような状況で、疑われる要素を持っている。それが凄く怖かった。「あんた達よりよっぽど時間を費やして頑張った」って後になってからなら言えたけど、水谷の頭には全然言葉が浮かんで来ない。
「水谷の言ってることは本当だよ。幻想標準世代として共感性が強すぎるんだ。そういう過敏症だからホラーハウスに限ったことじゃないの。同じ世代なんだから言う意味は体感的にわかるでしょ」
高野が一歩前へ出てフォローへ回る。
「私達も知ってるし、それは疑う要素にはならないよ。水谷にとってはそれが普通だし、それで気に入らなかったら街中スプレーだらけになってるでしょ」
入江がそう言うと漸く東は口をつむぐ。その様子を見てクラスメイトからの疑念が薄まっていくのを感じ、水谷は心から安堵した。しかし、その疑念が引ききる直前「それじゃあ」と後ろから声が聞こえてきた。声を挙げたのは橋詰だった。
「また余計なのが口出しすんのかよ」
内藤が野次を飛ばす。
「違う。俺昨日文化祭準備が終わった後部室へユニホーム忘れてたから部員と一緒に取りに戻ったんだよ。夏じゃないって言っても放っておくと臭くなるからさ。それで、四人が校舎に入っていくのを見かけたんだよ。だから聞きたい。何をしに校舎へ戻ったんだ?」
それは、と四人は視線を通わせる。そして入江が口を開いた。
「橋詰君と同じで私がスケッチブックを忘れたからだよ。」
「スケッチブックなら別に昨日わざわざとりに来なくたってよかったんじゃないの」
「文化祭準備とコンクールの絵ばかりで最近他の絵を描けてなかったから。家で描くために取りに行ったの。それで、三人にも付き合ってもらったの。それに先生にも許可を得て校舎にも入ってるし」
「教室まで先生はついてきたの?」
「いや、教室へは私達でしか行ってないけど」
「それじゃあアリバイにはならないね」
「なに、じゃあ今一番怪しいのってこの四人てことでいいの」
内藤が話の区切りに割って入る。クラスメイトはもとより他クラスの生徒も集まり状況の推移を注視していた。アリバイの提示をできない四人は広がってゆく疑念の波を止めることができない。周囲を見渡すと、昨日まで一緒に文化祭準備をしていたクラスメイトも疑惑の目を向けていた。
「せっかく彼女呼んでるのに台無しだわ」
内藤が憎たらしく言い放つ。
そこで漸く報告を受けた教師が勢揃いして登場した。今度は教師が何事かと騒ぎ出し、周囲の生徒は静かになってゆく。その中で、担任に橋詰と内藤が近寄り状況の説明を始めた。
結果として、警察が入ることになった。文化祭は中止にならなかったものの、3組と8組はブルーシートで覆われて立ち入り禁止となった。後から聞いた話では8組も同様の落描きがあったようで、3組も8組同様に荒れていたらしい。と、文化祭開始直前に各クラス、担任から事情は説明された。
説明はあっても犯人はわからず、教室に掛けられたブルーシートの様子は異様で文化祭開始直後はやはり騒然とした。ところが一時間もたてば、皆立ち入る警察にも慣れ始めた。外部から訪れたお客さんも活気の中の異質な存在に特別騒ぎ立てるようなこともなかった。
三組のクラスでは水谷・小路・入江・高野が先に教師から事情を聞かれることとなったが、その他のクラスメイトは開放されて文化祭参加が許された。後日それぞれ事情聴取が入る可能性があることは伝えられた。とはいえ、当然他クラス生徒や侵入者の仕業とも考えられる為、現場検証が済んだ後に警察の指示の元、事情聴取含めた対応を決めるという事だった。
水谷を含めた四人は校長室に連れて行かれた。独特の雰囲気でどこの教室とも違う匂いが鼻についた。別に嫌な匂いというわけではなかったが、水谷はたぶんこれから一生この匂いが嫌いになるだろうという予感を感じた。
正しかったり、間違っていない事はきっと大人なら理解してくれるものだと無意識に思っていた。普段の生活態度だって悪目立ちすることもないだろうし、実際注意された記憶もない。クラス内で目立つ子達、例えば内藤や東の方がよっぽど小言を言われているし心象は良くないはずだ。だから、例えアリバイがハッキリしなかったとしても真実を伝えれば信じて貰えるのだろうと楽観している部分が水谷にはあった。
何故わざわざ昨日戻ってきたのか。四人で戻る必要があったのか。担任の話では美術室に向かったはずなのに何故教室へ向かうことになったのか。教室へ向かうことになった理由に無理がないか。
イライラと腕を組みながら肘のあたりを叩き続ける教頭。冷静に話そうとしているのに、声の抑揚が落ち着かない担任。どこか発言に無理はないか睨みをきかせられ、話の組み立てを無理やり崩そうとするように無茶苦茶な質問もされた。まるで犯人と決めつけた質問ばかりだった。
やっていないのに疑われるのは悔しかったし、絶望的な気分になった。信じてくれの一点張りをするつもりも無いけれどそれでも、もう少し信用してくれても良いのではないかという気持ちも当然あった。
四人でよかった。もしこれが水谷個人だけだったのなら、堂々と状況説明が出来なかっただろう。四人だったから何とか返答出来たのだと思う。追及に対して現状最善の回答が出来たとも思う。
教頭や学年主任の追求が終わると、担任が校長室の扉を開いて先に出た。その後を私達は続いた。
外には大山先生が窓際に背中を預けていた。一瞬だけ苛ついた様子に見えたが、出てきた四人を認めると少しだけ柔らかな表情へと変わった。
「みんな大丈夫?関係ないって私からもちゃんと言っておくから」
四人一人一人の顔を見渡すと「少路も入江も泣くな」そう言って髪を撫でた。急に暖かな言葉に触って涙が出てきたのだろう。少路と入江への姿勢を見ていたら水谷も目頭が熱くなるのを抑えられなかった。高野と水谷の背中に手をやって、
「そんな気分じゃないかもしれないけど、楽しんできなさい」
短く言った後、誰かが反応を返す前に厳しい顔になり、校長室の扉を勢いよく開き、中へと入っていった。すでに文化祭は始まっていた。一階は職員室がある為生徒の数は少ないが、騒がしい声が校舎を響かせている。どこへ向かっているのか担任の後ろを付き従うように私達は続いていた。
「ごめん、私が昨日我侭言ったせいで」
入江はずっと泣いたままだ。
「謝ることなんて何一つないよ」
「入江だって謝らなくても良いこと解ってるでしょ」
「私等のいつもの日常が悪意に引っかかっただけだ」
入江が言葉を発したのをきっかけに水谷も少路も高野も担任の後ろに続かずに足を止めていた。それに気づいた担任も足を止め、数歩離れたところでやりとりを眺めている。
殊勝に謝る入江に対して、それを一生懸命に否定した。入江への思いは勿論、クラスの担任に、これでもかと言い聞かせるように。
それでなのか、もしかしたら気まずくなったのかもしれない。担任は「もういいから文化祭に参加してきなさい」と距離を縮めないままの立ち位置から言うと、校長室の方向へと戻っていった。
昇降口のひと目につかない隅っこで入江が落ちつくのを待った。目の前では文化祭実行委員が身内や他校の子にパンフレットを配り案内をしていた。こんなにも近いのに水谷には凄く遠くで起こっている出来事のように思えた。何をする気にもならなかった。ふつふつと腹に湧き上がり始めた怒りをどうしたら良いのかわからない。大山先生はああ言ってくれたけど、やはり文化祭を楽しむなんて水谷には無理だった。四人は暫く壁に寄りかかって楽しそうに校舎に入ってくる人の波を眺めていた。
「ねえ、今から絵描きにいかない?」
水谷はふと頭に過ぎった案を口にした。
「廃墟?」
高野が反応する。
「……無茶苦茶に描き殴りたい」
入江が涙を拭って言う。
「まともなものにする自信はないよ」
少路も水谷と同じなのだろう。瞳に怒りを携えていた。
◇
これでもかってな具合に10号筆にペンキをつけて壁へ向かって思いっきり色で殴りつける。必死になって、一心不乱に誰も声なんて出さず、ただただ筆を動かす。まるで感情を塗りたくるようにして。
額に汗の玉を乗せて、髪を振り乱し、鼻水をすすりながら、ひたすらに四人は筆を走らせるのだった。
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