二章 立入禁止区域
旧豊島区には御園市北川と下川には合わせて五つの小学校があった。この小学校の一部男子達はもはや伝統として仲が悪かった。十年程前までは友人同士で小学校区を越えるとその小学校区の生徒に因縁を付けられたし、その逆もあった。そして二年に一度程、各小学生の武闘派を集め、五校が喧嘩するような事態に発展することもあり、関わらない大多数の小学生達はその悪しき伝統に辟易していた。
そんな時、誰かが豊島区幻想、立入禁止区域の中心地、その禁足地へ一番最初に足を踏み入れた奴が一番だと言い出した。
そうして、最も奥地まで到達できた小学校こそがナンバーワンだと認められるのだと、五つの小学校の間で決められたのだった。
かくして各校の立入禁止区域、そして禁足地攻略への挑戦が始まったのだった。
「どこからにする?」
ステラとミアカはどこから侵入すべきか作戦を練っていた。立入禁止区域はその全体を高さ三メートルはある金網が遥か遠くまで張られている。その金網の上にはコイル状になった有刺鉄線が巻かれ、何キロにも渡って封鎖されていた。しかしフェンスは定期的に点検が行われているものの、常にあるいたずらや、試みられる侵入によって保全されているわけではなかった。そのうちのいくつかを北川第一小では把握しており、状況により侵入口を変えていた。北川第一小には突入班と名付けられた班が三班と立入禁止区域内の近況や侵入口の情報を集める情報班が存在した。突入班は二人一組の編成となっている。その理由は大勢で立入禁止区域周辺を移動していると補導され、辿り着くことが出来なくなってしまうことが多かったからだ。
よって班は精鋭六人によって三班つくられ、情報班から上げられた情報を生かして活動を行っていた。
「西村金具店裏でいいんじゃね」
情報班から上がった入り口は四つある。その中でミアカが挙げたのは直線距離で禁足地に一番近い入り口だった。
「いや、最近あっちでかいの出るらしいぜ」
ステラはミアカの案には反対だった。北川第二小は先週挑んだが入って数メートルで直ぐに引き返す事態となった事を聞いていたからだ。それに、情報班の話ではその第二小がトライして数日後、入り口付近には大きめのスカイフィッシュの目撃談が毎日あるとも聞いていた。
「これからそんなのたくさんいるのにビビッてどうすんだよ」
それでもミアカは引きそうにも無かったが、
「用心に越したこと無いだろ。馬鹿な犯罪者は回数を重ねるうちに緊張感なくして警戒しなくなるから失敗するんだってよ」
昨日テレビ犯罪者を追いかける警察の番組があった。同じ犯行を繰り返して捕まった犯罪者の失敗理由をナレーションが語っていた。
それを伝えると、ミアカは仕方ないと従った。
侵入口は東神社側の花井家猫屋敷にした。現在知る侵入口のうち、西村金具店裏に次いで、直線距離が短いのが花井家猫屋敷だった。東神社に近い為、見廻組に見つかり易いというリスクはあったが、見廻組の活動が活発になるのは十七時以降の為、まだ十五時を過ぎたばかりの今はタイミングとしては問題ないはずだった。
東神社の鳥居の中は、立入禁止区域と敷地を共有している。その東神社鳥居より四百メートル程手前にコスモ第二ビルがあり、その角を曲がると空家になった一軒家があった。表札には花井とあり、野良猫のたまり場となったその家を花井家猫屋敷と呼んでいる。そして裏庭には立入禁止区域とを区切る金網がある。
「この間さ、ズードンの兄ちゃんが有刺鉄線の上抜けようとして絡まって落ちて血だらけになった上に腕の骨追ったらしいよ」
金網を前にしてステラが言う。
「ズードンの兄ちゃんて中学生だろ?だっさ」
「な、金網抜けられるとこなんて小学生でも見つけられるのにな」
金網の脇に置かれた朽ちたトタンをズルズルと引きずると、そこには子供一人通れるくらいの穴があった。いくつかの入り口は情報班によって見つけられ、整備し、そして隠されている。ここも、空き家に集まった猫たちが戯れに金網の下に空けたであろう穴、それに目を付けて情報班が拡大してくれていた。
ミアカに続いてステラも穴を潜るともう、隔たれていた向こう側に居た。しかし、これからだった。これから何処まで深く立ち入れるかが勝負なのだ。
「ここまで来ちゃえばまあ誰かに会うことはないっしょ」
「だね。にしても、やっぱ濃いよな」
ビヨンドの空気とでも言うのか、肌に感じる何かがある。
「さすがに立入禁止区域だからな」
「禁足地って何がいるのかな」
「鮫とか鯱とか昔の池袋駅だっけ、に出た鯨とか?ま、それを確かめに行くってのもあるしな」
ステラとミアカは廃墟となった旧豊島区内を堂々道のド真ん中を悠々と歩く。拾った木の枝を振り回しながら、コンクリを割って生える草を踏みしめて、時折周囲を見渡し、大きな花を眺め、機能していない街中の中心へ向かう。
鮪の大群が通り過ぎてゆくのが見えた。ビルにはイソギンチャクが張り付いて、大きな海亀が太陽の光と被る。海中を歩いているような不思議な風景だ。
「ここにきたらさ、水族館なんてめじゃねーよな」
「ほんと綺麗だよな。俺等も泳げねーのかな」
「なんで魚は泳げるのかなー」
スマホのGPSを見るに既に立入禁止区域の五分の一程度に到達していた。猫屋敷の入り口で感じたビヨンドの空気が少し重い。太陽の光が薄くなってきたようで、魚も数を増している。耳が痛くなるくらいに静かで、自分達の足音だけが聞こえる。
「あ、鬼糸巻エイ」
ステラはミアカの声を久しぶりに聞いた気がした。
「鬼糸巻エイってなに?」
「滅茶苦茶でかいエイ」
ほら、とミアカが指差す。良くその名前を知っているなとステラは関心する。
「確かにでかいな。あれぐらいでかいと危険なのかな」
「サイズでいえばマンボウとかわらないから大丈夫じゃね」
「マンボウ横にしたような奴だもんな」
ゆっくりと近づいてくる鬼糸巻エイに向かって、特に警戒も無く二人は歩いた。しかし二十メートル程に寄ったその時、急にステラの心臓が潰れたように縮み上がった。ステラは有無を言わさずミアカの肩を押して路地へと転ぶようにして隠れた。後から思えば物をすり抜けるスカイフィッシュに意味があったのかどうかは定かではないのだが、まず自分達からエイが見えない処に身をやりたかった。足の先から首まで鳥肌が昇り、手で呼吸が漏れないように抑え、必死にエイが通り過ぎるのを待つ。ミアカも危険さが伝わった様で両肩を押さえて小さくなっている。目を閉じているのに、悠々と舞うように泳ぐエイの姿が瞼の裏に浮かんだ。
どれぐらいそうしていただろうか。五分かもしかしたら十分程して、ようやく目を開け押さえていた口を開放した。
ミアカはステラの肩を叩き、それに気づいたステラも顔を挙げて盛大に息を吸った。
「なんだ……あれ」
「……わかんね。でも目あったらヤバイのは分かった」
ステラは呼吸を落ち着けようと深く息を吸うが全く落ち着く気がしない。まだ心臓が鳴る音がする。
「エイって怖い生物なん?」
「知らね。だけどマグロとは違うな」
「あれか。大人がスカイフィッシュを怖がってるのってこういうことなのか」
「なるほどね……。これなら納得するしかないな」
ステラは今までマンボウを除いて中型スカイフィッシュにしか出会ったことがなかった。確かに中型以上のスカイフィッシュはその性質に『恐怖』を与える力を持つものが多い。けれどクラスの中にその影響を受けた者は一人もいなかった。だから鬼糸巻エイも大したことは無いと高を括っていた。
大人はスカイフィッシュを怖がる。幻想標準世代より上の世代は、スカイフィッシュに対して抵抗力を持たないからだ。授業中、校舎内に中型のスカイフィッシュが現れたくらいで直ぐに避難、場合によっては休校になる。最初は授業が無くなる事を喜んではいたけれど、最近ではわざわざ害のないスカイフィッシュから避難する為に席を立つ事の方が億劫になった。小事で右往左往している大人に呆れてもいた。偉そうにしている大人も大した事ないなと大概の小学生が思っていたのではないだろうか。
けれどそれは間違いだったのだと身を持ってステラは知った。初めて出会った大型スカイフィッシュに足が震えて、立ち上がる事すら出来なかった。幻想標準世代ですらこうなのだ。抵抗値を持たない大人が中型スカイフィッシュに恐怖を抱くのは仕方のない事だったのだと同情し、そして理解した。
別に暑いわけでもないのに、Tシャツは汗でぐっしょりと濡れ、倦怠感が体に重くのしかかっていた。
「これから、どうしよ」
ステラは口を開きミアカの様子を伺う。
「行くしかないだろ。三小の奴等にでかい顔させてたまるか」
確かに鬼巻糸エイはむちゃくちゃ怖かった。一昨年田舎のばあちゃん家に遊びに行った時、夜に防空壕のある坂道を歩いた時より怖かった。けれど確かに三小の奴らは本当に気に食わない奴ばかりだったし、一番の座を与えてデカイ顔をされるのを想像しただけで腹が立った。
「それじゃ、デカイ奴を見たら即逃げよう。それに小さい魚でも様子見しながら離れよう」
「そうだな。これからもっと深くなってどうなるか分からないしな」
ルールを決め、先を慎重に進むことに決めた。
以前到達したのが御影堂という和菓子屋までだった。二人は鍵のかかっていない正面扉から堂々侵入し、レジ横に置かれたままになったポイントカードを持ってそれを証拠とした。そして一小は現在二番手についている。
その御影堂の看板が今の道を辿る先に見えた。二人は黙ったまま拳を合わせると、ひとまずの目標の御影堂を通り過ぎて緊張する。またそこで一段と静かになったからだ。
深い水底にいるように、気圧が上がり鼓膜を圧迫されているような痛みと、不快さがあった。何に寄ってそれを感じているのか定かでなかったが常に続く環境の悪化とプレッシャーで喉が乾ききっていた。景色はもう浅瀬ではなく深い海の底だ。明かりがある分本当の海中と比べればマシなのだろうけど、小型のスカイフィッシュを追った中型スカイフィッシュが群れになってそこかしこを泳いでいる様子にもう心が踊ることはない。
立入禁止区域探索は半年毎のクールでわかれており、半年毎にどこまでたどり着くことができたのか、その証拠を示すことで順位が記録される。そのクールで一番奥までたどり着くことが出来た小学校が次の半年間権限を持つ。
現在一位であり歴代でも一位の三小はここから更に三キロ程先まで辿り着いたようで、銭湯『福の湯』のロッカーキーを見せびらかされた。だが第一小の奴等は不思議なことにこれ以上はもう攻略に入らないと宣言をしている。余ほど自信があるのかひよったのか。だけど正直、これから三キロ進むのは無理なんじゃないかといった思いが浮かぶ程絶望的な距離に思えた。
遠くにゆらりと旗が棚引いていた。ゆらゆらと風に揺られるように地面を舞っている。最初は御影堂の旗が風に飛ばされて舞っているのかと思った。
ミアカがあ、っと叫ぶ。
「あれ、もしかして…」
ミアカが言葉にしようとした瞬間、旗を乗せた魚が地面の上にゆらりと顔を見せた。旗ではなく、背びれだ。ゆらゆらとした背びれが、急速にスピードを上げて二人の方へ泳ぎ来る。
「鮫だ!」
心臓が跳ね繰りかえってヤバイとは思ったが、足が硬直して動かなかった。何してるんだ、とミアカはステラの手を引き、体勢を崩したことで反射的に足が出た。それをきっかけにしてステラの足も動き始める。しかし、走り出してたった数歩の所で途端に息が苦しくなり、足に力が入らなくなり、勢いのままステラは転んでしまう。それで手を引っ張っていたミアカも一緒に転んでしまうが、二人共起き上がる事が出来なかった。何とか状況を確認しようと首だけを後に向けると、地中から跳ね上がり姿を現した鮫はもうステラの目の前だった。
ステラはもう駄目だと思った。鮫に食べられちゃうんだとそう思った。
その時、ステラの前にミアカが立ち尻をついているステラの手を持って「諦めるな!」と叫ぶ。ミアカに引き起こされてやっと立ち上がったステラだったが、もう走る体力も気力もなかった。けれど、ステラの前にはミアカの背中があった。もう逃げ切れないという思いを抱えたステラの手をまだ一生懸命引いているミアカの背中がある。その背中だけが、今ステラが足を動かす唯一の理由だった。
いつまでそうして走っていたのかわからない。たった数秒の事だったのかもしれない。
ミアカ足も縺れ、体力の限界だとそう思った時、正面に白い男が立っていた。けれどミアカもステラも構わず白い男を通り過ぎようとした。
和装というのだろうか。白装束をまとった高校生くらいの男が、突進をかます鮫を前にして暢気に中空に咲く花を摘んでいるようにみえた。
男はすれ違いざまに一瞥後、鮫へ向いた。そして次の瞬間、鮫の気配が消える。後ろから迫りくる圧倒的なプレッシャーが消え去ってしまった。何事が起きたのかと振り返ると、鮫は全て橙色の花の中に消えてしまった。花は宙を舞い、風に乗って彼方へと飛び去ってゆく。
その時、厚い金木犀の香りが鼻腔を刺激して、ドクンドクンと大きく脈打っていた心臓の音を徐々にと落ち着かせていった。
「なあ君等さ、ここ立入禁止区域だって知ってるよな?」
白装束の男は鮫なんて居なかったかのうように質問を投げ、歩いてやってくる。
「最近多いんだよね。度胸試しのつもりか知らないけど止めておいた方がいいよ。君達みたいな幻想標準世代はわりと耐性があるんだろうけどさ、それでも鮫クラスだとどうなってるか分からないよ」
「……今の何?」
状況に頭が追いつかないステラは白装束を纏った男の質問が理解出来ず、自分の疑問が口を突いて出た。
「金木犀。香らなかった?」
「……そうじゃなくて」
男は男で、答える気が無いようで話が噛み合わない。
「そんな事はどうでもいいんだよ。とりあえずここを離れるよ」
「ってか……誰ですか?」
ミアカも動けるようになったようでとりあえずの疑問を口にしているのが分かる。
「俺は東神社の見廻りだよ」
「お兄さんは良いんですか、入っても」
「まあ、見回り係だし。鍛えてるしね」
「鍛えてなんとかなるものなんですか」
「なったでしょ、実際」
何を言っているのか何を聞いているのかも正直ステラは良くわかっていなかった。
「いいから、行くよ。他の人に見つかったら警察へ連れていかれて目茶苦茶怒られるよ君等」
「え、それじゃ見逃してくれるの?」
大人に捕まった時点で学校や親に怒られる事を覚悟していたのだが、そうではなさそうな流れにステラとミアカは期待の眼差しを向けた。
「そのかわりもう入らないって約束な」
「でも俺ら今学校でどこまで行けるか競ってて、このままだと三小に負けちゃうんだ」
「ここから三キロ先の銭湯のロッカーキーをあげるから。これで終わりにしろ。本当に危ないんだ」
銭湯『福の湯』の安っぽいロッカーキーを男は下げて見せる。
ステラとミアカには見た覚えのあるロッカーキーだった。水色の丸いプラスチックに白でナンバーと『福の湯』の印字がされている。現在一位の三小の奴らが持ってきたロッカーキーと全く同じものだった。
「それってもしかして他にも渡しました?」
「さあ、どうだったかな」
男はそう言って明後日の方を向く。
「ねえちょっと急にどこ行くんだよ!遅れるとまたジジババがうるさいだろ!」
角を曲がって現れたのはこれまた白装束を羽織った女だった。
「ねえちょっと、またやってんの?今日用事あるって言ったよね?要件済ませて早く帰りたいんだけど!」
男がロッカーキーを渡している姿を見て、白装束を纏った女が怒っている事にステラは直ぐに理解した。そしてその怒りがステラとミアカにも向けられている事にも察しが付き、急いで立ち上がった。助けてもらって見逃してもらってロッカーキーまで貰ってその上迷惑を掛けるわけにはいかないとそれくらいは小学生にだってわかる。そして白装束の女に怒りの矛先で突かれる前に、先導する男の後を寸分の隙間なくついて行くのだった。
「このガキンチョ共どうするの?」
「とりあえずこの子達は外へ連れて行くよ」
男は言うと、はあ?と低い声で女は怒気を膨らめた。
「いや、時間無いって言ってるじゃん。禁止区域なの知っててここまで来たなら帰れるだろ、おい」
女は急にステラとミアカへ返答を強制するようなドスの効いた声を向けた。
「無茶言うなよ。今鮫に襲われたばかりなんだぜ。それなら先行っててよ。遅れるって言っといて」
女は舌打ちをしてステラとミアカを睨みつけ、ステラとミアカは女に視線を合わせないようひたすらに男の背中を見て歩く事に集中した。けれど、今が非常に気まずい立場にある事は理解していた。
「お前が居ないと結局怒られるだろうが」
ばあかと言葉を捨て置いて、女は反対方向へと足を向けた。完全に女の気配が無くなったことを確認してステラとミアカは男に謝った。
「もう入るなよ。最近こういうの多くてアイツも気が立ってるんだ。何より危ないし、頼むな」
二人は素直に頷き、そして二度と入らないことを誓った。
それから『福の湯』のロッカーキーを持ち帰った二人は下川第三小と並んで栄誉の座を獲得し、つかの間の平穏を得ることになる。また二人は歴代最高タイ記録を打ち立てたことで北川第一小の英雄チームとして語り継がれるのだった。
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