第17話 死を呼ぶ爪

 その獣は歳を経た人喰い熊が変じたものであったという。

 だが今、刻久ら討伐軍の前に姿を現したその巨大な怪物は……。


「……熊ではないな……」


 ウィリアムは誰に言うとでもなく呆然とそう呟く。


 頭部を大きく前に突き出した前傾姿勢ながらも10mに届こうかという巨体。

 その大人2,3人を一飲みにできるであろう大きな口の巨大な頭部はその左半面こそまだ熊のような面影を残した獣のものであるのだが、右半面は異形と化してしまっている。

 妖怪王の右面は鋭く細く長い赤い目が3つ並んでおりその金色の瞳孔は3つそれぞれがバラバラにギョロギョロと動き回っている。口も左面以上に裂けて巨大でありむき出しの恐ろし気に鋭く尖った牙が並んでいる。

 そして右頭部だけにねじくれて丸まった大きな羊のような角が生えていた。

 胴体は特別にあしらえたものか、その巨体に合った鎧を着ているのだがその鎧も既にボロボロで損壊している部分も多くどこまでその役割を果たせているのかは疑問だ。


 そして……その背。


 首筋からその背にかけての有様がそれを目にする全ての者の魂を凍て付かせる。

 そこには数えきれないほど大量の武器がまるで墓標のように突き立っているのだ。

 刀が……槍が……斧が……それを手にしてこの怪物に挑んで散った者たちの無念の証であるかの如く妖怪王の背に突き刺さったまま並んでいるのだ。

 まるでその事を意に介してなどいないように妖怪王はその背に無数の武器を突き刺したまま活動しているのである。


 この妖怪王こそが斬因ざいんが聖地に向かう討伐軍に仕掛けた最大の罠であった。


 亜空間を作り出し生物非生物関係なしにそこに取り込むことのできる妖怪『うつろかがみ』。

 亜空間の出入り口は出し入れの時点でうつろ鑑のいる場所となるので大量の荷物を簡単に運搬するのにも使える能力ちからだ。

 斬因はこの亜空間にゼクウを取り込んでから現地にうつろ鑑を派遣していたのである。

 勿論黙って妖怪王が亜空間に入るはずがないので罠に掛ける形で無理やりに取り込んでのことだ。


 結果として哀れな亜空間妖怪は内側で暴れたゼクウによって破壊され消滅した。

 そうなる事も斬因にとっては織り込み済みであった。


 誰もが、黙ったままそれを見ている。

 討伐軍の内の数名は咆哮を耳にしただけで意識を失いその場に崩れ落ちた。


 どうしろ、というのであろうか?

 を……どうしろと。


 ウィリアムですら、鳴り出そうとする奥歯を噛みしめて黙らせるのに必死だった。

 数十年前の不幸な出来事をきっかけに魔人ヴァルオールとなり人を遥かに超えた存在となったウィリアム。その彼が恐怖を起因とする歯鳴りを経験するのは初めての事であった。


 ……ゴアアアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!!!!!!!


 また妖怪王ゼクウが咆哮した。

 それと同時に鋭く長い爪の並んだ巨大な腕を振り上げる。


 凄まじい轟音と共に山肌が揺れた。


 一薙ぎで抉り取られて巻き上げられた土砂によって一時陽光が遮られて周囲が薄暗くなる。

 岩も木々も、そして妖怪も人間も関係なく……。

 全て等しく砕けて破片となって周囲にばら撒かれる。


 刻久は……呆然とその場に立ち尽くしていた。

 恐怖で動けなくなっていたわけではない。

 指揮官として、自分がこの状況を……目の前の妖怪王にどうにかして対処しなくてはいけないのだという深刻で巨大な問題に思考をフリーズさせてしまっていたのである。

 目の前の惨状は彼女の知識と経験の世界を大きく超えてしまっていた。


 ゼクウが再び腕を振り上げる。


「……いかん……!!!!」


 ……他に手はなかった。

 ウィリアムが刻久のもとに走り込み思い切り体当たりをして弾き飛ばす。

 だがもう自分は回避している余裕はない。

 斜め上から襲い掛かってくる巨大な爪を渾身の一撃で切り払おうと試みる。

 大気を切り裂き虚空に走る銀閃。


 白刃が……爪に当たり……。


 ……そして、無情にも砕け散る。


 一瞬にしてスクラップにされたものは剣だけではない。

 ウィリアムの右腕は関節では無い個所から鈍い音を立てて折れ曲がった。


 散っていく自分の愛剣の破片を視界の端に見ながら彼は絶望していた。


「……センセーッッッ!!!!!!」


 エトワールの悲鳴が……耳に届く。


 ウィリアムの胸板から逆側の横腹にかけてを斜めに切り裂いていく妖怪王の爪。

 鮮血を噴き出しながら彼は後方へ吹き飛ばされた。


 目まぐるしく変わる視界はすぐさまぼやけて遠くなり……。

 そして彼の意識は漆黒の淵へと沈んでいった。


 地面に叩きつけられたウィリアムに駆け寄りながらエトワールは泣いていた。

 一撃を与えた獲物にさらなる追撃を加えんものとゼクウが彼に向けて踏み出していたのだが、それすらも今の彼女の目にはまったく入っていない。


 倒れたウィリアムに覆いかぶさるように抱き着くエトワール。


 その2人に向けて巨腕を振り上げたゼクウ。


 ……その瞬間に……。


「こっちだ!!! 妖怪王よ!!!!」


 ゼクウの背後から、その背に並んだ英霊たちの墓標を足場として……嘉神刻久が駆け上がった。

 首の後ろから跳躍しゼクウの顔面に向かって刀を一閃する刻久。

 その一撃は妖怪王の眉間を斜めに切り裂いた。

 眉間から血しぶきを上げるゼクウの左面の目がギラリと光って頭上の小さな人影を映す。


「……なんだキサマは……」


 地の底から響いてくるかのような低く重い声でゼクウが言う。


「我は嘉神清崇かがみきよたかが一子、刻久である!! 妖怪王……お前の相手はこの私だ!!!」


 勇ましく名乗りを上げながら刻久はウィリアムらとは反対方向に跳んでゼクウから距離を取った。


「……小癪な……羽虫が……」


 忌々し気に唸り、地響きを立ててゼクウが身体の向きを変えた。

 刻久を追うためだ。

 それを確認して刻久が背を向け走り出す。

 木々を薙ぎ倒しながら妖怪王がそれを追う。


「……………」


 逃げを打ちながら刻久は必死に頭を働かせている。

 完全にまいてしまったのではゼクウが皆の所に戻っていってしまうかもしれない。

 逃げながらも付かず離れずの距離で気を引き続けなければいけないのだ。

 そして向こうからの攻撃は雑に放ったものでも致死の威力を秘めており浅い当たりでも戦闘不能にされる事は必至。

 

 刻久にとって……長く絶望的な時間の始まりであった。


 ────────────────────────


 周囲は今大混乱の最中にある。

 この日の刻久の部隊は約800人であり現時点で行動可能なものはその8割程であるのだが、指揮官を務められる3人……刻久、ウィリアム、エトワールがそれぞれの理由で指揮を取れる状態にないのだ。

 茫然自失となる者や右往左往する者ばかりで状況は混迷の度合いを深めるばかりである。


 そんな中で瀕死のウィリアムの治療を必死でエトワールが試みている。


「センセ………死なないで………センセ………」


 傷口を氷結させて出血は抑えたがそれ以上手の打ちようがない。

 魔人特有の再生能力も上手く働いてくれていないように見える。

 このままでは間違いなくウィリアム・バーンズは命を落とす。


 ……それも、そう遠くない未来にだ。


「おい……エトワール!!」


 泣きながらウィリアムの脇に膝を突いているエトワールの隣に誰かが屈みこむ。

 その男は山伏の姿をしていて背中には黒い翼を生やしていた。

 顔には布をぐるぐるに巻き付けて覆面にしており人相はわからない。


「……オマエ……」

「こっちだエトワール!!」


 強めの小声でそう言うと男はウィリアムを抱えて背負った。


黒羽いちぞくの腕利きの医者を麓に待機させてる!! そこまでこの人連れてくぞ!!!」

「ハヤテ……なんでオメーが……」


 まだ半分茫然としながらエトワールも立ち上がった。


「うるせえ! それどころじゃねえだろ!! 一族も里も関係あるかちくしょう!! 俺は絶対この人を死なせねえぞ……!!!」


 そう言うと覆面の山伏は1人の大人を背負っているとは思えない速度で山を駆け降りる。

 一瞬遅れてエトワールも下りの斜面の森の中に消えていった。


 ────────────────────────


 混乱の中に残された聖女ミラ。

 彼女は持ち前のマイペースさで自分の今後の行動の指針を定めようとしていた。


(大変なことになっちゃった。私はどうすればいいかな……このまま聖地を目指すべき? でもさっき逃げてった妖怪たちと鉢合わせちゃったらな……私、戦うのはヘタクソだし)


 彼女は自分の果たすべき役割とその意味を理解している。

 ここで殺されるわけにもいかないし百鬼夜行に拉致されてもダメだ。

 どちらでもこの先の大陸の未来は大きく暗い方向に傾くことになるだろう。


「聖女様!!!!」


 そこへ低く太い声が響き渡った。

 ミラにとっては馴染の声。

 頼りになる男の声であった。


「あ、和尚こっち!! 私ここだよ!!!」


 飛び跳ねながら手を振ると混乱する武者たちを押し退け僧兵姿の巨漢が姿を現す。

 嘉神家の客将、芭琉観ばるかん和尚である。

 長髪の頭部に頭巾を被った僧兵はミラの姿を見つけると分厚い口髭を一瞬笑みの形に歪める。


「ご無事で! 不測の事態となり申したがここからはこの坊主めが聖女様の護衛を務めましょう。さあ聖地へ参りましょうぞ!!」

「わかった。付いてくよ!」


 ミラが自分の背後についたのを確認し芭琉観は周囲を見回しスゥっと大きく息を吸う。


「落ち着けい!! これよりこの芭琉観が先導を務め聖女様を聖地までお連れ致す!! 刻久様が妖怪王の注意を引き付けておる今こそが好機!! 正気に戻り付いて参れ!!!」


 その和尚の怒号で我に返った武者たちが慌ただしく集合して聖女の護衛の陣形を組んだ。

 そして彼らは決死の覚悟で山中の行軍を再開する。

 目指すは聖地。

 

 そこに到達するまでは彼らの現在の進行のペースで後およそ2時間弱といったところであった。



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