第10話 英雄覚醒

 聖皇歴703年、10月。

 嘉神征崇かがみまさたかが黒羽の里を訪れてより4年の月日が流れていた。

 その後の彼の消息に付いては不明である。

 今も百鬼夜行に対抗する集団を作り上げるため諸国を巡り歩いているのか。

 或いはもう……。


 今日も百鬼夜行はどこかの国で暴れている。

 後に『人妖大戦じんようたいせん』と呼ばれるこの大乱の時代。

 開戦より10年が経過し、北方大陸の人類の総数は開戦前に比べ6割以下にまで減ってしまっていた。


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 最近ウィリアムら里の自由に動ける者たちは火倶楽国内をあちこち回っている。

 生き残った者たちに黒羽の里で暮らさないかと話をしに行っているのだ。

 今も妖怪たちが跋扈しいつ襲ってくるかわからない生活を続けるより里で暮らした方が安全であろうというのである。

 この地道な活動により里の住人はまた数十人増えている。

 とはいえ勧誘の成果は上がっているとも言い辛い状態で……。


「先生方お帰りでござんすよ」


 マホロの先導で黒羽の里に戻ってきたウィリアムとエトワール。

 4日ぶりの帰里であった。


「お疲れ様ですのう」


 出迎えに煙管を咥えた幻柳斎老人が出てくる。


「……して、成果のほどは?」


 尋ねる里長にウィリアムがほろ苦い表情で首を横に振った。


「いや、どこも色好い返事は貰えなかったよ」

「左様でございますか。致し方ありますまい。あのような事のあった後で妖怪たちと暮らせと言われても抵抗のある者も多い事でしょう」


 紫煙を吐いて目を閉じる老人。

 黒羽の里は人と妖怪の共存する場とはいえ元は烏天狗一族の里である。

 そこを忌諱され移住の提案を拒絶する者も多かった。


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 優陽ゆうひの双子の兄、刻久ときひさはこの頃になるともう布団から起き上がれずに臥せったままで過ごす日の方が多くなっていた。

 母、月絵つきえの薄すら狂気すら感じさせる修練の強要も今はもうない。

 あの母親は征崇の来訪の頃を境に悟ってしまったようだ。

 ……もう自分の息子は立派な武者に育つのは不可能であるのだと。

 本当はもっと前に気付いていたはずなのだ。

 生まれ付いて病魔に身体を蝕まれている刻久に武家としての大成は望むべくもないのだという事を。

 ただそれを彼女は受け入れられなかったのだ。

 今また夫である清崇きよたかの死を受け入れられていないのと同じように……。


 今では月絵は塞ぎ込んで過ごすことが多くなり瘦せ衰えて息子同様の病人の様な風貌になっていた。


 そして、その母と兄の無念を背負い込んだかのように優陽は一層の修練を積んでいた。


 


 ……ほんの一瞬。

 それは1秒の10分の1にも満たない程の刹那の間であった。


 ウィリアムの視界から少女の姿が消えた。


「…………ッ」


 僅かに顎を反らせた自分の喉元に左斜め前から木刀の切っ先が付き付けられている。

 はぁはぁと荒い息を吐きながら、そうした自分自身もまるで信じられないというように優陽は目を丸くしていた。


「……い、1本! 1本ですよね、先生!!」

「ああ。1本だ」


 1歩退いてその切っ先から逃れながらウィリアムは『降参だ』というように肩の高さまで両手を挙げてみせた。


「君の勝ちだ。よくここまで頑張ってきたね」


 若干の動揺が声に漏れないように気を付けながら穏やかに褒めるウィリアム。


「やった!! やったーっ!!!」


 目に涙を浮かべてその場でぴょんぴょんと飛び跳ねている優陽。

 その彼女を見て密かにふーっと長い息を吐いたウィリアムの頬を疲労や温度からのものではない汗が一筋伝って落ちていく。


(まさか本当に私から1本取るとは……)


 修練でまったく本気は出していないが、それでもウィリアムには1本譲る気はまったくなかった。

 人を凌駕する身体能力を持つ魔人ヴァルオールの自分から……。

 その優陽の天賦の才とも言うべき武術のセンスに脱帽するばかりのウィリアムだ。


「………………………………」


 そんな師弟の姿を少し離れた場所からエトワールが酷く冷静な目で見つめていた。


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「センセ、気付いてます?」

「ん?」


 修練の後でウィリアムが縁側で流した汗を拭いているとエトワールがやってきた。

 彼女はあまり周囲に通らない若干押さえた声でウィリアムに囁く。


優陽アイツ魔人ヴァルオールになっちゃってますよ」


 カラン、と乾いた音が響いた。

 ウィリアムが落とした木刀が地面に転がった音だ。


「……本当なのか?」


 まだエトワールの言葉が咀嚼し切れておらず彼の声は掠れている。


「あー、やっぱ気付いてなかったですか。まーアイツの覚醒って珍しいじわじわ型でしたからねー。ウチもおかしいなと思ったのは半年くらい前ですけど、その頃からゆっくり少しずつ魔人化が進んでましたよ」


 どかっ、と投げ出すようにやや乱暴にウィリアムが縁側に腰を下ろす。

 そして彼は自分のこめかみに右の掌を当てた。


「私と……修行をしていたせいか?」

「いやー、まあ関係ゼロとは言いませんけど、結局魔人になるかどうかって素質で99%決まるんで。アイツに素質があった以上はいつかどっかで覚醒してたんじゃないですかね? 一生平和にのんびり暮らすってんならともかく、今この大陸こんな有様ですし。それこそ覚醒のきっかけなんてゴロゴロしてると思いますよ」


 目を閉じてウィリアムは難しい顔をする。


「あの子はもう歳を取らないのか」

「それもちょっと違いますね。魔人ヴァルオールは不老って言われてるけどそれ実際は違ってて、要は魔人って自分の肉体年齢を好きな状態でキープできるんですよ。だから子供やら老人やら頻繁に変わっててメチャクチャな魔人ヤツもいます。優陽の場合、本人がもう成長したくないとか思ってんならともかく、そういうワケでもねーでしょうから成人くらいまでは普通に大きくなるでしょ」


 そうか、とようやくウィリアムは安堵の息を吐く。

 しかし、これで優陽の人生がもう一般人とはかけ離れたものになる事は決定してしまった。

『死なない限りは老いずにどこまでも生きる』人生……それは普通の生涯を送る人々が作る社会からはある程度意識的に外れていかないと成り立たない。

 優陽の背負ったものの大きさに思いを馳せずにはいられないウィリアムだ。


 この日、エトワールによって優陽が人では無くなってしまった事を気付かされたウィリアム。

 しかし運命の流転はこれだけに留まらなかった。


 ……その日の夜遅く、刻久の容態が急変したとの報せが届けられたのである。


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 布団に横たわり、ひゅうひゅうと細い息を吐いている刻久。

 その傍らには優陽が座って兄を見守っている。


 従者や医師は席を外している。

 部屋には兄妹2人だけだ。

 既に余人が施せる手は残っていない。


 ……齢13の少年の生命は間もなく尽きようとしている。


 だが、その場に母月絵の姿はない。


「私の身体がこんなだから、優陽……お前には随分負担を掛けた」


 か細い兄の声に優陽は静かに首を横に振る。


「優陽は何も辛い思いはしておりません」

「そうか……」


 その言葉が真実とは思わない。だが妹の優しさに兄は微笑んだ。


「叶うのなら私もどこまでも続く草原を駆け抜けてみたかった……」

「できますよ、兄上」


 もはや骨と皮ばかりになった兄の手を優しく優陽が取る。


「お加減が良くなりましたら、必ず」

「うん……」


 刻久が静かに目を閉じる。


「おお、見える……見えるぞ、優陽。草の原だ、どこまでも続く緑の海だ……」


 その時、確かに少年の前には草原が広がっていた。

 どこまでも続く青い空の下に緑色の大地が地平まで続いている。


 そこを刻久は駆けていた。

 自分の両足で大地を踏みしめ走っていた。

 背に翼が生えたかのようにその身は軽く、どこまで走ろうと息が上がることもない。


「ははは! 優陽、走っているぞ! 兄は今自分の足で走っている!!」


 駆け抜ける刻久。

 視界の先には白い光が……眩い輝きが広がっている。

 その光に飛び込んで少年はどこまでも、いつまでも走り続けた。


 握った手からフッと力が抜ける。


「兄上……兄上ッ!!!!」


 泣き崩れる優陽。

 少年の死に顔はまるで眠っているかのように穏やかだった。


 そして、襖一枚を隔てた隣の部屋では……。


「刻久……ッ!! おおぉぉ……刻久ぁぁぁ!!」


 月絵がやはり優陽と同様に泣き崩れていた。


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 聖皇歴704年、1月。


 東州東端の沖合いに『氷獄島ひょうごくとう』という不吉な名の島がある。

 大陸沿岸の漁師たちが漁の季節にだけ宿泊する事があるものの、普段は無人の島だ。


 その島に今多くの者たちが集まっている。

 島にある巨大な洞窟の奥深く。

 そこが今篝火が焚かれ昼間のように明るくなっていた。


 広い空間にひしめく人の影。

 そのほとんどが武装している。

 国籍も肌の色も、武装の種類もバラバラの者たち。

 共通しているのは滾る闘志に瞳をギラつかせた者ばかりだという事だ。


「おう、揃っておるか。皆の衆」


 集った者たちの熱狂が1人の若者の登場で頂点に達した。


「征崇様ー!!」

「総大将!! 待ってましたぜ!!」


 集った戦士たちが喝采で若武者を出迎える。

 征崇はそんな荒くれ者どもを前に洞窟の奥に床几しょうぎを置いてそこに腰を下ろした。


 合わせて場がしん、と静まり返る。


「長きに渡り待たせて申し訳なかった」


 征崇が低くよく通る声で話し始める。


「……だが、雌伏の時はこれまでよ。今この場に集いしはいずれも名のある国家や集落、集団の長たちばかり。まずはわしらで反撃の狼煙を上げるぞ」


 おおおお、と雄叫びに洞窟が揺れる。


「妖怪王を討ち、百鬼夜行を滅する!! しかる後に我らの平穏の世を取り戻すのだ!!! 死力を尽くせい!!! 武士もののふどもよ!!!!」


 ……この日、大陸の各地に嘉神征崇の名で檄文が飛んだ。


 征崇が指揮する悪鬼討伐軍に参加せよ。

 悪しき妖怪たちを討つ為に人々よ立ち上がれという内容である。


 しかしこの時点での討伐軍の規模は戦える者の数で4000人程度。

 対する百鬼夜行の兵力は20万とも30万とも言われている。


 征崇、絶望的な兵力差での船出であった。





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