第29話 英雄の最期
応接スペースのソファで横になっているウィリアムがうなされている。
「だめだ……! そこは……着脱式に……しないで……」
苦悶の表情のウィリアムの隣でテーブルを囲んでいる2人。
「先生うなされてらっしゃいますよ。お気の毒さんでございますなぁ」
「まーセンセはこれまで色々と辛い思いしてきてるからな」
そう言って優雅にティーカップを傾けるエトワール。
容姿と所作だけ見れば完璧な深窓の令嬢である。
「現在進行形で今辛い思いしてらっしゃるのはエトさんのせいじゃねえんですかね」
「うるせーなタヌキ。とっとと続きを話しやがんなさいよ」
そうですな、とまほろもお茶で喉を潤す。
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聖皇歴711年、2月。
「征崇様、お目通りをと……」
「会わぬ。帰せ」
襖の外から侍従がそう声をかけると、屋内からは硬質の返事が返ってきた。
「ですが、黒羽の
「…………………………」
僅かな間の沈黙。
「わかった。通せ」
やがて低い静かな声でそう反応があった。
幻柳斎が征崇の部屋に入ると、主は縁側より城の中庭を見ていた。
老人が頭を下げて平伏する。
「上様におかれましてはますますご健勝との事で……」
「持って回った挨拶はいらぬ」
振り返らず口を開く征崇。
「今わしは気分が優れぬ。爺やでなければ追い返しておった所だ」
「心中お察しいたしまする。ですが、この幻柳斎めも上様のご気分のよろしくない話をせねばなりません」
その言葉に征崇は目を閉じて何事かを考えている。
「そうか、
「然様にございます。刻久様に武術を施したる者には我が直弟子もおり……いわば孫弟子と言うべき御方にて」
ふーっ、と征崇は口を結んだまま鼻から重い息を吐いた。
「いかにそなたの口利きであっても、もはやあれの事はどうにもならぬ。わしはこれまで再三再四あれには手を差し伸べてきた。それを全て拒んだのは刻久だ。戦端が開かれてからも弾正と砂橋の首を差し出せば一切を不問にするとまで言うたのだ。これ以上身内だからと言うて甘い沙汰を下せば他の臣下の者たちに示しがつかぬ」
「上様のおっしゃりよう、一々ごもっともであるかと……」
畳に額を擦り付けるように幻柳斎が深く頭を下げる。
「されど上様、今一度思い出してくださりませ。刻久様には
征崇の眉間の皺が深くなった。
将軍は苦悩している。
「どうかこの老いぼれの顔に免じまして
部屋に沈黙が舞い降りる。
庭の木に止まる冬鳥の声だけが聞こえている。
「討伐軍を退きはせぬ」
「……………………」
征崇の言葉に無言の幻柳斎。
「だが…………」
その言葉には続きがあった。
「
「上様……」
幻柳斎が顔を上げた。
「苦労をかけるな、爺や。頼んだぞ」
「ははっ、万事この幻柳斎めにお任せくださりませ」
目を細め庭木の枝に目をやる征崇。
ちょうど白い冬鳥が一羽飛び去って行く所であった。
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こうして2月末日、幕府軍は総勢15万の大軍で刻久の駐留する
対する刻久軍は総勢1万3千……更にはその圧倒的な戦力差に戦う前から幕軍に投降するものが続出した為、睨み合いが始まって2時間後には2千近く数を減らしている。
「こ、これはどういう事だ!! 何が『英雄』だ!! この役立たずめ!!」
唾を飛ばして激高しているのは剃髪に口ひげの鎧姿の老人である。
彼が
黙って罵倒を受けていた白い鎧の若武者は伯父の言葉が止まったタイミングで口を開く。
「伯父上、もはやこれまでにございます。こうなればこの刻久、打って出て伯父上の退路を作ります故、脱出してくださいませ」
「お、おう! そうじゃ! ワシは逃げるぞ!! 死ぬ気でやれよ、刻久!!」
叫ぶやいなや慌ただしく逃げ支度を始める弾正。
刻久は静かに目を閉じる。
(私は……間違ってしまった)
自分なりに最善を尽くしてきたつもりだった。
だが現実は無情であり、時として善意から出た必死の努力にも容赦なくNOが突き付けられる。
……そして、過ちには誰かが責任を負わなくてはならない。
陽が落ちて周囲に夜の
その甲斐あって弾正と腹心の
その報告を受けて馬上の刻久は刀を下した。
(やれる事は全てやった。……後はここで死のう)
「刻久様」
「!」
その時、なつかしい声が聞こえて彼女は弾かれるようにそちらを見た。
幻柳斎老人がそこにいた。
「お迎えに上がりましたぞ。さ、脱出致しましょう。上様とも話が付いておりまする」
「い、いや……駄目です! 行けません!! 私は間違ってしまった!! 死んでお詫び申し上げなくては……!!」
その刻久の言葉に幻柳斎の分厚い眉毛の下の目がスッと鋭く細められた。
「……!!」
その瞬間、刻久は老人の背後に途轍もなく巨大な
「……
刹那、老人が踏み込んだ。
刻久がまったく目で追えない速度で懐を侵略した幻柳斎がその
「く……は……」
一撃で昏倒した刻久は老人に倒れ掛かり、彼はそのままひょいと肩に担いだ。
「責任取るのは大人の役割じゃ。100年早い」
そして老人の姿もその肩の若武者の姿も蜃気楼であったかのように跡形もなくその場から消え失せた。
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山中を泥だらけになりながら弾正泰久が走っている。
「こんなところで終わってたまるか……! ワシは嘉神の正嫡だ!! 愚かな父が廃嫡なぞしなければば今頃将軍になっていたはずの男だぞ!!」
やがて息が上がった老人が足を止める。
……いつの間にか隣を走っていたはずの腹心の姿がない。
「秀正? どうした? ……どこじゃ?」
周囲を見回す弾正。
その彼の耳にしゃらん、と涼やかな金音が聞こえた。
「相棒なら一足先に
「……!!」
鉄の錫杖を手にした山伏姿の男がそこにいた。
その背には黒い翼がある。
「おのれェ! 下郎が!!」
刀を抜いて叫ぶ弾正。
疾風がやれやれと肩を竦める。
「どこもかしこもお前のせいで滅茶苦茶だってのによ。自分だけさっさととんずらかよ。見下げ果てた野郎だな」
「黙れええい!!
刀を振りかぶって襲い掛かってくる弾正をひょいっと身軽に疾風がかわした。
そして、彼は手にした鉄杖を一閃する。
「そんでも俺はお前よりはずっと年上だ」
首をおかしな方向に曲げた弾正がそのままよろよろと数歩進み、やがて膝を折り泥中にべしゃっと倒れ伏した。
「ま、生きてきた時間の長さなんぞ、そいつの価値には欠片も影響しませんっていい例だわな、お前は」
足元の老人の屍を冷めた目で見つめて疾風は静かにそう呟いた。
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