第4話 戦乱の足音

 波刃岐国はばきのくに、首都鶯峯おうほう

 都大路は今、狂乱の最中にある。

 家財道具を荷車に乗せ走るもの。

 幼い子の手を引き必死に走る母親。

 怒号と悲鳴の鳴り響く地獄。

 気力が尽きたか大路の端で座り込んで動けなくなっている者もいる。

 皆、都から逃げ出そうとしているのだ。

 間もなくこの都にやってこようとしている巨大な獣のあやかしから。


 ゴアアアアアアアアッッッッ!!!!


 まだ相当に遠方にいるはずのその獣の声が……咆哮がもう聞こえてくる。

 何人かはその声に腰を抜かし転び、あるいは跪いて動けなくなった。


 魂そのものを鷲掴みにされ無残にも握り潰されるような、そんな遠吠えだった。


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 絶望が迫っている。

 死が迫っている。


 現実味のない空間であった。

 1匹の獣が人の分厚い包囲網を突破しただひたすらに前進している。

 その進路を塞ぐものは生き物であれ建物であれなんであれただ破壊して進む。

 元は熊であったという。

 だが今のそれはもはや形を持った厄災である。

 小山ほどもある巨体は灰色の毛に覆われ剛腕の一振りは無数の屍を作る。

 阻める者は誰もいない。

 刀も槍も満足に傷付ける事ができない。

 矢など分厚い体毛の層を抜くことすらできない。

 その獣が通った後にはただ瓦礫と屍が累々と転がっている。

 それはこの世の終わりを思わせる光景だった。


 獣の進撃を食い止めきれずに包囲陣が散り散りに逃げ出し始める。

 1人が足を縺れさせてその場で転倒した。

 獣は足元のその兵士を一瞥すらする事無く踏み潰して進んでいく。

 獣の足跡にはただ血に塗れた無残な肉塊が残された。


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 今日も黒羽の里ではウィリアムが子供たちに講義を行っている。


 山寺の本堂に文机が並べられ子供たちが行儀よく座っている。

 妖怪の子もいれば人の子もいる。

 だが気を散らして悪戯を始めるような子は誰もいない。

 皆がウィリアムの話に真剣に聞き入っている。

 自分たちの知らないこの大陸の外の世界の話だ。


「すっげえ!!」

「行ってみたい!」


 歓声を上げてはしゃぐ子らにウィリアムが微笑んで肯く。


「行けるとも。君たちがもう少し大きくなったらな」


 そんな子供たちを本堂の後ろで幻柳斎翁が穏やかに優しく見つめていた。


「失礼します。爺様」


 そこに1人の若衆が入ってきて何事かを翁に囁いている。


「……そうか、わかった。すぐに行く」


 立ち上がり若衆と共に出ていく翁。

 その時の物憂げな老人の横顔がウィリアムは酷く気に掛かった。


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「西の方で困った事になっておりましてな」


 その日の夕餉の時に翁はそう語り出した。

 座卓を囲んでいるのは黒羽親子とウィリアムとエトワールの4人。

 ウィリアムたちもこの床に座布団を敷いて座って食事を取るスタイルにもすっかり馴染んできた。


「波刃岐の話か?」


 麦飯を食いながら問う疾風にうむ、と重く肯く老人。

 ウィリアムとエトワールには何のことかわからない。


「大陸の西に波刃岐国という国があるんじゃが、そこで凶悪な妖怪が出たらしく被害が広がっておるんですわい」

「人喰い熊が化けた奴だって話だ」


 幻柳斎の話を疾風が補足する。

 黒羽一族は北の大陸の各所に出張所のような小さな集落を持ち、そこで暮らしている者たちがいる。

 彼らの主な役割は情報収集だ。


 幻柳斎の話によれば何かが妖怪に変じる時、人を殺めている生き物であったり人を殺めるのに使った道具だったりすると凶悪で残忍な妖怪になりやすいのだという。

 妖怪になる前からかなりの犠牲者を出していたという今回の獣。

 その例に倣うのなら相当に凶悪な妖怪なのだろう。


「……都が落ちたそうだ」

「そりゃただ事じゃねえな」


 思わず疾風が箸を置く。

 波刃岐国は北の大陸でも小さな国ではある。

 だが妖怪たちが人の国を落としたなどという話は有史以来ほとんどない。

 まして単独ともなれば史上初の出来事である。

 何せ絶対数が違いすぎるのだ。

 北方大陸全土の人類の数に比べれば妖怪の数など1割にも満たない。

 彼の言う通りこれは驚愕すべきニュースだった。


「周辺国で討伐の為の連合軍を結成したという話じゃ。恐らくそこで片が付くであろうが……」

「そういうのが1回出ちまうと俺たちみたいな人間寄りの妖怪を見る目も厳しくなる。やりきれねえ話だぜ」


 そう言って疾風がぐいっと杯をあおった。

 人と妖怪の融和の象徴である黒羽の里。

 里の中は平和だ。

 だが外にはこの里を良くは思わない向きもあるのだとウィリアムは聞いている。



 そして季節は移り変わり……。

 老人の予想も虚しくそれから1年が過ぎても件の獣が討ち取られたという話は聞こえてこなかった。

 それどころかその獣の妖怪の元に大陸中から悪行を働く妖怪たちが続々と集まっているのだという。


 ────────────────────


 聖皇歴694年 8月。

 ウィリアムたちが黒羽の里を訪れて間もなく2年が過ぎようとしていた。


 この頃になると妖怪たちは大軍団と呼べるほどの規模の集団となっており『百鬼夜行』と呼ばれ恐れられていた。

 自ら名乗ったのか誰かが呼んだか総大将である人喰い熊の妖怪はゼクウというらしい。

 百鬼夜行によって滅ぼされた都市は既に両手の指では足りなくなっており、戦火は徐々に東へも広がりつつあった。


「退去しろという事ですか?」


 ある時、話があると呼ばれてウィリアムとエトワールが行くとそこには幻柳斎を始めとした里の主だった顔役が揃っていた。

 そこで彼らが告げられたのは船の往来が満足にある内に国外へ脱出してほしいという話だ。


「『百鬼夜行』の規模は日に日に大きくなっております。このままではいつかこの東州も戦火に飲まれる日が来ないとも限りませんでの」


 幻柳斎老人の表情は沈痛である。

 人と妖怪の融和に心を砕いてきたこの老人は妖怪たちが巻き起こした戦乱が大陸に広がりつつある現状に今大きく心を痛めている。

 

 ううむ……とウィリアムが腕を組んで思案する。


「散々お世話になっておきながら危なくなってきたので自分たちだけ逃げ出すというのは私の信条に反する行為だ。どうだろうか、皆さんがよろしければ今しばらくここに留まってお手伝いをしたいと思うのだが」


 ウィリアムがそう提案すると今度は里の者たちが思案顔になる。


「わしらは勿論構いませんし里の者も喜ぶでしょう。しかしよろしいんですか先生。ここが戦場になる事もあるやもしれんのですぞ」


 幻柳斎老人の言葉に微笑んで肯くウィリアム。


「承知の上です。元々軍属だった身ですからそのあたりはお気遣いなく。あ、ですが、できましたらエトワール……彼女の脱出の手配だけはお願い……」

「すねキック!!!!!!」


 バシィッッッッ!!!!!!!!


「チョーいたい!!!!??」


 エトワールの渾身のローキックがウィリアムの脛に炸裂し彼はその場に倒れ脚を押さえて悶絶する。


「今度ウチだけ脱出しろとかミョーな事言ったらブチキレますからね!!」


(もう十分ブチキレとるがな!)


 慄いて青ざめる疾風であった。


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 慌ただしくも物々しい毎日の中にも各人一息付ける時間というものがある。

 黒羽疾風にとってそれは筆を握る時間である。

 筆といっても書ではない。

 彼の趣味は水墨画である。


「う~む、我ながら中々の出来だな。侘びさびってもんがこの四角い紙の中に表現されちゃってんじゃねえかこれ? ものの見事に!」


 たった今自らが描き上げた作品を前にご満悦の疾風。

 それを背後からひょいとエトワールが覗き込んだ。


「相変わらずオメーの絵は批評が難しいですね。普通すぎ」

「普通すぎ!?」


 ガァン!とショックを受ける疾風。


「すげー上手いか下手かのどっちかにしてくんねーと褒めれもしねーし笑えもしねー。つまるとこオメーの絵は毒にも薬にもならねーってことです」

「ななななな……エト公お前にはどうやら大画伯である俺の作品の良さがわからんようだなあ」


 わなわなと震えながら疾風が強がる。


「んじゃちょっと借りるがよ。セーンセ、これ何点? 100点満点で」


 疾風の絵をひょいと取ったエトワールがちょうど通りかかったウィリアムに見せた。

 突然のことにウィリアムは困り顔。


「え、えーとそうだな……80点……かな?」

「はいダメ。おしおきー」


……ボグォッッッッ!!!!!


みぞおちに凄まじい拳を食らってウィリアムはその場に倒れて動かなくなった。


「お、おめえなんてことしやがんだ!!?? なんで先生が突然そんな酷い目に!!??」

「バーカ、わかんねーんですか? センセは今、オメーに気を使って正直な採点をすることを躊躇った。点数に下駄履かせたんだよ。そういう優しさは本人の為にはならねーの。よってウチが裁きを下した」


床の上のウィリアムは世の無常を儚んだ表情でビクビクと痙攣している。

そこに今度は幻柳斎が通りかかった。


「何をしとるんじゃ?」

「はい幻ジイ、これ何点? 100点満点で」


差し出された水墨画をまじまじと眺める幻柳斎。


「う~む……50点かのう。いやでもわしの息子の絵じゃからな、52点で」

「親の欲目がしょっぱすぎる!!!」


頭を抱える疾風。

ほら見ろ、とエトワールは半眼になった。


「親の依怙贔屓入ってこのザマですよ。少しは現実ってもんがわかりましたかね」

「う、うるせー!! 描けもしねえ奴が好き放題言ってんじゃねえよ!!」


ヤケクソ気味に反論する疾風に、エトワールがやけに大人びた表情でフッと笑った。


「ほー? なるほどねえ? まあ確かにオメーの言う事にも一理ありますね。んじゃちょっと貸してみなっと」


そう言うとエトワールは疾風が持っていた筆をひょいと取り上げた。


「わざわざ傷口に塩塗込みてーって言うならお望み通りにしてやりますよ。ちょっとそこで待ってな」


エトワールが疾風の使っていた画材の前に陣取って彼と同じ風景を描き始めた。

さらさらと軽妙なタッチでどんどん描き進めていく。


「ほいっと出来上がり。これでどーよ? なんか言ってみ?」


それは素人目にもわかる見事な水墨画であった。

墨の濃淡を駆使し、十分な余白を持って風景の静けさや侘び寂びが見事に表現されている。


「ほほう、これは凄い。見事なもんじゃ。わしゃ数百年生きとるがここまで心に強く訴えかけてくる絵はそうそうお目にかかった事がないわい」


感心する幻柳斎。

一方の疾風は、酷くシリアスな顔でただふるふると首を横に振っている。


「ショック過ぎて言葉が出てこんようじゃな」


そんな息子の様子を見て言う幻柳斎。


「これ掛け軸にして飾りたいんじゃが譲ってもらえんかのう。家宝にしたいんじゃ」

「はいはいドーゾドーゾ。素人の手遊びですよ、そんなもんでよければいくらでも」


喜んで奥へ引っ込む老人と付いていくエトワール。


そして後には床の上で悶絶しているウィリアムといつまでも首を横にふるふると振っている疾風が残されたのだった。




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