第18話『帝王への険路』

【注意】史実と異なる点を多分に含みますことをご留意のうえお楽しみくださいませ。


 一八四八年、ジョセフ、サンドラの二人は、モロッコから九歳の銀青色ぎんせいしょくの少年エウスタキオを連れロンドンへ戻ると、彼に帝王学を学ばせ始めた。一八五三年のオスマン帝国、フランス、イギリス、サルデーニャの連合軍とロシア帝国の間で起こったクリミア戦争は歴史上稀に見る大戦となり、ヨーロッパ全土は混迷を極めたが、二人にとっては戦争などどうでも良かった。家庭教師や専門家を総動員して、歴史学、政治学、経済学、数学、科学などの幅広い学問知識、組織をまとめる統率力、礼儀作法、馬術などあらゆる帝王の資質を、エウスタキオに身につけさせた。


 クリミア戦争はロシア帝国の敗北に終わり、ウィーン体制は崩壊。


 そんな中、エウスタキオがバイロン邸に来てから十年が経ち……



 __一八五八年 ロンドン__


 十九歳になったエウスタキオは、一流の政治家になるに相応しい人間になっていた。


 頭脳明晰、知恵もあり、礼儀正しく、体格も良く、体力もある。


 一方でジョセフ・バイロン卿は九十三歳、ほとんど寝たきりの状態で、その命は長くは無い。


 妻サンドラも七十九歳とだいぶ高齢で、生活にかなり不自由が出始めていた。


 ある日、エウスタキオはバイロン家の所有する狩場で、猟銃を構え、鷹狩りをしていた。


 銃は後見人バイロン卿から譲り受けたものだが、そのウォールナットでできたストックの美しい木目は、今ではもうすっかりエウスタキオに馴染んでいる。


 彼が立ち、踏み締めている地面は、彼の肌と同じような暗い鼠色をしている。


 彼の視線の先には、青い晴れ間は見えるが、雲の多い白い空。


 真っさらなキャンバスのようになった空を、薄黄味がかった色をした鷹が、翼を広げて、優雅に、雄々しく滑空する。


 エウスタキオは、慣れた手つきで鷹に狙いを定め、猟銃の引き金を引く。


 銃弾は、


 鷹の胴に見事命中し、鮮血が少し噴き出る。


 残酷にも、血の赤は、白の雲を背景に映えて、


 血の持ち主は墜落した。


 エウスタキオは、仕留めた鷹を見にいこうと、構えた銃を下ろそうとすると、


 銃身に、一羽の小柄な鳥がとまる。


 頭から、翼と尾にかけての上半分は淡い空色、下半分の腹部はもたついた黄色。


 この銃という野蛮な武器とは対照的な、か弱い鳥。


 鳥は、首をクリクリとダイヤルのように回しながら、エウスタキオを見つめ、平和を訴えかけているようにも見える。


 女性の声がした。

「あら可愛らしい、ブルーティットじゃないの」

 エウスタキオの背後、腰を押さえながら歩いてくるのは義母サンドラ。


 エウスタキオは、サンドラの方を振り返りたいが、ブルーティットを驚かせないよう、地に根を張る大木のように固まって、銃の枝を動かすまいとしている。


「ブルーティット……ここで暮らす中で何度も見かけていたはずなのに、こうやって近くで見ると、綺麗で、尊い存在に思えます」

 と、エウスタキオは、ブルーティットに、親しみの眼差しを向けて見つめ合う。


「そうねぇ、青と黄色……誰かに似ているような」

 サンドラの言葉には、含蓄がある。


 エウスタキオは、ハッとして、

「彼女が僕を呼んでいる」

 と言って銃を下ろしたので、

 

 鳥は驚き飛び上がり、南の空のへと消えてしまった。


 サンドラも、南の空を見上げながら、

「そのようね」

 と、何かを悟る。


 そう、エウスタキオが、モロッコに戻るべき時が来たのだ。


 二人が、その意識を、遥か南のイギリス海峡の先、そして地中海の先へと飛ばし、ノスタルジーに浸っていると、


 が堕ちた付近に、大きな影が飛んでくる。


 だ。


 屍肉を漁りに来たのだ。


 新鮮な餌をつつき、貪り食らう鷲。


 肉がげ、骨が見える。


 エウスタキオは、狩った獲物を回収することなく、狩場を後にした。



***



__直後、バイロン邸にて__


 何やら騒がしい。


 使用人たちの動きが忙しないのだ。


 そこに、狩り場から戻ったエウスタキオとサンドラの姿。


 使用人の男が、二人に駆け寄り、

 血相を変えて、

「サンドラ様、エウスタキオ様、大変です! バイロン卿の容態が!」

 と、叫び声をかける。


「まさか、お義父様!」

 と、エウスタキオ。

「そう……」

 と、サンドラ。


 二人はバイロン卿の寝室へ走る。


 ドアを開けると、


 咳が止まらないバイロン卿。


 それとたった一人の医者。


 重度の肺炎。


 サンドラがそばに座って、バイロン卿に静かに寄り添う。


「ゴホッ! ゴホッ……ああ、エウスタキオも来てくれたか。む、なんだか今日は一段と立派に見えゴホッ、ゴホン!」

 バイロン卿の、激しい咳。


「お義父様、ありがたいお言葉ですが、今はあまり喋らない方が……」

 と、労わるエウスタキオ。


「いいんだよ。どのみち長くはない。ちっぽけな延命よりも、息子のように可愛がって育てたお前と、今話す方が大事だ」

「息子だなんて……嬉しいですが、お二人にはジョナサン様という血の繋がったご子息が……」


 バイロン卿は食い気味に、

「いやいや、あんな放蕩ほうとう息子、放っておけばいいんだ。全く、バイロン家の長男の勤めをほっぽらかしてあちこち飛び回りよって」

 と、子への不満を垂れる。


 今、この寝室には、ジョナサンの姿はない。


 サンドラは、

「全く、誰に似たことやら。夫に、エジプトでの諜報活動を理由に放置される妻の身にもなってくださいね」

 と言って、バイロン卿の額を人差し指でツンツンとつつく。


 エウスタキオは、バイロン卿と自分を重ね合わせ、

「バイロン家の人間は皆、世界を股にかける運命にあるのでしょうか」

 と、問う。


 バイロン卿は、

「ああ、それだ。血は争えん、と言うやつだ。エウスタキオ、お前はどうする?」

 と、誇らしげに答え、さらに問い返す。


「僕は、その……」

 とエウスタキオが何かを言いかけるよりも早く、

 サンドラが、

「そうそう、さっきちょうど、モロッコに戻る決心がついたところですよ」

 と、愛のある告げ口をする。

 

 エウスタキオは、黙ってコクリと頷く。


 すると、バイロン卿は、

「そうかそうか! 自由に、行きたいところへ行って、したいことをすれば良い。そのために、お前をロンドンに連れて帰って、帝王学を叩き込んだんだからな」

 と、嬉しそうだ。


「はい、多くを学ばせていただきました。あのままシャウエンにいたら、決して知り得ないことを、たくさん」

「そうかもしれない。だが実は、まだお前に伝えていないことが、ひとつだけある」

 バイロン卿は、意味深な表情。


「と言いますと?」

「『パピルスの手帳』のことだ」


 そう、あの手帳だ。


「パピルスの手帳、ですか?」

 ジェムストンは、聞き覚えのない単語に、首を傾げる。

「ああ。私が昔、エジプトに潜入して、フランス軍の動向を探っていた頃に手に入れたものだ。私は、ある男から、その手帳を譲り受けた。あの男は、そうだな、ちょうどセポと同じような、青いターバンをしていなぁ。それはそれは、不思議な力を持つ手帳だった」


「なるほど、不思議な……力ですか」

「そう。その手帳に触れたことで、雲の上からか、地の下からかはわからないが、妙な言葉が聞こえて来てな。その言葉の通りにしたら、カリフォルニアで、セポに出会ったんだ」


 十年越しの、義父からの告白。


「お父様がセポをモロッコへ連れて帰ってきてくれたのは、手帳の力のおかげだったということですか?」

「そうだとも。信じられない、か?」


 バイロン卿は、エウスタキオの青い瞳ブルーアイズをじっと見つめる。


「いえ、僕は、信じます」


 エウスタキオはそう言って、自分のゴツゴツとした青色の手と、義父と義母の白い肌を見比べる。


「ほう、信じてくれるか。どうして、信じれられるのだ?」


「ここに、もっと信じられない存在がいるからです。だって、肌が銀青色ぎんせいしょくの人間ですよ?」


 エウスタキオが、にこやかに、自分で自分を指差したので、

 バイロン卿は、逞しく育った義息子の全身をじっくりと見つめる。


「そうか、見慣れてしまっていたが……確かに信じられないほど、神秘的だ」


「そうでしょう。それで、神秘的な手帳というのは、今どちらに?」

 エウスタキオが、パピルスの手帳の在処について尋ねると、

 バイロン卿は、吐き捨てるように、

「へっ! 今はもう、あの馬鹿息子が、ジョナサンが持ち出してしまったきりで、このバイロン邸にはない。できれば、お前に託してやりたかったのに」

 と、言った。

 それを聞いたサンドラは、夫を嗜めるように、

「あなた、あの子も色々悩んだとは思うの」

 と言った。

 彼女は長男のジョナサンと義息子のエウスタキオ、両方の母であり、両方の味方である。


「そう、か」

 と、バイロン卿は静かに気抜けしたかと思うと、

「ゴホッ! ゴホン、ゲホッ、ゲホッ……」

 と、強く咳き込み、手のひらで口を覆う。


 手を離すと、


 黒い血。


「お義父様!」

「あなた!」

 と、二人は、バイロン卿の、血のついた両手を強く握りしめる。


「サンドラよ、バイロン家と、あの馬鹿息子を頼んだ」

「ええ」


「エウスタキオよ。立派な、世界の帝王になるんだぞ」

「はい」


「二人とも……頼んだぞ」


 バイロン卿はその言葉を最後に、安らかに眠った。


 そして、貴族にしては控えめな葬儀が執り行われた。



***



__数日後 ロンドンの外港サウザンプトンにて__


 港。


 甲板を境に、上部は白、下部は黄と青の帯が船首から船尾まで伸びる巨大な蒸気船。


 太い煙突からは、灰色の排煙が上がっている。


 バイロン卿の死で、屋敷の者たちがまだ袖を濡らしているであろう中、波止場に、海を背に佇むエウスタキオの眼差しは、バイロン邸で過ごした過去ではなく、セポと再開する未来に向いていた。


 エウスタキオは、義母サンドラに、

「お義父様が亡くなってこうもすぐに、お義母さまをバイロン邸に残してしまうのは気が引けますが……僕は僕の道を進みます」

 と、別れの言葉を告げ始める。

 その片足は一歩海側へ下がっており、彼の、モロッコへの前のめりな気持ちが見てとれる。


「いいのよ。あの子を、セポを迎えに行く、それがあなたが今するべきこと」

 サンドラは、我が子同然のエウスタキオの意志を快く受け入れる。


「はい、あの日の約束は一日たりとも忘れた日はありません。ですがこんな立派な船の乗船券、それも一等席をご用意していただいて……」

「何を今さら水臭いこと言ってるの、家族でしょう? それに、あなたを安全にモロッコまで届けるのが私の仕事ですからね」


 エウスタキオは、静かに小さくお辞儀をして、

「それにしても、本当に大きな船だ」

 と、これから自分を乗せようとしている船を見上げる。

 船首の、カーブのかかった面には、『メシア号』と書かれている。


「そうね。でも、モーリタニア号ほど大きくはないわね」

 と、サンドラは、庶民からすればかなり鼻につくようなことを言う。

 が、それも、もっと大きな存在になれという含みを持たせての言葉かもしれない。


「モーリタニア?」

「あ、気にしないで、特に深い意味はないわ。ところで、結婚するなら苗字がいるでしょう? これを」

 と、不意にサンドラが手渡したのは、

 一通の封筒。


 受け取ったエウスタキオが、

「苗字……今開けても?」

 と尋ねると、

「もちろん」

 とサンドラ。


 エウスタキオは、封筒を少々乱雑に開封し……

「『ジェムストン』?」

 と、書いてあった文字を読み上げる。


「ええ。ジョセフが亡くなる数日前に、二人で決めたのよ」

「お義母様、天国のお義父様、ありがとうございます」


 サンドラは、エウスタキオに一歩近寄り、

 彼の胸に手を当て、

「これからはバイロンではなく、『ジェムストン』と名乗りなさい。あなたには『原石』のような可能性が秘められている」

 と、言った。


「エウスタキオ・ジェムストン……。わかりました。僕は、帝王の原石、エウスタキオ」

 エウスタキオは、そう、自分に言い聞かせ、

 サンドラも、

「そうよ」

 と、肯定した。


 エウスタキオは、帝王を夢見て、また、セポとの再会と結婚するのを夢見て、モロッコへ渡った。



***



__数週間後 モロッコにて__



 エウスタキオは、セポに再会すぐ、結婚した。


 神聖なるモスク。


 白を基調とした石造建築は、ブルーグリーンのトルコ石で鮮やかに彩られている。


 ここで、イスラム式結婚式『ニカー』が行われる。


 エウスタキオは黒のスーツ、セポは水色の簡素なドレスを纏う。


 隣り合う二人の脇には、イスラム教指導者『イマーム』一人と、証人として、イスラム教徒二人の立会人。


 立会人は、セポの両親、ケステラ夫妻。


 比較的、こじんまりとした式である。


 イマームによる、経典クルアーンの朗読の後、婚姻の誓いが立てられる。

 

 イマームから、

「あなたはエウスタキオを夫にしますか?」

 と、問われるセポは、

 淡い灰色のヒジャブで頭部を包み、丸い小顔が目立つ。

 また今日は、いつもはゆらゆらと揺らしている金髪が見えないようにしまってある。

 そしてもちろん、

「はい」

 と答える。


「あなたはエウスタキオを夫にしますか?」

「はい」


「あなたはエウスタキオを夫にしますか?」

「はい」


 大事なことだから、かはわからないが、誓いは三回繰り返される。


 続いてエウスタキオが、

「あなたはセポを夫にしますか?」

 とイマームに問われ、

「はい」

 と強く、はっきりと答える。


「あなたはセポを夫にしますか?」

「はい」


「あなたはセポを夫にしますか?」

「はい」


 同じく三回。


 婚姻証明書に、まずセポが、後でエウスタキオが、サインをする。


 立会人のイアとガイからも、サインをもらう。


 婚姻は成立した。


 結婚後、二人の間には、アルツデスという女の子もできた。


 エウスタキオはすぐに政治家としての頭角を現し始め、間も無くシャウエン市長となった。



「よっ! 青い町の、青い市長!」

 市民らは、エウスタキオを、町の長として快く受け入れた。



 彼自身は、家庭もキャリアも順風満帆だったが、北アフリカ情勢は、大荒れだった。


 ヨーロッパ列強による、地中海沿岸のアフリカ諸国への干渉が、日に日に激化していたからである。


 モロッコも、その例に漏れなかった。


 エウスタキオがモロッコに戻る少し前、一八五六年の時点で、モロッコは、イギリスと不平等条約を結ばされていた。それにより、日本がアメリカからペリーに迫られて開国したように、モロッコの鎖国も終焉を迎えた。一八五九年にはスペイン・モロッコ戦争が勃発し、一九六一年には敗北して領土割譲の不平等条約の締結。おまけに一八六三年にはフランスとも不平等条約を結ぶことを余儀なくされた。


 しかし、国としては逆境に思えるそんな状況も、エウスタキオにとっては、成り上がりの絶好の機会だった。


 エウスタキオは、シャウエン市長を退くと、国の中枢に近づくべく、アラウィー朝モロッコ政府の官僚となった。


 その頃、アラウィー朝モロッコの国王スルターンムハンマド四世は、ヨーロッパ列強の圧力の影響もあって、近代化政策、財政改革、軍拡を掲げていた。


 モロッコは、大変革の過渡期に突入した。



***



 __一八七三年 カサブランカの港にて__


 財政大臣となったエウスタキオは、モロッコの各地を演説して回るという大臣らしからぬ動きで、財政改革を進めていた。


「皆の者よ! 私は、皆の日々の働きに感謝する。『アラウィー朝は列強に妥協的である』。そのような声が、毎日、たくさん届く。その事実を認め、批判を受け入れよう。本当に不甲斐ない。もちろん、受け入れるだけ、謝るだけ、というわけではない。そこで、財政大臣エウスタキオ・ジェムストンが、この国の未来を展望しよう。大前提として、この先、我が国に限らず、世界の多くの国々は、国際化を免れない。ただし、もちろん列強の言いなりになる形で国際化を受け入れてしまえば、欧州諸国にとっての紐の緩んだ財布も同然である。そうではなく、自主性を持って国際社会の一員となり、国際交流を経ながら、我が国に足りないものは取り入れ、他国に足りないものは相応の対価と引き換えに我が国が提供する。そうして、国力を増強しなければならない。自国の権利、国民の権利も守らなけれなならない。時代は変わる。変化を受け入れる。予言しよう、他の言いなりになったり己を持たないのならば、また柔軟な思考でこの正念場に臨まねば、この国の行き着く先は、傀儡である、と」


 カサブランカの人々は、ジェムストン財政大臣の言葉を、静かに、噛み締めながら聞いている。 


「もはや鎖国も終わった。開国し、多くの国々の船が往来するようになってしまった。鎖国時代はジブラルタル海峡を臨むタンジェ港のみで行われた貿易だが、今では多くの港が開港し、ここカサブランカも、今や人口一万人の港湾都市になろうとしている。国際資本の流入を嘆く者も多い。その気持ちも理解できる。だが、こうなった以上、貿易、というものを利用しない手はない。北から入ってくる輸入品に対する関税収入も、確かに国家財政にとっては重要だが、それだと、先に述べたような対従属に傾倒することになる。そこで私が、財政大臣として強調したいのは、輸出入の均衡だ。輸出に適したもの。我々には、何があるか。『リン』だ。正確には、リン鉱石。世界のリン鉱石の埋蔵量は、我が国モロッコと西サハラが大半を占めると言われている。我が国のリン鉱石はもうじき、肥料として、脚光を浴びるだろう。世界の農業を、激増する地球人口を支える、肥料だ。なぜ欧州列強が我が国を狙うか? この土地に眠る、資源が欲しいのだ。だがその大事な資源を、列強に搾取されてはならない。なら、争うか? いいや、争わない。利用しよう。リン鉱石を輸出しよう。適正価格で、常識的な量を。モロッコは、リン鉱石によって繁栄する。そして、世界を豊かにするのだ!」

 

 エウスタキオの声が、潮風に乗って、港に響く。

 聴衆からは、こんな声があがる。


「ジェムストン大臣! なぜリン鉱石とやらが、肥料になるとご存じなんです? 私はトマトを作っていますが、そんな名前の肥料は、今まで聞いたこともありません」

 ある男がそう言った。


「それはだ、刃物産業で有名なイギリ……いや、故郷シャウエンで、私もトマトをよく育てたが、肉を食べた後に残った骨を粉にして、トマト畑に撒いていた。するとだ、それはそれは、美味なトマトがとれたものだ。骨粉こっぷん中のリン酸は、植物の成長を促すからな」

 エウスタキオは、何かを誤魔化しつつも、当意即妙に答えてみせた。


 彼は、演説を続ける。 

「輸出品にふさわしいものは、他にもある。タコ、イカ、貝などの魚介類、もちろんトマトもいいだろう。そしてそれらをとったり、生産するのには、欧州からもたらされた機械を利用してもいいかもしれない」


「そうか! 俺たちの作ったものも、ヨーロッパの奴らに売りつけてやればいいんだ! きっと、美味すぎて、ほっぺたお落とすぞ!」

 と、トマト農家の男が調子づくと、

「よし、それなら俺ももっとイカ漁に出なきゃいけねぇな!」

「うちもオリーブ栽培、頑張るわ!」

「ワインを作りまくって、奴らを酒でベロベロにさせてやらぁ!」

 などと、多くの生産者が続いた。


 ジェムストン財政大臣が、

「もちろんそれもいいが、リン鉱石のことも頭に入れて……」

 と念を押そうとすると、

「なかなかいいこと言うじゃねぇか、ジェムストン大臣!」

「ああ、久しぶりに骨のある役人が出てきたんじゃないのか?」 

「政府にも信用できそうな人がいて安心したわ」

 などと、称賛の声が多数あがった。

 

 エウスタキオは、官僚として事務方に携るだけのはずが、政治家かと思うほどの表立った行動が評価され、モロッコ国民から人気を博した。


 こんな声もあがるようになった。

銀青ぎんあおのエウスタキオ・ジェムストンを、宰相に!」


 エウスタキオは、その青い肌のせいもあって、すぐに国王スルターンムハンマド4世の目にもとまり、


「あの青い男、見かけ騙しではないな、なかなか良い仕事をするではないか」

 と、評価された。

 


***



__翌年 一八七四年__


 ムハンマド四世から実力を認められたエウスタキオは、三十一歳の異例の若さで、次期宰相候補となった。


 しかし、


 現職の宰相ナッシは、自身の地位を脅かすエウスタキオを何としても失脚させようとした。


 エウスタキオの背後にバイロン家の存在があることを見抜いていたナッシは、エウスタキオをイギリスのスパイと決めつけ、内部からモロッコを完全に崩壊させる気だと、スルターンに根も葉もない告げ口をした。

「スルターンよ、奴はイギリスのスパイに違いありません。孤児院出身ということにして、身元を隠しております。あの青い肌の宇宙人は……最終的にモロッコを乗っ取るつもりです!」

 

「なんとけしからぬ! ええい、直ちに粛清せよ!」

 ムハンマド四世は、ジェムストン一家の処刑を命じる。


 エウスタキオ、セポ、そして娘のアルツデスは、処刑を逃れるべく、まずはバイロン家を頼ったが……



***



__一八七四年 一月 バイロン邸__


「ジョナサン様、エウスタキオ様から、こんな手紙が……」


 と、執事がジェムストン夫妻の窮状の詳細を伝えると、義兄ジョナサンは……


「エウスタキオが、処刑されそうだからかくまってほしいだと? お断りだね。あいつ、孤児の分際で親父に可愛がってもらったもんだから、調子に乗ったツケが回って来たんだよきっと」

 と、義弟の頼みを跳ね除けた。

 ジョナサンは、寵愛される義弟に対して嫉妬していたのだ。


 今やバイロン家は、サンドラも亡くなり、エウスタキオがいなくなったことに安心して戻ってきたジョナサンの所有物になっていた。


 エウスタキオに嫉妬していた彼が、今更助け舟を出すはずもない。



***



 ジェムストン夫妻への救いの手は、思わぬ場所から差し伸べられた。


 エウスタキオの元に、一通の手紙が届いた。


 このような内容だった。

——————————————————————————————

 差出人:ムハンマド・アリー朝 侍従武官じじゅうぶかんナオンガ・ルルーシュ 

 宛名:エウスタキオ・ジェムストン様


 突然の手紙に、驚かれるかもしれません。

 あなたの危機的状況を耳にし、連絡いたしました。

 私、ナオンガ・ルルーシュは、あなたの義父ジョセフ・バイロン氏と切っても切れない縁がございます。

 我が父、アオタバ・ルルーシュは、ロゼッタの地で、バイロン卿によって手厚く埋葬されました。

 今こそ、父に代わって、私がご恩を返す時だと、確信しております。

 二月一日の早朝、カサブランカに巨大客船モーリタニア号が到着します。

 三名分の一等船室の旅券を同封いたしましたので、そちらをご利用いただいて、エジプトまでお越しいただき、完成したばかりのアブディーン宮殿までお越しくださいませ。

 門番の衛兵には、『ナオンガ・ルルーシュ大佐』とおっしゃっていただければ、全て伝わります。

 また、あなたの亡命受け入れ許可は、既に副王ヘディーヴイスマーイール・パシャから、直接得ておりますので、ご安心くださいませ。

 万が一、我が国エジプトをお気に召していただけなくとも、つい数年前に完成したスエズ運河を通って、もっと東への案内も可能ですので、ご遠慮なく、お申し付けくださいませ。

 では、道中、くれぐれもお気をつけくださいませ。

——————————————————————————————


 エウスタキオは、ナオンガ・ルルーシュからの申し出を、迷わず受け入れた。


 エウスタキオらがカサブランカを出航すると、間も無くモロッコは財政危機に陥り、列強の属国に成り果てた。


〈第十九話『原潜と誘導弾と反逆者』へ続く〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る