第28話『未来の帝王たちへ』

__一八七四年 一月某日__


「はい次ぃ!」


 やや苛立いらだちのこもった声。

 発信源は、現バイロン男爵の、ジョナサンの喉。歴代男爵皆が、一生の中で最も長く過ごしたであろう執務室で、大層デカい態度で──デスクの上に組んだ両足を乗せて──座っている。ジョセフとサンドラの死去によりバイロン邸を我が物にした彼は、長年バイロン家に仕えてきた執事や召使いたちに一人一人尋問じんもんし、自身の不在の間に何があったか、聞き出すことに夢中だった。


銀青ぎんあおのエウスタキオめ……あいつ、やっぱりどこか怪しいんだ」


 ジョナサンは、義理の弟に対して、漠然ばくぜんとした猜疑心さいぎしんを抱いていた。


 次の尋問相手が、ドアを開けて入ってくる。


「清掃係の、ソフィアです」

 と、五、六〇の女性。

「ああ、掃除のおばちゃんね、覚えてるよ、久しぶり。いやぁ、変わんねぇなぁ。で、あんたの担当に、おふくろの書斎が含まれていたはずだ。俺の不在の間、何か妙なものを見つけたりしなかったか?」

「妙なもの、ねぇ。実は、こんなものが……」


 ソフィアは、実に怪しい丸いものを、ジョナサンに投げ渡した。

 それは、くしゃっと丸まった、メモ書きだった。

 広げてみる。


「ん?  なんだこれ? 『世界を一つの帝国にするためには、個人の自由の制限もいとわない』とあるが……帝王学の講義のメモか?」

「はい、おそらく……」

「へぇ、そうかい。だがこの『個人の自由の制限も厭わない』って箇所が、酷く気に入らないね。まるで俺とは、正反対の思想だ。おふくろはいつも銀青ぎんあおに、こんなことを教えてたのか?」

「はい。ご夫人はあの書斎で毎晩、エウスタキオおぼっちゃまに、帝王学講座と称して教鞭きょうべんっておりましたよ。それは熱心に、勉強されていました。ジョナサンおぼっちゃまとは違って」

「ケッ! 勉強ねぇ。そんな机上の空論をこねくり回すためだけの道具で、人を比較しないでほしいね」

「裏も、見てください」

「裏? えーっと、なになに……『工作員の派遣と外患誘致がいかんゆうちは、他国を取り込む上で最も効果的かつ容易な方法である。これをするは良いが、決して、されてはならない』だって!? おいおいやべーじゃねぇか、おふくろは銀青に、こんなこと教えてたのか? 書斎は、スパイ育成施設かよ!」

「ジョセフ様も諜報員ちょうほういんでしたので、おかしな話ではないかと……」

「いやでもよぉ、それをよそ者に教えるとなると、また話が違うと思わないか?」

「そのようにも、思います」

「そうかい。他に何か知っていることは?」

「そうですねぇ……ああ、そういえば、一日で辞めてしまった執事がいましたね。辞めたというより、消えたという感じですが」

「ほぉ、何だか臭うな。その執事の行方を追うべきか、否か……」

「ジョナサンおぼっちゃま、こんなものもありますよ? ご興味おありで?」


 ソフィアがふところから取り出したのは……

 

 一冊の土色のノート。


「おい、出ししみしてたのか? 面白いものが次々と出てくるなぁ!」

 ジョナサンは、よっぽどそれが気になったようで、席を立って、ソフィアからふんだくる。


 ノートをパラパラとめくり、とあるページに目を留める。


・〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・

漁夫ぎょふの利─


 一八五九年より、スエズ運河建設が開始する。出資の過半数はフランスの民間企業になるとの見込みだが、最終的にスエズをものにするは、イギリスである。綿花、茶の栽培地としてインドは重要。インド植民地経営の発展はすなわち、大英帝国の発展。何としても、インドまでの航路を盤石ばんじゃくにしなければならない。スエズ運河を得ることが、インドへの移動時間を大幅に短縮する。植民地貿易が加速するのだ。今はフランスに調子に乗らせておけばよい。運河が完成したところで、エジプト君主に取り入って、株式を買い上げてしまえばよい。義母サンドラ曰く、これすなわち漁夫の利である。

・〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・



***



__一八七四年 二月 エジプト アブディーン宮殿__


 巨大客船モーリタニア号に乗って、無事、エジプトに到着したエウスタキオ、セポ、アルツデスの父母子ふぼし三人は、一家のモロッコ脱出計画を手配した、ナオンガ・ルルーシュ大佐と対面した。


「大佐、心より、感謝する」

「私からも、礼を」

 深くお辞儀をするジェムストン夫妻。


 そしてもう一人……


「……ありがとう、ございます」

 人見知りな、娘、アルツデス。


 今や十六歳になっていたアルツデスは、母親セポそっくりの外見をしている。褐色かっしょくの肌に、ミディアムの金髪。そしてまん丸とした大きな瞳が、一家にとっての救世主、ナオンガ・ルルーシュを見つめる。


「礼には及びませんよ。エウスタキオ・ジェムストン殿、あなたの育ての母サンドラ様から、もしあなたに何かがあったら、助け舟を出すようにと、以前から言われておりましたので。窮状きゅうじょうを知り、船の旅券を手配したまでです」

 黒の軍服をぴっちりと着こなした細身の将校、ナオンガ・ルルーシュは、謙虚に振る舞う。


「この恩は決して忘れない。何か私にできることがあれば……何でも、させてほしい!」

「そうだな……ジェムストン殿、モロッコでの財政改革はすごかったそうで。せっかくなら、財政面で、このエジプトを支えてほしい。副王ヘディーヴイスマーイール・パシャは、ちょうど財政面での悩みを多く抱えている」

「もちろん。お安いご用だ」


 依然いぜんモロッコ政府にとっての反逆者でありお尋ね者だったエウスタキオは、存在が目立たぬよう、事務方じむかたに回らせてもらった。するとすぐに、サンドラ仕込みの帝王学と、モロッコでの財務大臣の経験をいかし、エジプト財政諮問しもん会議の一員として、副王ヘディーヴに多くの助言を与えるほどになった。



 ある夜。

 豪華絢爛ごうかけんらんなテーブル。

 エウスタキオは、副王ヘディーヴイスマーイール・パシャに、一対一で、財政指南にはげむ。


副王ヘディーヴよ、西欧諸国のような先進的な国家体制をとるとなりますと、結果的には国家財政と王室財政の切り離しが必須でございます。まず、省庁は次の九つとするのがよいでしょう。外務、財務、軍務、海軍、教育、慈善・寄付ワクフ、内務、法務、事業。そして内閣は──」

「あーっ! ジェムストンよ、やはりわしには難しい問題やもしれん」

 副王ヘディーヴイスマーイール・パシャは、エウスタキオの理路整然りろせいぜんとした講釈こうしゃくに、集中力がもたない。


副王ヘディーヴよ、そうおっしゃらずに。列強諸国に負けぬエジプトをつくると、そうおっしゃったではありませんか!」

「そうなのだが……細かい話はにして、もっと壮大な話がしたいのだ」

「承知しました。では……例えば、思い切って国旗を変えてみる、というのも、国家繁栄のための一つのアプローチです。形から入るのは、案外馬鹿にできないものです」

「ほぉ、国旗か。具体的には、どうするのが良さそうだね?」

「そうですね、例えば……今、エジプトの国旗は、背景が赤一色、真ん中には白い三日月と、小さな星が一つ、ですよね?」

「ああ、その通り。この月星章旗つきせいしょうきの三日月と五芒星ごぼうせいは、イスラーム世界の進歩と独立を示している、と聞いている」

「ええ、そうでしょう。ですが副王ヘディーヴ……イスラーム世界、だけで満足ですか?」

「満足? 満足、か……野望は大きい方がいい、だろうな?」

「ええ、おっしゃる通りです。いっそ、この月と星、増やしてみてはいかがでしょうか?」

「増やす、か。さすれば、どうなるのだ?」

「月と星の対を、三つずつにする。それらが……アフリカ、アジア、ヨーロッパ、三大陸を表します。エジプトは、これらを制覇するのです。どうでしょうか?」

「おお! なかなか魅力的ではないか。だが、ナオンガにも聞いてみないことには……」

「ああ、ナオンガ、そうですね。彼は正式な侍従武官副王の側近ですから……」


 エウスタキオは、うらやましそうに、そう言った。


「ははは! 銀青ぎんあおのエウスタキオ・ストンよ、そうくでない。其方そなたの高い能力と、ギラギラとした野心を、わしは見抜いておる。その神秘的な銀青ぎんあおの肌も相まって、まるで……『gem』、すなわち宝石のような存在だ」

「ありがたきお言葉。ですが……私は何としても、副王ヘディーヴ、あなたと天下を取りたいのです!」


 ドン、と、豪華絢爛ヴィクトリアン調の木の板に、青い拳が叩きつけられた。 


「おぉ……そうかそうか、それは結構。だが、ジェムストンよ、少々熱が入りすぎているやもしれんぞ? 今日はもう、遅い、寝るとしよう」

「はい……」

マッサラーマ平安とともに

マッサラーマ平安とともに……」



***



__一八七五年 九月__


 乾いた暑い日。

 ナオンガ・ルルーシュ大佐は、倍ほどにも歳の差のあるアルツデスを、こっそりと、自宅に招いた。


 今日、ナオンガは、軍服を着ていない。

 アルツデスは、濃紺のうこんのワンピース。


「ルルーシュ大佐、私に見せたいものがあるって、一体何なんですか?」


 大きめの一人がけソファに座る、アルツデス。

 彼女は今、両手で目を覆っており、周りが見えていない。


「これだよ。さぁ、目を開けて」

 ナオンガは、アルツデスの目の前にひざまずいて、そう言った。


 大きな目が、パチリと開かれる。


 アルツデスの目の前には、二枚貝のように、上下で閉じられた両手。


「まぁ! ま、まさか……」

「アルツデス、これはだな……」


 手が開かれる。


 が、指輪ではない。


「まぁ、指輪かと思いましたわ」

。でも、今日は違う」


 彼の手のひらには、手のひら大の、手帳のようなものが乗っている。


「なんですの、これは?」

「パピルスの手帳だよ。ご両親から、聞いていないかな?」

「ええ、まったく。それは、どういったものなんです?」

「これはね、不思議な力を持った手帳でね、古代エジプトの時代より伝わる、パピルスという、紙の一種を使って作られたものなんだ」

「へぇ、そうなんですの」

「アルツデス、君の義祖父おじいさんのジョセフ・バイロン男爵のことは、どこまで知っているかな?」

「そりゃあ、バイロン男爵家のことはよく知っていますよ? 小さい頃、お父様がよく聞かせてくれましたもの。ロゼッタの地で、諜報員ちょうほういんをやっていたとか」

「諜報員、ねぇ。多分、あの方を本質を表すのに、その肩書きは相応ふさわしくないように思う……」

「どういうことでしょう?」

「バイロン卿は、我が父ナオンガ・ルルーシュを、手厚く土葬してくれた。ただのスパイに、できることではない。我が父が手帳のレプリカをたくしたのも、うなずける」

「触ってもいいのかしら?」

「ああ、もちろん」


 アルツデスの手が、手帳に触れる。

 アルツデスの手とナオンガの手が、手帳を、挟み込んでいる状態。

 

 その瞬間……


 手帳から、まばゆ閃光せんこう


 手帳は二人の手から、離れてはいない。


 思わず、光を、手帳に触れていない方の手で、さえぎる二人。

 

 元の明るさに戻ったかと思えば……


 ギラギラと照りつける太陽。

 乾いた砂地。

 ピラミッド。

 スフィンクス。

 空飛ぶ何か。


「何だ!? ここは?」

「私たち、いつの間に外に出ましたの?」


 二人は、手帳を包むように手を繋ぐ。

 細やかな砂を踏みしめ、立ち上がる。

 辺りはギザ、三大ピラミッド近くの砂の大地。


「見て、大佐。空に何かが!」

「何だ!? 大鷲オオワシか?」


 二人が見上げるのは……


 翼を生やした、鉄の塊。


\ブゥウウウウン!/

 鼓膜を突き刺すような音。

 空飛ぶ鉄の塊は二人に向かって急降下。

\ドドドドドドド!/

 無数のつぶてを、乱れ撃ちする。


「危ないっ!」

 ナオンガが、アルツデスを覆うように抱きしめる。


 つぶては、不思議と、命中はしない。


 が、代わりに……

 二人の後方にいた、軍服の男が犠牲になった。


 砂の上にうつ伏せに倒れた男の肩、赤・白・黒の横縞よこしま模様のワッペンが、真っ赤に染まっている。


「きゃあああああああ!」

 血を見てしまったアルツデスは、悲鳴をあげる。


 その瞬間、景色は、ナオンガの家へと、戻った。 


「「…………」」

 二人は、言葉が出ない。


 すると、


「今、見えたか……未来が……」

 知らない男の声。


「誰だ!」

「今度は何ぃ!?」


 二人は周囲をあちこち見渡すが、二人以外には、誰もいない。


「人の手によりつくられし水の道……」

 知らない男の声は、それだけを告げ……


「何を言っている? 何のことだ? 今すぐ出てこい!」

「そうよ出てきなさい! 泥棒なんて、怖くないわ!」 


「…………」 

 二度と、聞こえることはなかった。


「おいっ! 侵入者め! どこへ消えた! ぶっ飛ばしてやる! それとも脳天をブチ抜かれたいか!? 出てこい! 撃ってやる! 撃たれる覚悟はあるかーっ!!」

 ナオンガは、ひどく取り乱し、叫ぶ。


「ナオンガ……じゃなくて、ルルーシュ大佐、最近なんだか、怒りっぽくないかしら?」

「そんなことは、ない」 

「ねぇ、ルルーシュ大佐、最近、お父様と、仲が悪いわよね?」

「君にそんな心配をさせてしまうだなんて、情けない。でも、事実……そうだ」

「お父様がね、スエズ運河は世界のみんなのものだって、エジプトが独り占めしちゃいけないんだって、そう言ってるのを聞いたわ。でも大佐、あなたの立場は、真逆よね? 知ってるわ」

「ああ。スエズ運河は、エジプトにある。だからエジプトのものだ。当然の論理だ。世界の皆が使うものであるべきだが、持つのはエジプトであるべきだ」

、お願いだから、お父様と、仲良くして、ね?」

「ああ……わかっている……」



***



__一八七五年 十月 バイロン邸__


 ジョナサン・バイロンは、清掃係のソフィアから聞いた、出勤初日で消えたという執事を、遂に見つけ出し……


 こんな話を聞いた。


「私は、ご夫人が寝たきりのバイロン卿の看病を一人でなさっているのを、寝室のドアの隙間から見ていました。偶然ですよ? 見に行ったのではなく、迷路のような屋敷を行き来する中で、見てしまったんです。ご夫人は、私がせっかく部屋に運んだ薬袋やくたいの中身は、屑籠くずかごへ捨ててしまって、代わりにふところから、妙な小瓶を取り出して、その中に入っていた別な粉を、包み直されました。するとご夫人が私に気づいていたようで、こう仰ったんです。『そこの新入りさん、これはしんを破滅に追いやった阿片アヘンよ。適切に使えば、強力な鎮静剤として働くの。知らなくって?』と。そしてご夫人は、小瓶を、ドアの隙間から、私に向かって転がしました。『試してみれば? 持っていきなさい』と言われたので、断ることもできずに、小瓶を拾い上げたんですけど……怖くなって、そのまま走って逃げてしまいました。とにかくバイロン邸から離れようと、走って走って、走った先の路地裏で、野良犬に出会でくわしました。そこは肉屋の裏口で、そこいらには商品にならなかった肉の切れ端が捨てられていました。そして興味本位で……小瓶の粉を、肉片に振りかけ、野良犬に向かって投げました。野良犬はそれを大層美味そうに食べました。その直後……血を吐いたんです。その後、泡を吹きました。野良犬は倒れてぐったりとして、遂には動かなくなりました。私はまた怖くなって、小瓶を地に打ち付けるようにして捨てて、その場から走り去りました……」


 執事の話を聞き終えたジョナサンは、何かを悟ったような表情をした。


「よくわかった。正直に話してくれて、ありがとう。これ、未払いだった日当と、情報提供料だから、取っといてくれ」

 ジョナサンは、銀貨を数枚、執事の手の中に、握らせた。

「へっ? こんなにたくさん……いいんですか?」

 執事は間抜け面をする。

「ああ。もう、行っていいよ、気をつけて」

「仕事を放り投げて逃げ出した件は……おとがめなしですか?」

「そんなのどうでもよくなるくらいのことが、起きているんでね……」


 ジョナサンは、すぐさま、母サンドラの素性すじょうを調べにかかった。



***



・〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・

 故ジョセフ・バイロン男爵、つまるところ、我が父は、老衰で亡くなったのではない。


 毒殺されたのだ。


 我が母サンドラが、毒を盛った。


 この、母の理解し難い行動を裏付けるもの、それは、母の本当の出自、である。


 サンドラ・キューブリックは、ロスチャイルド五兄弟の中でも、商才という面で最も優れる、ロンドン・ロスチャイルドの祖、ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの実の妹である。


 つまり、一八七五年現在、ロンドン・ロスチャイルド家において実権を握っている二代目、ライオネル・ド・ロスチャイルドと俺は、従兄弟いとこの関係にあるということだ。


 養子縁組の関係上、エウスタキオ・ジェムストンもしかり、である。


 この陰謀のような事実を、しかと胸に受け止めてほしい。


 俺にはここまでしか、してやれないことを、情けなく思う。

・〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・


 ジョナサン・バイロンはそのようにしたためた手紙を、エジプトにいる、エウスタキオ、ではなく、に向けて、送った。



***



・〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・

 エウスタキオ・ジェムストン財政諮問しもん会議員は、イギリス人とやけに仲がいい。


 彼が、その立場を利用してエジプトの西欧化に努めていることは、明らかである。


 副王ヘディーヴイスマーイール・パシャの、今朝おこなった演説を一部抜粋する。


〈我が国エジプトは、もはやアフリカではなく、ヨーロッパの一部である。我々が従来の方法を廃止し、現状にそくする新たな制度を採用することは、至極自然なことである〉


 副王ヘディーヴは、そんなことをも言うようになってしまった。


 一体、誰の入れ知恵だろうか。


 エジプトの財政は、日に日に悪化している。


 エウスタキオ・ジェムストンが、腕のいい財務官僚であると考えていた私の目は、節穴だったのだろうか。


 彼はもはや、意図的に、エジプトを財政破綻させようとしているようにさえ見える。


 エウスタキオよ、お前は本当にエジプトにとって良き存在か?


 それに……


 彼は私に対して、アルツデスとの仲のことで、やけに目を光らせている。


 父親の嫉妬というやつだろうか。

 娘が奪われるという感覚か? 

 私が提案した政策を、彼はことごとく否定する。

 最初は彼と共に歩んでいきたいと思っていたが……

 政治思想という点でも、友情という点でも、今や完全に、分断してしまった。

・〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・


 ナオンガ・ルルーシュ大佐は、日記帳にそうしたためたが、気晴らしにはならなかった。



***



__一八七五年 十一月十四日 ロンドン・ロスチャイルド家の大邸宅__


 イギリスの首相ディズレーリが、ロンドン・ロスチャイルド家二代目当主であるライオネル・ド・ロスチャイルドと、会食中である。


 果てしなく続いていきそうな長テーブル上には、世界中のありとあらゆる美食が、所狭しに並べられているが、そのほとんどは装飾物であり、手付かずで、冷め切っている。


「首相、"gemstone原石"から、電報です」

 政務秘書官の男が、ディズレーリ首相の耳元で、小声でそう言った。


 一枚の紙が手渡される。


「ああ、ついに来たか。ちょうど良いわ……」

 ディズレーリ首相は、上等そうな食事用エプロンを外す。


 紙面の文字に目を通し、音読する。


・〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・

 gemstone原石よりディズレーリ首相(そこにいるのであれば、ならびに義従兄弟ライオネル)へ


 エジプトの財政破綻はもう目の前です。


 副王ヘディーヴイスマーイール・パシャは、ついにスエズ運河の株式売却に踏み切りました。


 フランス大手銀行二行にこうもスエズ運河の株式買取交渉を申し出てきましたが、副王ヘディーヴはすぐこれを退しりぞけました(私がナポレオンのエジプト遠征での非道を訴えましたので)。


 クイーン・ヴィクトリアに、こうお伝えください。


「世界はあなたのものです」と。


 そして目の前にいる義従兄弟ライオネルへ、これでついに、英国女王陛下よりの叙爵じょしゃくが叶うのではなかろうか。

・〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・



「ふふ、でかしたぞ、原石ジェムストンよ……。では、ライオネル・ド・ロスチャイルド男爵。さっそく、スエズ運河の株式買収資金についてですが……」


「まだ男爵とは呼ばないでほしいですな。あれはオーストリア=ハンガリー帝国の爵位であって、ここはロンドン、イギリスです。我が義従兄弟いとこ寄越よこした電報からもわかる通り、私はまだ、ヴィクトリア女王から叙爵じょしゃくされてはいないのでね」


「さようですか。それで、いくらまで、ご支援いただけるのでしょうか?」


「四〇〇万ポンド※でどうでしょう」


「ほぉ、ありがたい……。では、決まりですな」


 ディズレーリ首相と、ライオネル・ド・ロスチャイルドは、握手を交わす。


「これで、イギリスはエジプト政府からスエズ運河の株式四四パーセントを買収し、筆頭株主へ。中東のチョークポイントスエズ運河の営業権は、どこにも渡さぬ。ふふふふ……フランス人どもの間抜け面が見えるわ!」



※四〇〇万ポンド=現在でいう七〇〇億円程度。



***



 セポの元に、ジョナサン・バイロンからの手紙が届いた。

 夫についての思いもよらぬ情報を知ってしまったセポは、ナオンガ・ルルーシュ大佐に、相談を持ちかけた。


「ルルーシュ大佐、あなたはこの手紙の内容を、どう思われますか? まさか、夫にロンドン・ロスチャイルドとの繋がりがあるだなんて。よからぬことに巻き込まれていなければいいですけど……」

 セポは、渦巻く陰謀の全体像を、まだ把握できていない。


「ああ! まさか! 本当だった! 思い違いであって欲しかった!」

 ナオンガ・ルルーシュには、それができている。


「本当だった? 思い違い? 何の話です?」


「セポさん、落ち着いて聞いて欲しい。私はさっき、エジプト政府の電報の使用歴を見た。ある電報の差出人に"gemstone原石"とあった。バイロン卿からの手紙の内容を聞いて確信しました、エウスタキオが使っていたということです。電報を、何に使ったと思います?」


「えっ、だからなんだっておっしゃるの? そりゃあ、電報ぐらい、いくらでもお仕事に使うでしょう?」


「ああそうです! でも肝心なのはその内容なんです!! エウスタキオの打った電報は、イギリスによるスエズ運河買収についてです。彼は副王ヘディーヴイスマーイール・パシャを騙し続け、エジプトを財政破綻に導いた! 財政を立て直すために、スエズ運河を売れと、そそのかした! ロンドン・ロスチャイルド家と英国政府を仲介していたのは彼です、エウスタキオです! 全ては仕組まれていたんです! イギリスがスエズ運河を手にするために! つまりこうです、エウスタキオ・ジェムストンは、イギリスの、ロンドン・ロスチャイルド家の息がかかった諜報員スパイだ!!!」


「ルルーシュ大佐、何を言っているか、私、さっぱりです……」


「とにかく彼を……国家反逆罪で逮捕する。おいっ! 近衛兵! 緊急招集だ!」


「待ってください! きっと誤解です!」


「セポさん、どうかご理解を」


 ナオンガは、走り出した。



***



 アブディーン宮殿の回廊。


 侍従武官じじゅうぶかんナオンガ・ルルーシュは、鉄砲やら剣やらで武装した何十もの近衛兵を率い、硬い床をコツコツと鳴らしながら、猛進する。


 その先には、銀青ぎんあおの首筋がのぞく、男の後ろ姿が歩く。


「エウスタキオ・ジェムストン!!!」


 ナオンガの、叫び声。


 回廊に響き渡る声は、金管楽器から出た音のように、こだまする。


 声が止む。


 と同時に。


 足音が止む。


 銀青ぎんあおは振り向く。


 その顔は確かに、エウスタキオ・ジェムストンである。


 彼は、険しい表情をしている。


 そして、ナオンガと近衛兵たちは、闘牛で使われる黒牛のように、距離を着々と詰めていく。


 エウスタキオは思わず二、三歩、後退あとずさりする。


 その間も、ナオンガたちの牛歩は勢いを増し、今や韋駄天いだてん走りである。


 再びきびすを返し、去ろうとするエウスタキオ。


 ナオンガと近衛兵たちは、止まらない。

 

「おのれぇ! 青き悪魔め! 貴様を国家反逆罪で逮捕する!!」

「「「「うぉおおおおおおおおおお!!!」」」」

 

 正義を背負うものたちの声が、宮殿内を反響する。


 エウスタキオの進む廊下の突き当たり、左右に折れる道の両側にも、つわものたち。


 銀青は、立ち止まる。


 ナオンガと近衛兵たちは、ついに、手を伸ばせばエウスタキオに触れるところまで迫った。


 取り囲まれる、銀青は、


「ああ、ここまでか……」


 と、気味悪いほどに冷静である。


「エウスタキオ……おとなしく逮捕されるんだな!」

 目を充血させたナオンガは、

 手枷てかせを、

 青い手首にめようとする……


 そこに、

「あああああああ!!!!」

 女性の声。


 その声の持ち主は、近衛兵の集団の中から、するりと顔を出した。


 褐色の肌。

 金髪。

 白銀の耳飾り。


 セポだ。


 手には、何かが握られている。


 その何かは……


 ナオンガの……


 胸に刺さった。


 くずおれる、ナオンガ。


 一斉に放たれる、弾丸。


 弾丸の雨を浴びる、セポ。


 セポに駆け寄る、エウスタキオ。


 銀青は雨の中に飛び込む。


 しかしもう遅い。


 銀青に風穴が一つ、二つ……


 夫婦の体は、やがてぐったりとする。


 銃声が止む。


 宮殿の床には、赤くなった三体が、転がっていた。

 

 

▲▲▲

 


 スエズ運河の株を売った金をもってしても、多勢に無勢であった。

 一八七六年、エジプトはついに、財政破綻した。


〈第二十九話『大神官の系譜けいふ』へ続く〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

瑠璃色の地球 加賀倉 創作 @sousakukagakura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ