第8話『雫(しずく)のラピスラズリ』
__二〇二三年八月十五日、新潟県新潟市
砂浜を、海へ向かって歩くアランの背中は、やけにウキウキしているように見える。
その理由は単純明快。今、アランの通う新潟県立
毎朝三十分間も、パトリシアの荒い運転に揺られて通うことから、解放されている。
アランはかわいそうなことに、車酔いが、激しいのだ。
アランの視線の先には、広大な日本海。
相変わらず、島一つ浮かばない、一直線の水平線。
今日もパトリシアが天気の心配をしていたが、空は青く澄み渡り、雨の気配は
「今日も晴れてるなぁ」
と、ぼそっと
アランは、波打ち際まで走り、小さな灯台の立つ
そこに、謎の黒ずくめの女性が、時たまその金髪の毛先と、白い玉の耳飾りと、胸元の青い
フードが邪魔で、目元を除いては、人相が確認できない。
アランはいつものようにドローンを
だが、それにも理由がある。
ここから北へ行けば、
そして南へ行けば、
なので時折、本来海水浴場とされている区画から、少し離れたところを好む、はみ出しものの声が、獅子ヶ鼻の灯台のあたりまで聞こえてくる。
と、噂をすれば……
歓声が聞こえる。
あちらでは、西瓜割りが、上手くいったようだ。
そしてまたひとつ……
落胆の声が聞こえる。
そちらでは、バレーのラリーが続かなかったようだ。
何を隠そう、八月十五日、終戦記念日の今日、獅子ヶ鼻には人通りも多く、
アランは、影が灯台のそばに差し掛かったところで、やっとその存在に気づいた。
一瞬、ふたりの目が合う。
女性は、日本海を右手にアランを真正面に捉え、上品に、上半身をほんの少し傾けて
「あ、こんにちはー」
と、アランは意外にも、見知らぬ黒い女性に、操縦の片手間ながらも、元気良く挨拶する。
「どうも、こんにちは」
と、女性は無機質な声で返すので、感情が読み取れない。
「お姉さん、海水浴客には見えないけど、観光?」
と、単刀直入に尋ねるアラン。
アランは、依然ほとんど視線をドローンに奪われており、女性を一目見ただけで、そう判断したようだ。
女性は手ぶらで、素肌が見えないよう黒のヴェールを
確かに、海は泳ぎそうにはない。
「ええ。海を見に来たの。坊やは何してるの?」
と、女性。
「坊やじゃないよ、高校生だよ」
と、アランは軽めの笑い混じりで返す。
まだアランは、女性を直視しようとしない。
「あら、それは失礼したわね」
と、女性は、再び小さくお詫びのお辞儀をすると、目と目を合わせた会話ができないと悟り、体の正面を海の方へ向ける。
「お姉さんは、どうして全身真っ黒なの?」
と、アランは、警戒心からではなく、単純な興味から、無邪気に質問する。
「それは……信仰上の理由」
と、女性は呟く。
「そっか。その衣装、かっこいいね、シスの
「あぁ、確かに、そうかも」
意外にも、アランのSF映画ネタは女性に伝わったようだ。
「ねぇ、これ知ってる?」
ポケットを
女性は、再びアランを真正面に捉える。
「これ、見てよ」
と、アランは、金ピカの粒を手のひらに乗せて、女性に差し出す。
粒に、太陽の光が反射して、
その輝きが、合わせ鏡のようにして、女性の胸元の青い宝石に反射する。
「これは……砂金かしら?」
女性は、アランの手のひらから砂金を
「うん。それ、あげるよ」
と、気前のいいアラン。
「えっ……いいの?」
女性は、戸惑う。
「うん。これはね、そこの浅瀬で、たまたま見つけたんだよ」
「そう……」
不思議なことに女性は、アランから砂金をくれてやると言われて発したような驚きの声を、今回は出さなかった。
「でもね、その代わりに……」
アランは、海の方を向いたまま、ドローンのリモコンを左手だけで持ち、右腕を、ゆっくりと、真っ直ぐと伸ばし上げて、彼女の胸元にある青い雫を、指差した。
「ええっと……何かしら?」
と、女性は再び戸惑う。
「それ、見せてくれない? 綺麗な青い雫の、首飾り」
アランは、久しぶりに女性と目を合わせた。
「えっ、まぁいいけど。見せるだけでいいの?」
女性はそう言うと、
「うん。それで等価交換。僕の方は見せてもらうだけだけどね。あ、ふんだくって、走って逃げたりはしないよ?」
と、アランは
アランは、女性の方を、全く見ていないようで、実は女性の胸元の
「はい、どうぞ」
女性は、先にロイヤルブルーの雫を下げた金属の細い鎖を、アランの手のひらに垂らす。
「ありがとう」
アランは
手のひらにおさまった青い雫を、そっと、丁寧に、自分の胸の前まで持っていき、真っ直ぐ見つめる。
アランは、その雫に、心を奪われてその中へと吸い込まれてしまうのではないかと思うほどに、長い時間、見つめ続ける。
そこに。
手のひらから。
こぼれ。
落ちる。
雫。
アランは。
左手に持っていた。
ドローンのリモコンを。
勢いよく投げ捨ててしまうと。
こぼれる雫を
なんとかその鎖に触れるのだが。
彼の努力の
足元の小さな石に。
衝突した。
雫は。
その石を。
叶わなかった。
大きな雫は。
真二つに。
割れ。
た。
***
砂浜に突き刺さるリモコン。
空には、制御不能になった、
「あ、ドローンは大丈夫?」
と、女性が荒れ狂う
「あっ! いっけね!」
と、アランはリモコンを投げ捨てたことに、やっと気づいた。
しかし、ドローンは彼らの
「どうしようかしら……」
立ち尽くす女性。
「最悪だ! いや
頭を抱え、座り込み、砂まみれになるアラン。
アランの
そこには誰も、乗っていないのだから。
さらに、ドローンのプロペラのモーターの駆動音が、
おまけに煙を上げ始める。
そしてそれは、球場内を不規則な軌道で飛び交うバルーンのように、最後の悪あがきを見せると……
ついには、ぽちゃり、と、浅瀬に落ちてしまった。
揺れる水面には、ぷかぷかと浮かぶ機体。
「本当に、ごめんなさい……」
と、アランは座ったまま、頭を砂につけて女性に土下座する。
「いいのよ、あれはそんなに価値のあるものじゃないし」
女性は、雫のことをあまり気にしてない様子。
「でもとても綺麗な石だったから……宇宙から見た地球みたいに、綺麗な
と、アランは割れた雫を見つめながら言う。
「いいのよ、気にしないで」
と、女性はしゃがみ込んで、アランと目線の高さを合わせる。
「はぁ、せめて逆だったら……ドローンが砂の上で、ネックレスが海に落ちていたら……」
アランは、ため息をつきながら、
「あ、ラピスラズリはね、水に弱いのよ」
女性は、割れた雫を拾い上げる。
「ラピスラズリ?」
と、アラン。
「そう。ラピスラズリ。水に触れると変色したり
女性は、雫の
アランは、一瞬、その青い軌跡を追いそうになったが、踏みとどまる。
雫が、母なる海に触れる。
時が止まる。
水のリングは姿をくらます。
が、一時の静けさは波にさらわれる。
「そうなんだ。あ、ひょっとして、ツタンカーメンの黄金のマスクの青い部分も……ラピスラズリ?」
と、
「そうそう、察しがいいわね。あなた、ひょっとして、賢いでしょ?」
「まぁ、賢くなくはないかも、ね」
アランは、照れている。
「だってドローンを自分で整備するぐらいだもの、私の船の調子も見てほしいくらい……あ、いけないわ」
女性は、余計なことを言ってしまった、という表情。
「船? お姉さん、船持ってるの?」
「ま、まぁね。大したのじゃないけど」
「へぇ、すごいね。今度見せてよ!」
「えっ……」
アランの
「またいつか……」
「来るよね?」
と、酷く食い気味のアラン。
「わからないわ……」
女性は
「そうだよね、平気で
アランの気分は、次々と山を越え谷を越えて、
「いいのよ、本当に。それより……。あなたのドローンの方が深刻そう。整備したばかりだったのよね」
「う……うん」
「坊や、気を落とさないでね」
と、女性はアランの肩にそっと手をのせる。
「だから、坊やじゃないって…………ううん、坊やでいいよ、もう」
***
その日の夕方。
昼間の好天が嘘のように、大しけの海。
打ち寄せる波は、人々の歩みの
稲妻が、暗黒の
轟音。
目が
遅れて、何かが破裂したかのような強烈な爆音。
黄色い雷神が、誰かに向けた叫び声が、
決壊したダムから水の
濁る海水。
鼠色の曇りの
浅瀬に沈んだ、雫の欠片には、大きく、深い深い亀裂が、入っていた。
〈第九話につづく〉
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