第9話『或る手記①プトレマイオス五世と暗黒の石碑』

 ——日本語訳版『パピルスの手帳』——





 『プロローグ』


 宇宙。


 天の川銀河。


 太陽系。


 そして、地球。


 目の前でゆっくりと自転する、この白いもやのかかった青と緑の惑星は、数多あまたの生命の母なる星である。


 海が七割、陸が三割。


 このたった三割の土地に、ヒトという高等知能生物が巣食う。


 星に近づいてみる。

 

 薄い大気の層。

 

 雲を突き抜け。

 

 砂の大地が見える。

 

 上空からは。


 西と東に、大量の豆粒。


 やがてそれが、豆ではなく、ヒトだとわかる。


 ヒト。


 それも、剣とたてたずさえ、鎧を身にまとった軍勢。


 軍勢は対峙たいじし、無数の叫び声と共に、駆け始める。


 嵐のような砂埃すなぼこり


 ついに剣を交え、激突する両軍。


 剣と剣が、命と命がぶつかり合う。


******************************


 これは、紀元前二一七年、第四次シリア戦争ラフィアの戦い。


 ヘレニズム東征から滅亡までの時代において最大規模の激戦。


 その当事者は、プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリア。


 東方貿易の最重要中継地点であるコイレ=シリア(シリア南部、現代で言うとアフリカ大陸とユーラシア大陸の狭間にあるスエズ運河がある地域)をめぐり、両朝は長年、血を血で洗う領土争奪戦を繰り広げていた。


 今、エジプトは、プトレマイオス四世の治世。


 プトレマイオス四世は、父を殺し即位、その後わずか一年の間に母、弟、叔父を殺した。


 その後も、家臣のソシビオスのささやきで放蕩ほうとう生活。


 ラフィアの戦いの前、プトレマイオス四世は、火の車となっていた家計を顧みず、セレウコス朝の手に落ちたコイレ・シリアの地を奪還するべく軍団を強化していた。


 戦争、宮廷内の対立、財政難。


 あらゆる要因でプトレマイオス朝は、衰退の一途へと片足を踏み入れていた。


******************************


 兵士たちは、砂のかすみの中、金属の火花を散らし続ける。


 あるシリア兵がエジプト兵を高い岩壁の前に追い詰める。


 シリア兵はエジプト兵めがけて剣を振り上げる。


 と思いきや、斬撃は虚空を切る。


 剣先は、見当違いの方向へ向かい、エジプト兵の背後にあった石を砕く。


 その隙を見て、攻撃を交わしたエジプト兵は、シリア兵の左胸に渾身こんしんのひと突きを浴びせる。


 苦悶くもんの表情を浮かべながら倒れるシリア兵。


 エジプト兵は、戦利品として、シリア兵の遺体から左側の眼球をえぐり取る。


 鮮血の滴るしたた眼球を、エジプト兵は、空高く掲げ、雄叫びを上げる。


******************************


 プトレマイオス朝はラフィアの戦いに勝利し、シリア南部の奪還に成功した。


 しかし、勝利の後には、今度はエジプト国内で大反乱が起こった。


 反乱の最中の紀元前二〇五年、プトレマイオス四世は亡くなった。


 そして、プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアとの対立が続く中……


 ついに、紀元前二〇四年、プトレマイオス五世が即位した。




 

 【注記】

 

 この項は、当然ながら、古代の大神官によって記されたものではない。


 加筆に当たっては、言語学者パトリシア・バイロンが監修を務めた。

 


 第二十一代バイロン男爵(女男爵) パトリシア


 二〇二四年 六月九日 更新

 

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 __手記のとある一ページ__

 

 金と青の縞柄しまがらの頭巾。


 顎の先端から伸びる、蛇のように長いつけ髭。


 赤、青、金、緑など、豊かな色彩で彩られた、首飾りと腰布こしぬの


 四肢ししのあちこちには、正真正銘、本物の純金ジェニュイン・ゴールドと、シルクロード由来の瑠璃色のラピスラズリでできた輪がはめられている。

 

 私は今、とある儀式を控えた王の身支度の手伝いをしている。


 王というのは、プトレマイオス五世。


 家族殺しで悪名高いプトレマイオス四世のご子息だ。


 この幼き王は、父親に似ないことを願うが……。


 私は、例の石碑の作成が決まった日から、毎日の宮廷日記とは別に、ごく個人的な、取り留めのない日記をつけ始めた。


 相変わらず、プトレマイオス朝はセレコウス朝との対立関係が続いている。


 そしてここは権謀術数けんぼうじゅっすう渦巻く宮廷。


 このお方にも、いつ魔の手が忍び寄るかわからない。


 目下のところ、彼の命を守るのが、私の使命である。

 

 だが、間違いなく今、プトレマイオス朝は斜陽しゃようである。


 この国に、太陽神ラーの御加護は、いつまで続くのだろうか。


 前王の崩御ほうぎょののち、臣下だったソシビオスとアガトクレスが実権を握った。

 

 老獪ろうかいなソシビオスは、その直後、老衰でくたばった。

 

 その翌年には、アガトクレスも、軍事クーデターで殺害された。


 そして今日(紀元前一九六年)、私は、王プトレマイオス五世と、その摂政せっしょうであるギリシア人アリストメネスとともに、とある計画の最終段階に移ろうとしていた……。


 

 【注記】

 

 読みが難しいと思われる単語に関して、ルビを振った。


 また、最終文の「今年」の箇所に、時系列の把握の一助となるよう「紀元前一九六年」を付け加えた。


 加筆に当たっては、言語学者パトリシア・バイロンが監修を務めた。

 


 第二十一代バイロン男爵(女男爵) パトリシア


 二〇二四年 六月九日 更新

 

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 __手記のページを、少しさかのぼる__

 

 石造りの宮殿内。


 高く、長く続く石段の先の、豪奢ごうしゃな玉座。


 体の線が細く、まだ垢抜けない、ファラオの御身おんみ


 その遥か下方で、足早な歩みの二人の男。


 彼らは、石段の最下段の前で、同時に、地に片膝を、ぴったりとつける。

 

「今日お前たち二人を呼んだのは、ほかでもない、我は何か大きな一手を打ちたいのだ」


 よわい僅か十四歳。声変わりしたばかりの、若き王の声が、石の部屋の中で反響する。


「このところ、プトレマイオス朝は地中海における影響力が明らかに弱まり、エジプト国内も農民の反乱が絶えず、混沌としている。私は王として、どうするのが良いだろうか」


「民を味方につけましょうぞ」


 拳を固く握り、強い口調の摂政アリストメネス。


「苦しいですが、新たな土地の授与、そして免税。この二点が得策かと」

 

 私、ロゼッタの前統治者である大神官デザト。


「気が合うな、私もちょうど、そう思っていたところだ。その旨を、石碑に刻み、各地に配置いたしましょう」

 

 話に乗るアリストメネス。


「うむ、それは名案だ。二人が言うなら、そうしよう」


 王は、我々の提案に、二つ返事で承諾した。


【注記】


この項の四、五、七、十、十二、十四行目は、会話の主語を明確化し当時の情景を詳細に表現する目的で、ジョニー・バイロン男爵によって、一九九三年十一月頃、彼の独断と偏見で挿入されたと思われる。


その考証に当たっては、言語学者パトリシア・バイロンが監修を務めた。



第二十一代バイロン男爵(女男爵) パトリシア


 二〇二四年 六月九日 更新

 

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 __手記のページを、一枚だけめくる__


 王プトレマイオス五世は、パピルスの紙に描かれた、とある意匠デザインを私に渡した。


 何でも、王自ら、来る宣布式の後に全国に広める必要のある宣言文の意匠を、考案されたのだ。


 そして、アリストメネスにまんまと石碑作成の全てを押し付けられた私の元に、その案をお持ちくださった。


 (ちなみに石碑は、法令の内容をエジプト全土に広く周知するためのものなので、一点ものではないのである。所謂いわゆる「ロゼッタ・ストーン」と呼ばれる個体以外にも、同様の内容の石碑が多数存在した)


 だが不思議なことに、王いわく、無数に作られるであろう石碑のうち、たった一つだけ、他の石碑とは異なる、特別な石碑を、どうしても作りたいらしい。


「デザトよ、数ある石碑の内の一つに、特注の、上質な石を使ってくれ」


「それならば、とっておきの石があります」


「ほう、言ってみろ」


かみエジプト(カイロ南部からアスワンにかけて。しもエジプト=カイロ以北のナイルの三角州と対比して言う)はナイル川西岸に位置する、ティンガル山の花崗岩かこうがんを使われてはいかがでしょう?」


「なんだ、それは?」


暗雲あんうんのような色合いの岩です」


「デザトよ、暗雲立ち込めるこのプトレマイオス朝の治世を皮肉っておるのか? 大したやつだ」


「王よ! それは……実は半分には、その通りでございます」


「なんだと? 何が言いたい?」


「この暗黒の時代に、顕現神王けんげんしんおうエピファネス(=プトレマイオス五世は神がその身を現世に表した姿だとして、このように言う)の御言葉を、白き光の文字として石に刻み、太陽神ラーの如く、世を照らすのです」


「なるほど……それはいい考えだ」


「身に余るお言葉……深く感謝いたします」


「お前はその控えめな性格の裏に賢さがある。この先も我に一生尽くすが良い。アリストメネスは、ギリシアのよそもの。神官としての資質を備え、このエジプトの地にゆかりのあるお前こそ、我がしもべとして相応しい」


「どこまでも、お供いたします」


「だがデザトよ、やけに石に詳しいな。なぜだ?」


「知り合いの石切職人が、そう申し上げておりましたゆえ」


「そうか、殊勝しゅしょうな心がけだな」


「ありがたきお言葉……。ですが王よ、そもそもなぜそのような特別な石碑を望まれるのです? お言葉ですが、宣言文を刻むだけの石です。提案しておきながら誠に恐縮ですが、いつもの石に、宝玉などを散りばめて装飾を施しても……」


「貴様! 王の言葉を安物の石に刻めと言うのか!」


「はっ! 申し訳ございません、ご無礼をお許しください」


「ははは、冗談だよ」


「王よ、心臓に悪うございます。では、どういったお考えを」


「ロゼッタストーンの、双子石ふたごいしを作りたいんだ」


「双子石? それはいったい……」


「厳密には双子石はもうつくってある。それで、その特別な石碑の中には、双子石の秘密を解く鍵を入れてきたいんだ」


「鍵、ですか」


「そうだ。これなんだが」


 王はこの時、指で摘んだ青いたまのようなものを、自慢げに示された。


「この、ごく小さな瑠璃色るりいろの球に、我は彫刻を施すつもりだ」


「はぁ。何か、言伝ことづてのようなものでしょうか?」


「これ以上は、王家の重要機密。我は王家の谷まで持っていくつもりだ」


「大神官でも、王に仕えるこの私奴わたくしめでも、難しいでしょうか」


「ああ、すまないが、教えられない」


「そうですか……」


「だが、そのうちわかるだろう」


「ますますわかりません」



 

 

 【追記】


 そののちの紀元前一九六年三月二十六日、メンフィスの地にて、アリストメネスの主導で、プトレマイオス五世の宣布式が執り行われた。


 民への土地の授与と免税の旨が刻まれた石碑が、エジプト全土に置かれた。


 それから約二千年後、ロゼッタの地には、プトレマイオス五世が大神官デザトに命じてつくらせた、大きな、暗黒色の特別な石碑の姿があった。


 フランス軍は、ロゼッタの民を虐殺し、その黒い石碑を持ち去った。


 その時、私はこの手帳を拾った。


 石碑は紆余曲折うよきょくせつを経て我がイギリスの手に渡り、今では通称「ロゼッタストーン」と呼ばれ、モンタギュー・ハウス大英博物館で見ることができる。


 保存のために蝋が塗られ、私が初めて見た時とは少し様相が異なるのは残念である。



 第十五代バイロン男爵 ジョセフ


 一八〇二年 六月九日 更新



 【注記】


 この項の冒頭部分に、プトレマイオス五世の宣言文の記された石碑、通称ロゼッタ・ストーンへの理解の一助となるよう、解説を付け加えた。

 

 「上エジプト」と「顕現神王エピファネス」に関して、古代エジプト社会・文化への理解の一助となるよう加筆を加えた。


 ジョセフ・バイロン男爵の追記にある「モンタギュー・ハウス」は、第二代モンタギュー公によって手放され、のちの一七五九年に大英博物館に売却された豪華な邸宅である。モンタギュー・ハウスは現在でも大英博物館の中心的施設として利用されているため、二者はほぼ同義と見なし、「大英博物館」とルビを振った。

 

 加筆に当たっては、言語学者パトリシア・バイロンが監修を務めた。

 


 第二十一代バイロン男爵(女男爵) パトリシア


 二〇二四年 六月九日 更新


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 __手記を一気に数十ページ捲る__


 プトレマイオス朝は、セレウコス朝とついに和平を結んだ(紀元前一九三年)。


 それと同時に、王プトレマイオス五世は、対立していたセレコウスセレウコス朝のアンティオコス三世の娘、クレオパトラ一世と御結婚なさった。


 だが、これでエジプトに平和が訪れたわけではないことを私は理解している。


 プトレマイオス朝はセレウコス朝より内政干渉を受けるようになったのだ。


 

 【注記】


 プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアの和平に関して、時系列の把握の一助となるよう、「紀元前一九三年」を付け加えた。


 誤植である「セレコウス」の表記に関して、正しい表現「セレウコス」に修正した。


 加筆・修正に当たっては、言語学者パトリシア・バイロンが監修を務めた。

 


 第二十一代バイロン男爵(女男爵) パトリシア


 二〇二四年 六月九日 更新


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 __さらに手記を捲る__


 王の妃クレオパトラ一世は元気な男児をご出産なさった(紀元前一八六年)。


 名はフィロメトル。


 のちのプトレマイオス六世となるであろうお方だ。


 お産には、王のしもべである私も立ち会った。


 クレオパトラ一世は、出産の瞬間、涙を流していた。


 男である私には、腹を痛めるのを経験することは叶わないのだが、とにかく妃は、私の手を強く握って離さなかった。


 その時私は、もう頭が見えていますよ、と伝えた。


 すると妃は、これは痛みによる涙ではない、と答えた。


 どういうことか、と私は尋ねた。


 すると妃は鋭い眼差しでこうおっしゃった。


「これは悲しみの涙です」


 私は恥ずかしながら、その言葉の意味を理解できなかった。



 【追記】


 私はこの時理解できなかった妃の言葉の意味を、彼女の二回目の出産の時に、やっと理解した。



 かつて 王の僕 大神官デザト だった者


 紀元前一八五年 某日



 【注記】


 クレオパトラ一世の、長男プトレマイオス六世の出産に関して、時系列の把握の一助となるよう、「紀元前一八六年」と付け加えた。


 この『パピルスの手帳』の執筆者とされる大神官デザトの追記の箇所に、時系列の把握の一助となるよう、「紀元前一八五年 某日」と付け加えた。

 

 加筆に当たっては、言語学者パトリシア・バイロンが監修を務めた。

 

 第二十一代バイロン男爵(女男爵) パトリシア


 二〇二四年 六月九日 更新

 

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 〈第十話へ続く〉


 

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