第17話『砂の島』
__二〇二四年 一月二十二日 月曜日 深夜__
冬の夜の空気の冷たさのせいか、スバルの
二人が眠りについてもなお、いつもの青いエプロンをつけて、家中を歩き回り、家事に勤しむパトリシア。
手には何か、小さな本のようなものが握られている。
パトリシアはなぜか、何かを思い出したかのように、突然、玄関へ。
そしてエプロン姿のまま、外へ出る。
雨に降られ、湿った砂の上を、やや太めの足でギュッギュッと固めていく。
海の方へ、ふらふらと歩いていく姿は、まるで霊に取り憑かれているかのようだ。
迷うことなく、獅子ヶ鼻の灯台前、
そこで、右手に持つ何か……例のパピルスの手帳を、日本海の水平線に向けて、高く掲げる。
すると……
パトリシアの眼前に、
次に、大きな影が姿を現し、
パトリシアは、その影に飲み込まれたかと思うと、
光は消え、
自ずと影も消え、
パトリシアも消えてしまった。
+△●
__
パトリシアの、パッチリとした二重の目が開く。
太陽はない。
辺りは暗い。
が、何も見えないと言うほどではない。
手の中に何かの存在を感じる。
右手には、パピルスの手帳。
左手には、砂。
力を抜くと、砂はサラサラと地に
パトリシアは自分が、見知らぬ浜辺に、うつ伏せて倒れ込んでいることに気づく。
手の甲で目を擦りながら、立ち上がる。
体についた砂を、払い落とす。
手帳も、青いエプロンも、金髪も、濡れていない。
海に流されてきたわけではないようだ。
目の前には、真っ黒な海。その先に何があるかは、暗くて、よく見えない。
ようやく異変に気づいたパトリシアは、
「Where the f*ck am I!?」
と叫んだ。
慌てて振り返る。
視線の先には、
砂色の壁に囲まれた、巨大な街。
日干しレンガと、石でできた建物群だ。
明かりもある。
パトリシアは、厚めの胸板を撫で下ろし、
「よかった、街があったわ! あの街で誰かに頼んで、助けてもらいましょう」
と、独り言にしては大きな声を漏らす。
明かりを目指して歩く。
きめ細かい砂に足を取られる。
なんとか建物のそばに着き、ゴツゴツとした壁に触れる。
その想像以上の高さに怯む。
街の外周全体には、自力ではどう考えても登れない高さの壁が築かれている。
それを見て、パトリシアは、久しぶりの、ぎこちない小走りで壁沿いを移動する。
するとやがて、
壁の抜け落ちたところを見つける。
どうやら、そこが出入り口の門らしい。
門の両脇には門番らしき男性が一人ずつ。
彼らは、細長い、木製の槍のような、やや後進的な武器を持っている。
なぜか、上半身裸で、肌は褐色。
目鼻立ちは、パトリシアに負けず劣らず、くっきりとしている。
パトリシアは壁から出っ張った柱の影に身を潜めて、
「あんまり偏見は良くないけど……あの人たちの外見からして、ここは中東か西アジアか、南アジアのどこからしいわね」
ボソッと、推理を独りごつ。
パトリシアが、門番たちをチラチラと観察していると……
門番の一人と目が合った。
「イルゾ! オンナガ! ソコニ!」
叫ぶ門番A。
が、パトリシアは呑気なことに、
「あっ、中エジプト語じゃないの! 『VSC型』をとるのねっ! 録音してやりたいわ」
などと言って、アマチュア言語学者の血が騒いでいる様子。
門番Aは槍を片手に、パトリシアに、ジリジリと寄る。
門番Aは強い口調で話しかける。
「渡航許可証を見せろ!」
パトリシアは持ち前の外国語能力で、異国の言語を脳内変換し、意味はわかるのだが……
「ちょっと何よもう。『渡航許可証』なんて言われても、そもそも渡航なんてしてないわよ、私」
と、静かに愚痴をこぼす。
門番Aはさらにパトリシアとの距離を縮め、問い詰める。
「ないのか? ないのなら、金鉱床で強制労働だ!」
ギラリと鈍く光る、槍先が向けられる。
パトリシアは焦り、
「ええっ、強制労働? そんなのゴメンだわ。とにかくハンズアップよハンズアップ。私は怪しいものではありません!」
と、両手を上げて主張する。
上げた右手には、相変わらず、パピルスの手帳が握られている。
手帳に、門番Aの目がとまる。
するとおかしなことに……
「そのパピルスの手帳はまさか……」
と、門番Aは歩みを止め、槍を地に落とす。
そして、パトリシアの膨らんだ腹部をじーっと見つめてこう続ける。
「それにウルトラマリンの生地の衣装……申し訳ございません! 無礼をお許しください。どうか、お許しを!」
と、門番Aは突如として跪き、それはそれは深い謝罪を始めた。
門のそばの門番Bのほうも、なぜか槍を置いて片膝をついている。
門番たちは、パトリシアのことを、誰かと勘違いしているようだった。
キョトンとするパトリシア。
「急に何なのあなたたち。まぁ、通してくれるなら、何でもいいけど。ランラランララン♪」
と、上機嫌に、パトリシアは警備が手薄になった門を、スキップで通過する。
パトリシアが、いくらか整備された硬い砂の地面を踏み締める。
しかし、門番Aは、
「あっ、いけませんご夫人! あなたを徒歩で行かせるなど、私にはできません」
と、引き止めようとする。
「なぁに? また引き止めるわけ? 入っていいの、いけないの、どっちなの?」
パトリシアは仕方なく再度立ち止まり、プンスカしながらグチグチ言う。
「もちろん入ってください。しかし、高級神官ともあろうお方に、歩かせるなど、バチが当たってしまいます。今すぐ輿を手配いたしますので、ほんの少々お待ちいただけますでしょうか?」
門番Aは、低みからパトリシアを見上げて、そう請うた。
パトリシアは、状況を察し、偉そうに腰に手を当てて、こう言う。
「まぁ、タクシーを用意してくださるのね。喜んで待つわ」
彼女の出立ちは、召使に強気な態度の英国貴族のそれである。
「おいお前、輿は俺が手配するから、あのお方の末裔がついにいらしたと、今すぐリッチー様に連絡するんだ!」
門番Aは、門番Bにそう指示する。
「はっ! 直ちに!」
門番Bは街の中央へ向かって走り出す。
「では私も。すぐに戻りますので」
門番Aも、門の警護をそっちのけで、どこかへ走り去った。
◯△●
__ほどなくして__
食べ物や日用品などを売る露店が、ずらりと立ち並ぶ。
小麦が香ばしく焼ける匂い……
焼きたてホカホカのパンだ。
すり鉢ですり潰される穀粒は、屑を取り除かれたた後で、石で挽かれ粉になり、水と菌が加えられ、足でこねられ、円筒形の高い釜へ入れられる。
バタースコッチのような甘い芳香……
びんに詰められたビールだ。
白い衣装の男が、王の肖像の入った貨幣と引き換えにびんを受け取る。
それを矢継ぎ早に、グビグビと飲み、サンタクロースのような白い泡の口髭をつける。
あっちでは魚や鳥が、腹が裂かれ内臓が抜け落ちた状態で、日干しにされたままになっている。
そっちでは山積みの果物。
布地屋と仕立て屋が隣同士で建っている。
布地屋の店先には、青、黄、緑の原色の生地が目立っている。
仕立て屋の老婆はナイフで、その孫らしき男はハサミで、布を裁断する。
X字型のハサミは、ローマの影響を思わせる。
イグサやアシで編まれた家財道具の並ぶ家具屋。
黒曜石のびんに入った香水を売る香水屋。
床屋。
かつら屋まである。
パピルスの書物を売る店も。
古めかしくも、高度に発達した文明を確認できる街並み。
人々は皆、簡素な白い衣装を纏っており、腰巻きだけのものも多い。
平らに整備された石の道の真ん中には、
輿に乗るパトリシア。
ふっくらとしたパトシリアの体を、十人の細い体躯が支える。
「本当、格別の待遇ね。ファラオにでもなったみたい。ここまでしてもらうと、さすがに申し訳なくなっちゃう」
青いエプロンをつけて、慣れない輿に揺られるパトリシアの姿は、なんだかチグハグだ。
だが間違いなく彼女は今、ファラオとまではいかないが、少なくとも高級神官級の接待を受けている。
「その手帳が何よりも、あのお方の子孫の証なのですから、何なりとお申し付けくださいませ」
と、輿の横を歩く、門番A。
「そうねぇ……この手帳を使ってできる、一番のすごいことって何かしら?」
パトリシアは、高みからパピルスの手帳を、警察手帳のように示して見せる。
「今向かっている神殿の隣で建設中の、黄金のピラミッドの区画に入れます。そこには高級神官しか、入れません。あの輝きを見てください」
と、門番Aは答えると、ずっと先にある黄金の輝きを手で指す。
「へぇ、それは興味深いわね」
パトリシアの視線の先には、闇夜を照らす黄金の四角錐の先端が見える。
街には、やや陰鬱とした雰囲気が漂うが、黄金のピラミッドの輝きもあって、夜と言えど過ごしやすい明るさではある。
街ゆく人々は皆穏やかな表情をしており、治安も悪くなさそうだ。
「ほら、そこのあなた、少し輿が傾いているわよ? 頑張ってくださいまし?」
早くも神官の身分が板についてきたのか、パトリシアは命令を下し、
「わがまま言うようだけど、ちょっと退屈ね。神殿までは、どれくらいかかるのかしら?」
と、せっかちな質問もしてみせる。
即座に、
「恐れ入りますが、かなり長い時間が」
と、答える門番A。
「かなり長い時間! それだけ待つには、お腹が空きすぎているかも……喉も乾いたわ」
すました顔で、当たり前のように注文をつける。
明らかに調子に乗り始めている。
門番Aはパトリシアの期待に応えるべく、街の人間たちに、大声で呼びかける。
「承知いたしました……皆の者よ、こちらの大神官の末裔に、ありったけを捧げよ!」
すると、人々の視線は輿に一点集中し、
各々持てる全てを持って、パトリシアに群がる。
各人の手には、パン、ビールのびん、ワインのびん、デーツの盛られた籠、魚の干物など。
「えーっと、デーツとお魚は有り難く受け取るわ。でもお酒じゃなくって、お水とかは、なくって?」
すると青果売りの男性が、
「オレンジジュースならここに!」
と、腕を伸ばして、パトリシアにびんを差し出す。
それはお眼鏡にかなったようで、
「いいじゃない、どうもありがとう」
と、パトリシアはびんを受け取り、手元はいっぱいになった。
だが、食べ物や飲み物だけではない。
「これもどうぞ!」
群衆に埋もれて声の主は見えないが、誰か女性の声がしたかと思うと、
ジャラジャラとした、貴金属やラピスラズリのネックレスが、投げ輪のように飛んできて、
それらを、パトリシアは見事頭でキャッチした。
こんな声も聞こえてくる。
「肌が白いぞ? ギリシャ人か?」
「いや、もっと北西の国なんじゃないか?」
「いやいや、大神官の
「うふふふ。なんだか私、人気者になった気分」
と、パトリシアは、満更でもないようだ。
__かなり長い時間を経て__
パトリシアを乗せた輿は、黄金のピラミッドのそばにある、神殿に到着した。
神殿前には、大袈裟にも、他の神官たちがずらっと立ち並び、パトリシアを出迎えた。
神官たちの姿は、街の庶民とは明らかに格好が違った。
髪が綺麗に編まれ、目尻には切長のアイライン、首周りには、金、銀、青、緑などで彩られた帯状の首飾り。
そして各々が、多種多様な、わけのわからない金色の道具を携えている。
その中の一人が一歩前に出て、
「ようこそお越しくださった。我は現世と冥界の狭間の管理者、リッチーである。あなたを、随分と長い間、待っていた」
と、パトリシアを歓迎した。
リッチーと名乗るその男は、これまた妙な服装をしている。首から足首まで垂れる長い一枚布。向かって左半分が白。右半分が黒の左右非対称の衣装。
パトリシアは神官たちの荘厳さに圧倒されることなく、
「いえいえ! まぁ、お越し……と言っても、気づいたら砂浜にいただけですけどね」
と、陽気に答えてみせる。
「念の為、手帳を拝見しても?」
と、リッチーは手の平を上に向けて、前に突き出す。
「ええ、もちろん」
と、パトリシアは、ずっと大事に握りしめていたパピルスの手帳を、リッチーに預ける。
リッチーは手帳をパラパラとめくり……
「素晴らしい……が……」
と、何かが引っ掛かっている模様。
「が?」
首を傾げるパトリシア。
リッチーは、手帳を投げ捨て、
「これはあのお方の筆跡ではない! こやつは詐欺師だ、衛兵、直ちに捕えよ!」
と叫ぶ。
どこからともなく、ぞろぞろと武器を持った兵士がやってきて、パトリシアを取り囲む。
パトリシアはあまりの急展開に狼狽して、
「えっ? どう言うこと? これはバイロン家に代々伝わるパピルスの……」
と、言い訳を始めるも……
「貴様、よくも神聖なるパピルスの手記を偽装し、欺いたな。未来永劫、鉱山でタダ働きしてもらう!」
と、リッチーは容赦なく、強制労働を宣告する。
他の神官たちは、無言で背を向け、神殿へ帰ってゆく。
「私は元女男爵よ! こんな無礼は!……」
パトリシアはそう主張するが……
それはあくまで『元』であるし、現在は、ごく一般的な主婦である。
リッチーは、足掻くパトリシアを、
「……」
無言で、冷たい眼差しで見つめる。
「というか、もうこんな砂の島は嫌よ、ボートでもなんでも漕ぐから、島から脱出させてちょうだい!」
パトリシアは懇願する。
「それは、
「どうしてよ! ……って待って、『ほとんど』ってことは、可能性はゼロではないってこと?」
「……」
リッチーは軽く俯き、なぜか言葉に詰まる。
パトリシアは、ニヤリと笑って、
「おっと、何か訳ありのようね? 覚えておくわ」
と、元英国貴族の強かさを隠しきれない。
「だ、黙れい! そのうるさい女狐を早く金鉱送りにしろ!」
リッチーは、明らかに動揺しながら、衛兵たちに命じた。
リッチーの目をじっと見つめるパトリシアだったが、力には逆らえず、衛兵に首ねっこを抑えられ、連行されてしまった。
△△△
__そう短くない時を経て__
今、パトリシアは、神殿からかなり離れた、薄暗い鉱山の中を、衛兵に連れられて歩く。
洞窟のような空間で、カチカチと、岩と
暑くも寒くもない、ちょうど良い温度。
鶴嘴や、シャベルや、手押し車など、採掘用の道具が、几帳面に並べられている。
使用目的はわからないが、水がなみなみに張られた大きな
衛兵が立ち止まり、
「おい女、今日はひとまず、そこの太鼓腹に作業を教えてもらえ」
と、言って、去っていく。
パトリシアは、その太鼓腹と呼ばれた男に近づいて、恐る恐る……
「ごめんくださーい……」
と、声をかける。
男は振り向き、
「ん、俺っちに話しかけてるのか?」
と、低くこもった声で返事をした。
呼ばれた通りの典型的なビールっ腹。
そしてパトリシアよりも、遥かにムチっとした顔と四肢。
肌艶もいい。
鉱山の労働従事者には、あまりふさわしいとは言えない外見だ。
「ええ、そうよ。私にここのことを教えてくれるかしら?」
と、意気込むパトリシアだが……
「教えるも何も、適当でいいのさ。ほら、みんなを見てみろよ」
と、男が指差す先には……
「やっぱり夜勤はだりぃな」
「いやでも、割り増し賃金はおいしいぞ?」
「馬鹿言え、それは健康とはした金を引き換えてるんだ。夜は寝なきゃダメだっての」
「それはそうだけど……」
「夜勤続きで、昼はくっちゃねの、不規則で自堕落な生活をしてたら、あそこの太鼓腹みたいになっちまうぞ?」
「確かにな……あ、俺水飲んでくるわ、今しがた甕に新鮮な水が注がれたばっかりらしいからよ」
「本当か? なら俺も、水分補給といこうかな」
と、とても人間らしい会話を繰り広げる労働者たちの姿。
彼らはあまり汚れていない鶴嘴をポイと置き捨て、
「ね? ああやってぺちゃくちゃ喋りながら、適当にやってればいいのさ」
と、太鼓腹の男は、屈託のない笑顔で言った。
「そ、そう。なんだが、嬉しい誤算だわ」
パトリシアは拍子抜けした。
「そうかい。まぁ、今日のところは、みんなの動きをぼーっと眺めておけばいいんじゃないかな。特に……あそこの奴らなんかは、働き者で参考になるかも」
そう言って、太鼓腹が次に指差したのは……
明らかに現代人風の格好をした集団。
「もうやだ! 五ヶ月も石ころ集め!」
と、鶴嘴を力強く振り下ろす、若い女性。
その声の言語は、日本語である。
「だから、希江ちゃん? 一緒に脱出しようって、俺はずーっと言ってるじゃん?」
と、同じく鶴嘴を力強く振り下ろす、若い男性の声。
話している女性と、ほとんど同じ格好をしている。
「どうやって? 『スーパーピューマ』は大破したんだから! 無線も強力な電磁波でつながらない。泳いで帰るのも無理、よ!」
と、若い女性は昂る感情を鶴嘴に乗せて、会心の一撃を岩の壁に叩き込む。
\ガラガラガラガラ!/
岩が大きく崩れた。
若い男性は、鶴嘴を壁に立てかけ、岩の一つを拾い上げ、
「おっと希江ちゃんやるねぇ! しかもこのくっきりとした黒い筋、精製したらかなりの
と、希江ちゃん、と呼ぶ女性を褒め称える。
「もうそんなの見飽きたし、ぜーんぜんっ、嬉しくないわ!」
彼女は鶴嘴を捨て、地面にしゃがみ込む。
「おーい、折茂、和多島。そろそろ上がりの時間だぞ?」
と、二人と同じような格好をした中年男性が現れ、
「っておい……あれ見ろ」
と続け、目を丸くして、
パトリシアの方を指差した…
「えっ? 私? またここでも人気者?」
困惑するパトリシア。
金髪の青いエプロンの中年女性を見た、若い女性は、
「うそーっ! こんなところにっ、現代人!? 私たち、以外にも!? えーっ!!??」
と、絶叫する。
そう。
彼らは、海上保安庁第九管区海上保安本部の
〈第18話『帝王への険路』へ続く〉
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