第15話『黒い影』

__二〇二四年一月二十二日、深夜__


 アランは、パトリシアの車に乗って帰宅すると、アザレスと新川が、リビングの地べたに座って『インクレディブル・ハルク』と『アベンジャーズ』の二本の映画を立て続けに鑑賞するのに同席した。スバルとパトリシアは、『ハルク狂』と化した二人を、もはやいないものとして、新聞を読んだり家事をしながら、平素の日常に興じている。外が暗くなってからかなり時間が経つが、アランは、アザレスが、映画の登場キャラクター超人ハルクについての議論を、新川と互いに修羅のような顔をして繰り広げるのを、まじまじと観察していた。


 アランは、議論に熱が入る二人に割り入って、アザレスを呼びとめる。

「お姉さん、ちょっといい?」


「ええ、構わないわよ」

 アザレスは、瞬時に表情を和らげる。


 対し、依然険しい表情の新川はこう言う。

「『お姉さん』だって? おいおいアランくん、僕が君と最初に会った時は『おじさん』呼ばわりだったのに、アザレスさんには随分と待遇が違うじゃないか」


「チーフ、そう思わせた側にも責任があるよ?」

 アランの主張は、生意気にも聞こえるが、正論ではある。


「……」

 と、新川は言い返すことができない。

 そしてスマホを取り出し、内カメラモードにすると、画面に自身の姿を投影して観察する。

「ぐぬぬ……認めよう」

 ひるんで、一時退散する。


「で、アザレス・雨寺あまてらさんだよね? なんて呼んだらいいかな?」

 と、アランは子供独特の妙な距離感で、アザレスに尋ねる。


「何でもいいよ? 『アザレスさん』でも『雨寺さん』でも。変なのじゃなければ、ね」

 と、アザレスが寛容な姿勢を示すと……


「そう? じゃあ、『アズさん』って呼ぶね?」

 と、アランは風変わりな命名をした。


「『アズさん』? そのニックネームは初めてだわ。でも、気に入ったかも。素敵な名前をありがとう」

 と、アザレスは、アランのセンスを受け入れた模様。

 彼女は、端の方でつまらなそうにその会話に聞き耳を立てている新川に、気づいていない。


「ならよかった。ところでアズさん、前に僕と会ったことはない?」

 と、アランは単刀直入に尋ねる。

 アランの視線は、アザレスの着ている制服の、胸部上方に向いている。


「えっ!? なになに? アランくん、怖いこと言わないでよ。そんなことはないはずよ、あはははは」

 と、アザレスは、不自然に笑って誤魔化そうとする。


「そっか、なら人違いかな?」

 と、アランは、それ以上の詮索はしない。


 それに安心したアザレスは、無意識に壁掛け時計を確認する。

「……っていっけない! もうこんな時間だったの?」

 と、アザレスはわざとらしく大きめの声でそう言って、立ち上がる。


 そこに、畳んだ洗濯物を持って往復するパトリシアが通りがかる。

「あぁ、もう二十一時だったのね」

 と、パトリシアがボソリ。

 

「こんな制服姿で、つい人様の家に長居しちゃって、本当に申し訳ありません」

 と、アザレスは真っ白な制服の皺を伸ばしながら、謝罪する。


 パトリシアは、その謝罪を笑顔で受け止める。

「いいのよ。趣味友達も見つかったみたいで、何よりだわ」

 彼女の視線は、新川の方に向いている。


「いえ、彼は敵です、敵」

 と、アザレスは目を細めて、新川を睨みつける。


「何だって? アザレスさん、もう一度討論するかい?」

 と、血気盛んな新川。


 一方で。

「いえ。流石にこんな時間だから、もうおいとまします」

 と、冷静に断るアザレス。

「本当に、お騒がせしました。調査へのご協力も、ありがとうございました」

 彼女は、背筋をピシッと伸ばし、海上保安庁の人間に早変わりし、深々とお辞儀をする。


 アザレスが曲げた上体を起こしたところに、そばにいたアランが、スマホの画面を見せつけるようにして立つ。

「アズさん、気をつけて帰ってね。この後大雨が降りそうだから」

 画面には、雨雲レーダー。

 獅子ヶ鼻から沖へ四十キロメートルの海上の地図。

 向こう一時間の間に、白色から赤色に変わる雨雲の予測軌道が、繰り返し再生されていた。



●●●●●●●●●●●◯



__アザレス・雨寺訪問後の深夜__


 アランは、自室のベッド上に寝転がり、布団を被っているが、さっきから眠っては覚め、を繰り返している。


 なぜならば、窓の外、海の方角がやけに眩しいからだ。


 ここ獅子ヶ鼻には、家屋は前国家の一軒のみ。


 街灯もほとんどない。


 夜はいつも、真っ暗なのが普通だ。


 しかし、外が妙に明るい。


 間瀬まぜ漁港の漁師の漁船が放つ、漁火いさりびだろうか。


 そう信じて、アランは、何とか眠りについたのだが……



●●●●●●●●●●●◯



__翌朝、二〇二四年一月二十三日__


 アランはベッドから出て、やや寝不足気味で開くのが難しい目を擦りながら、ダイニングの方に向かう。


 スバルの部屋から聞こえてくるいびきをBGMに、廊下を歩く。


 スバルは、三日取った休暇の最終日なのである。

 

 ダイニングには、珍しくパトリシアの姿が見当たらなかった。


 壁掛け時計は、午前七時ちょうどを示している。


 今日は平日なので、この時間なら、パトリシアは朝食の用意や、家事をしているのが通例なのだが……


 アランは、ベランダに出てみる。


 物干し用のロープが、寂しく風に揺れるのみ。


 洗面所に行ってみる。


 洗濯機は回っていない。


 籠には、昨日アランが纏っていた衣類が雑に押し込まれている。


 トイレに駆ける。


 扉に鍵はかかっていない。


 開けると、もぬけの殻。


 風呂場に駆ける。


 扉を開けるも、やはりいない。


 そして大穴、自室で寝ているという可能性。


 母親という存在がずべからく早起きしていると考えるのは、なんとけしからぬ考えだろうか。


 アランは、パトリシアの部屋に向かい、ノックもせずに扉を勢いよく開ける。


 昨晩はあれだけ騒がしかったのだから、パトリシアと言えど、疲れで寝坊することだって……


 パトリシアは、そこにもいなかった。


「お母さんが、いない!!??」

 

 アランは、そう叫んだ。


 慌ててスバルの元へ飛んで行き、叩き起こす。


「お父さん! お父さん!」


 アランはスバルを揺さぶる。


「うん? なんだ、こんな朝早くから……」


 スバルは、アランの側に寝返りを打ち、涅槃像ねはんぞうのように片腕で顔を支えて、だらしなく横たわる。


「お母さんがいないんだよ! 家中探してもどこにも!」


 子の、必死の訴え。


「なっ、何??」

 と、『母』という言葉に反応して、飛び起きるスバル。


 そして、スバルは、アランが確認した場所をなぞるようにして、家中を駆ける。


\ダダダ/


「いない……」


\\ダダダダ!//


「いない…………」


\\\\ダダダダダ!!////


「いない……………………」


\\\\\\\\ダダダダダダ!!!!////////


「確かに、いなぁい!!!!」


 スバルの、咆哮ほうこう


「だから言ってるじゃん! 本当にいないんだって」

「おいアラン! 母さんが、パトリシアが家出するような前兆はあったか?」


 父親は、息子の両肩を激しく揺さぶる。


「ちょっ、痛いなぁ……なかったと思う。でも何となく、最近の異常事態の連続に関係がありそうではあるかも」

「なるほど。だが、こうもおかしなことが起こり過ぎるとだな……あぁ、わからん!」


 父は息子を揺さぶり続ける。


「その頭脳を使って推理してよ!」

 息子は、父の手を払いのける。


 二、三歩、退く父。


 父親は、完全に頭に血が昇っていて、今にも頭頂部から湯気を吹き出しそうだ。

「脳みそはそんな便利なものではない! おいアラン、もう一度聞くが、最近母さんに異変はなかったか? 何か変わったことを言っていなかったか?」

「うーん……。じゃあ、あれは? 母さんの、正月に見た初夢の話。一富士二鷹三茄子、ならぬ、一つの光り輝く山、一つの空飛ぶ何か、たくさんの茄子のようなの丸っこい何かってやつ」

「うむ、確かに不思議と父さんも似た夢を見た気がするが……やっぱりあれは、ただの夢じゃないか? それよりだな、父さんが思うに、昨日訪ねてきたエジプト人ハーフ、怪しくないだろうか? 会った矢先にパトリシアとハグしだすもんだから、警戒していたんだが」

「え、それは聞いてなかった」

「考えてもみろ、エジプト人と、イギリス人だぞ? 何か、思うところがあっても、おかしくないととは、思わんかね?」


 父は、息子の胸の上の方を人差し指でチクチク小突く。


「いたいいたいいたいっ……確かに。あ、待って、エジプトといえば、年末にお母さんがパピルスの手帳を見せてくれた時、父さんもあれに触れたよね?」

「ああ、そうだが。それがどうかした……そうだ! 何だか視界が一瞬白くなって、立ちくらみというか、頭がくらっとしたような気が。旅行終わりで疲れもあったのか知らんが」

「それ……僕もあったよ」

「本当か? 奇遇だな、そんなこともあるもんなんだなぁ」

「お父さん、妙なことが起きすぎて感覚が麻痺しちゃってるよ! 絶対に何か意味がありそうじゃない? 僕が見たのは、図形だったと思う。二等辺三角形と四角形……いや、四角錐かな?  それと、円? いや、球体だったかも……」

「おい待てアラン、パトリシアが見たと言っていたのは、光る山と、青いボールのようなものだったよな?」

「うん、そうだよ」


 スバルは、何かを感じ取った様子。


「そう、か。よし、父さんは今日まで休みだから、一日使って母さんを、パトリシアを探す! アランは、心配だろうが、一旦学校に行ってくれ。何かわかったことがあったら連絡する。じゃあ、早速行ってくる!」


 彼は慌てて玄関の方向に走ろうとする。


 が、アランが、スバルの手を捕まえて引き止める。

「お父さん待って待って! 僕の登下校はどうするの? お母さんいないよ?」

 

 息子は、冷静さを欠いてはいない。


「あぁ! そ、そうだったな。車は無くなってないよな? 母さんのアストンマーチン。お父さんが送ってもいいが……」

「あ、チーフに頼む? どうせ暇なんじゃない?」

「アラン、名案だ! さすが前国スバルの息子! そうしよう! じゃあ行ってくる!」


 彼は再び玄関を目指す。


 が、やはりアランが呼び止める。

「ちょっとちょっとお父さん! もしチーフが都合悪かったらどうするのさ?」

「知らぁーん! パァトリシアを! すぁがすのが、すぅあい優先事項だ!! ではな!」


\\\\\\\\ダダダダダダダ!!!!!////////


 スバルはボサボサの頭のまま、歯もみがかず、服も着替えず、朝一回目のトイレにも行かず、車の鍵だけを持って、出て行った。


「はぁ……妻思いなのはいいけど、息子のことも頼むよぉ」


 その直後、アランは新川に電話してすぐに飛んできてもらい、学校へ向かった。



●●●●●●●●●●●◯



__新潟県立まき高等学校にて__


 一限。


 数学の授業。


\シャーッ、シャーッ/

 深い緑のキャンバスに、大きな白い十字。


\シューーーーーーーッ/

 少々いびつだが、おそらくそれは真円しんえん


\カッカッ、カッカッ、カッ、カッ……/


 と、チョークの白い粉で、文字が引かれていく音。


 アランは、板書も写さずに、数学教師である磯丸球児いそまるきゅうじのツルツルの禿頭はげあたまを、ただただ凝視している。


「球体の体積の公式、中学で習ったと思うが、みんな覚えてるか? 誰かに答えてもらおうかな……」

 と、磯丸は教室の席に着くやる気のなさそうな生徒たちを見渡す。

「じゃあ前国、記憶力のいいお前なら覚えてるだろ、言ってみろ」

 彼は、チョークを持つ手の小指で、スバルを指名した。


「身の上に心配あーる三乗……」

 と、ぶっきらぼうに答えるアラン。


「そう! 『4/3πr^3』だな。でだ、今日は、みんなで球の体積の公式を証明してみようと思う。積分を使ったオーソドックスな方法なんだが、今回は、球を半円の回転体として考えた場合の証明だ。まず、前提知識だが、原点を中心とした半径rの円の方程式が、『x^2+y^2=r^2』となることは、わかるよな?」

 と、磯丸は再び教室全体を見渡す。

 

 ざわつく生徒たち。

 

 彼らは、小言を漏らし始める。

「えー、そやっけ?」

「磯丸先生、前国基準で授業進めちゃダメだって〜」

「それな、わたしらにも合わせて欲しいわ〜」

禿同はげどうだわぁ」

「おい、誰だ今ハゲって言ったヤツ?  磯丸先生の前でやめとけって」


「「「「アハハハハハ!!!!」」」」

 良くない、笑いの取り方。


「おいおい、みんな頼むぜ? そんなことから説明しなきゃならないのか? 日が暮れちまうぞ?」

 と、磯丸は嘆く。


 アランは、教室でのそんなやりとりはそっちのけで、黒板に描かれた不完全な円と、数学教師磯丸球児の頭を交互に見ていると……


 換気のために開かれた窓から、ひゅうっと、風が吹き込む。


 風が、アランの数学のプリントをさらう。


 あまり文字の書き込まれてないその紙は、ひらひらと舞い、着地する。


 窓からは、昨夜の大雨のせいか、やけに澄んだ空気が、朝の日差しと共に流れ込み続けていた。



●●●●●●●●●●●◯



__その日の学校終わり__


 アランは今下校途中で、新川の運転する、パトリシアの愛車アストンマーチンの後部座席に座っている。静かな車内に、ノイズ混じりのカーラジオの音が流れているが、断続的に、長めの無音状態に入るので、放送内容は全く頭に入ってこない。


「アランくん、大変なことになったね」

 と、新川がボソリ。


 窓の外をぼーっと眺めるアラン。

「そうだね」

 彼は、心ここに在らず、と言った様子。


「見て、これ」

 と、新川は、後部座席にノールックで、クシャっとなった一枚の紙を差し出す。


「何、その紙?」


「置き手紙」


「え、もしかしてお父さんの?」


「そう」


 アランは、手紙をそっと受け取ると、読み上げ始める。


「えーっと、なになに……『新川へ。パトリシアの捜索は長引きそうだ。だから、すまないが、しばらくアランのことを頼む。危険な橋を渡るかもしれないから、俺の尻尾を掴んでも、決して追わないでくれ。いいな? 決して、だぞ? そしてアラン。何があっても父さんは母さんを連れて、生きて戻る。お前は何も考えなくていいから、今は勉強に励みなさい』だってさ。もうめちゃくちゃだよ! 無理だってそんなの。両親が失踪して、カリカリ勉強できる呑気な高校生なんていないよぉ!」

 と、嘆くアラン。

 そして彼は、手紙を投げ捨てる。


「そうだねぇ……本当に、ここのところ、どうなってるんだか、世の中は。でも大丈夫、先生からの手紙の通り、アランくんの身の安全は、僕が保障するからさ!」

 と、新川は友好の証の左拳を、後部座席の方へ突き出すが……


 アランはそれに拳で返さない。

「ねぇチーフ、僕はチーフのことは良い人だと思ってるけど、子守りされるのはちょっと……」

 代わりに、そう率直に打ち明ける。


「いいや、必ず先生の言う通りにするね、僕は」

 と、食い下がる新川。

 

「だって、いつまでこの状態か、わからないよ? それにチーフは二月に入ったら、仕事に戻るんじゃないの?」

 アランは、お得意の冷静な指摘を、新川にぶつける。


「まぁそうだけど、恩師の息子を放っておくわけにも……」


「いいって。チーフじゃなくても、間瀬まぜ漁港の漁師の人たちが見てくれだろうし、日野原さんとか」


「いや、僕が引き受けるよ。いや、引き受けさせてくれ。将来有望な高校生の両親がいないなんていう、だ。恩師のご子息の、


 新川の発言の一部が、アランの耳に引っかかり……

「何、ダジャレ?」

 と、アランが返すも……


「いや、違うけど、どういうことだい?」

 と、無意識な発言だったようで、新川にはアランの指摘の真意が伝わらない。


「あ、ごめん、やっぱり何でもないや、気にしないで」


「そっか、まぁいいや。で、僕が当分アランくんの面倒を見る、それでいいね? いや、むしろお願いだ。僕の話し相手になってくれ、前途有望な少年に、今のうちから投資しておきたいんだ。打算的な話だけどね」

 と、新川の辞書に、撤退の文字は無い様子。


「わかったわかった、お願いしますぅー、そうしましょー。もう、チーフのしつこさには折れるよ」

 

 ついに、新川による、アランの子守法案が可決された。


「いやぁ、飛び込み営業時代の経験がここで生かされるとは、古野電気に就職してよかった!」

 新川は喜びのあまり、一瞬ハンドルを離して、両腕を車内の天井に突き上げる。


「チーフが飛び込み営業? 技術畑の人が? あんまり、想像できないなぁ」


「おい、そこそこ営業成績は良かったんだぞ?」


「どんな風に?」


「お、興味を持ってくれるとは。なら話してさしあげよう、むかしむかし、新川元気は……」


〈第十六話『或る手記②プトレマイオス朝の大震撼』に続く〉

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