第4話『大神官デザト』
__ロゼッタの悲劇から約半世紀後、一八四八年__
八十三歳になっていたジョセフ・バイロン男爵は、体が弱り、外出することが減って、部屋に
当時にしては、極めて長寿の部類だったが、あまりの
しかし、頑固な彼はいつも、放っておけと、跳ね
いつものように館から一歩も出なかったある日の夜、彼は不思議な夢を見た。
「……えるか」
誰か、遠くからの声。姿は見えない。
「手記を持つものよ。わたくしの声が、聞こえるか」
バイロン
「誰だ? 私の頭の中に入り込んだのは?」
「わたくしの名は、デザト。エジプトの人間は皆わたくしのことを、
大神官。神と民を繋ぐ
「神官だって? 細かいことは知らないが、古代エジプトの人と、会話ができるなんて、夢のようだ。これはどういう方法で意思疎通しているのか? 私は英国の正統な英語以外は話せないのに。いや、夢だから可能なのか」
と、バイロン卿は神官という未知の存在に対し、興味が湧きつつも少々混乱している様子。
「いいや、夢でも、現実でもない。ただ、
と、デザトの物言いは、矛盾しているように聞こえるが、実際、今バイロン卿が体験していることは、不明瞭なのである。
「なんでもいいが、こうも急に前触れもなく……要件は何なんだ?」
「
と、デザトはひどく簡潔に返答する。
「はぁ、私に? 一体何を? 誰からの?」
と、バイロン卿は、大神官相手に、素っ
「まぁ、ゆっくり聞け。そなたは気高くも、我がエジプトの民を、蛮人の理不尽な行いに対し不服従を貫き、儚くもしかし尊く散った民に、真っ先に駆けつけ、手厚く埋葬してやった」
バイロン卿はそれを聞いて、半世紀前へと、記憶のダイヤルを回す。
頭に浮かんだのは、ロゼッタの地に、
「……ああ、そんなことも、あったよ」
と、バイロン卿はゆっくりと、その記憶を過去から取り出して、
「そなたが抱きかかえてやった男の持っていた、手記を覚えているか?」
今度はそれを、瞬時に、鮮明に思い出す。
「パピルスの手帳のことだな。もちろんだとも、大事にしまってあるさ。周囲のエジプト人に、どうしてもとっておけと言われたものでね」
と、誇らしげなバイロン卿。
「わたくしの声が聞こえるのは、それのおかげだ」
「なるほど。そういうわけで、これが単なる夢でないということが、わかるわけだ」
と、バイロン卿は、この捉えどころの無い現象を、受け入れた様子。
「そうだ。それで、わたくしは、そなたにひとつ礼をするように、
「顕現神王、ひょっとして、プトレマイオス五世のことか? かの、ロゼッタストーンの」
「そう気安く王の名を口にするでない」
「あぁそうかい。で、王様直々の命令とやらは、どんなものなんだ?」
「西の大陸の西の海沿いに向かえ」
「はぁ……西ねぇ。西も西。西ときたか」
バイロン卿は、あまり乗り気でないようだ。
「わかるか?」
「わかるにはわかるが、あそこは、汗臭い
と、話し相手が同じ高身分なのをいいことに、貴族の悪い部分を出してしまうバイロン卿。
「手記にそなたの向かうべき場所を記した。そこに礼の品がある。好きにするがいい」
と、デザトは、バイロン卿の
「いや、ちょっと待て。好きにさせてくれるのはいいが、何があるかもわからずに、印のあたりを
と、バイロン卿は大神官デザトに
「そなたは誰かに声をかける。誰に声をかけるべきか、向かえば、わかる。必ずだ」
「はぁ、勅命とやらは、ひどく
「では、あとは手記を見て、好きにするがいい……」
デザトの声が遠のいていく。
バイロン卿は、こんな過去の人物と会える機会など早々にないと、何か他に聞けることがないか、考えを巡らせる。すると、手帳に妙なメモ書きがあったのを思い出した。
「そうだ、大神官デザト! パピルスの手帳にあった『ロゼッタストーンの双子石』とは何のことなんだ?」
「ん? 双子石、か。そなたは、それを知っているはずだ」
「知っているはず? それは、私が耳にしたことのあるものなのか?」
「もちろん、そうだろう。そなただけでなく、おそらく誰しもが」
「では、私が見たことがあるものでもあるのか?」
「……」
返事がない。
「なぜ答えない?」
「……そなたの状況による。その姿の全容を、見たことがあるかもしれないし、見たことがないかもしれない」
「誰もが知っているのに見たことがない? それは見えないものなのか?」
「そなたの立場による」
「返事がさっきとほとんど変わらないじゃないか! おい、もっと具体的に教えてくれないのか!」
「そなたがするにしては、早すぎる質問だったようだ、諦めろ。ではな」
大神官デザトは、今度こそ、バイロン卿の頭の中から、消えた。
そしてバイロン卿は、
***
まだ月明かりが目立つ空。
バイロン卿は、昨日までの、館という
皆、彼の
ある高級使用人は、バイロン卿にこう問うた。
「なぜ何もない、アメリカの西海岸へ向かうのです? 泥臭い仕事は
「なぜって? そうしたいから行くのだよ」
バイロン卿は、かつてロゼッタの地で、青いターバンの男が残虐非道な侵略者の暴力に倒れた時に、すぐさま駆け寄って抱いてやったように、何かに突き動かされるようにして、カリフォルニアに向かうのであった。
____数週間後、アメリカ西海岸カリフォルニア____
バイロン卿は、付き人も、案内人もつけずに、一人でこの地にやってきた。
唯一の頼みの
そこで、彼はアメリカン・リバーのほとりで一休みすることにした。
すると、彼のそばを、一人の少女が通りかかった。
混じり気のないブロンドのミディアムヘアーが、青いターバンから、湧き出るように
また彼女は、その年齢にしては顔の陰影がはっきりしており、耳には、
この子だ。と、バイロン卿は直感で
「ちょっとそこのお嬢さん。頼みがあるんだが、年寄りの探し物に付き合ってくれないだろうか」
と、少女に声をかけ、謙虚に
すると、少女は返事はせずに、駆け寄ってきて、バイロン卿の目の前に立ち止まる。
目をくりくりとさせながら、首を傾げる彼女。
「ええっと、これなんだ。私はここに行きたいんだがね……」
パピルスの手帳の、大神官デザトから見るように促された地図のページを開き、少女に見せる。
少女は、そのひらひらとした一枚のページを、小さな手で
次の瞬間、驚いたことに、彼女はそれをびりっともぎ取ると、背を向けて
バイロン卿は、追いかける体力と筋力もなければ、その気すら起こらなかった。
が、何かが起きるだろうという、明確な根拠のない、自信だけはあった。
彼女の走って行った方向には、ひとつの大きな水車があった。
少女は水車の前で立ち止まると、そばにいた男に、破り取ったパピルスを示した。
その男の名は、ジェームズ・マーシャル。
彼は、アメリカン・リバーの水車の下に砂金を見つけ、カリフォルニア・ゴールドラッシュのきっかけとなった、張本人だった。
〈五話へつづく〉
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