懸ける思いは


「うお! なんだ!? 目を開けたら私の下に悠が!?」


「なぜこんなところに……?」


「――ああぁああ完全に思い出した! やばい事案じゃないかコレ!? 教師が夜な夜な生徒を家に上げる……」


「社会的に殺されかねん! ……服がはだけてない所を見るに最悪は免れたようだが」


「ううむ。いつまでも床で寝させてはいかんな。とりあえずベッドに運ぶか」


「はぁ……頭痛い。二日酔いに効く薬どこやったっけ……?」


 ◆


 カタカタカタと音が聞こえる。

 その音で目が覚めた。目が覚めてまず最初に気づいたのは、自分が固い床下ではなく温もりあるベッドの上にいるということだ。


 むくりと起き上がって辺りを見渡してみると、直ぐ傍にある電子ピアノの前に瀬戸先生がいた。簡易椅子に座って、ヘッドホンを被っている。あのカタカタという音は、電子ピアノを弾いている音だったのだ。


 瀬戸先生はまだこちらに気づいていないようだ。

 カタカタカタ。カタカタカタ。澱みなく続くその音は、しかし規則的ではない。

 楽譜を展開していないから正確ではないが──しかしこのリズミカルな音と、指の配置的に考えて。


「カノン──」


 ハッヘルベルのカノン。皆さんご存知の、あの一度は聞いたことある曲だ。

 ピアノ初心者から上級者まで、皆に愛されている楽譜と言ってもいい。

 ピアノを弾いている先生の表情はこちらからでは伺えないが、きっと良い顔をしているのだろう。出来れば俺も聞いてみたいところだったが、このカタカタとスカしたような音も案外耳障りがいい。


 そうしてたっぷり聴き終えたところで、先生が徐に後ろを振り返って俺の方を見た。


「おはよう──悠」


「ええ。おはようございます先生」


 瀬戸先生の表情は昨日よりかはだいぶ良くなっていた。

 あの酔い様だったから二日酔いが心配だったが、どうやら相当良い薬を持っていたらしい。


「いやはや昨日は迷惑を掛けたな。すまない」


「いえいえそんな。──ちょうど俺も先生に用があったんで」


 狭い部屋の中、俺は先生から一杯のお茶と朝食がわりの目玉焼きとトースト一枚を渡される。時計を見ればもう朝の十時だった。

 どうやら先に起きていたのだろう、服装が少しだけラフなものに変わっていた。その分、余計に胸元が目立つので、相変わらず目のやり場には困ってしまうのだが。


「先生──俺、もう一度ピアノをやり始めようかと思ってます」


 目玉焼きをトーストの上にのせて、黄身をこぼさないように丁寧に素早く口に含む。

 なまじ夜を食べてなかったからか、余計に美味しく感じる。


「……っ。本当か、それは私としても嬉しいな」


 先生はうむ、と本当にうれしそうな表情でうなずいた。


「それで……俺、あと二日で仕上げたい曲があって。少し楽譜をお借りしたいなと」


 俺はその楽譜を持っていない。

 昨日の練習で指の扱い方はだいぶ慣れた。だからこの二日でその曲を仕上げてしまいたい。

 結構有名な曲だから、先生ならば持っているかも──というのが、俺の目論みもとい想定なのだが、果たしてどうか。(ちなみに元々は結衣に頼る予定だった)


「曲名は?」


「詩人のハープです。メンデルスゾーンの」


「ああそれなら勿論ある。それは別に構わないが──待て、確かその曲は」


「ええ、はい。……でも、どうしても弾かなきゃいけないんです」


 天音と、そして俺のためにも。この曲は必要なんだ。

 先生はしばらく黙り込んで、続けて分かったと言って、棚の奥底から楽譜を取り出した。


「君に何があったかは聞かないでおこう。君がこの曲を弾くというなら、その熱意は、覚悟は本物なんだろう」


 流石は音楽の先生──新品同様の綺麗な状態に舌を巻きながら、それを仰々しく受け取る。パラパラと捲ってみるが、良し、今でも大体の箇所は分かるぞ。


「悠。今日は何か用事あるか?」


「いえ……ありませんけど」


 俺の答えに、先生はそうかと


「それならここで弾いていかないか? なに、設備は皆無とはいえ、ここに私という最大のアドバイザーがいるからな。二日までとは言わせない──。五時間で一先ずは『聴き苦しくならないような演奏』にしてやる」


 五、五時間……この四分近い曲を五時間で、しかも聴き苦しくならないようにだと……? ほぼ無茶だ。だけど、二日で弾けるようにならなければいけない俺にとっては好都合。


「ただし。私の個人レッスンは厳しいぞ?」


 にやりと笑う瀬戸先生に、俺は頭を下げながらお願いする。


「お願いします! 俺にピアノを教えて下さい!」


 ◆


 TAKE 1


「楽譜をよく見ろ。フォルテやピアノは無視しても良い。なぞる様に弾け」


 TAKE 2


「集中力を切らすな。間違えても良いから最後まで弾き続けろ」


 TAKE3


「次は途切れることなく弾いてみろ。途切れてしまったらその箇所を何度も往復するんだ」


 TAKE12


「良し、だいぶマシになったな。それじゃあ次は楽譜を見ないで弾いてみようか」


 TAKE13


「脳で理解しようとするな体で覚えろ。何度も反復練習だ。ほら、もう一回」


 TAKE14,TAKE15,TAKE16,TAKE17,TAKE18,TAKE20,TAKE21,TAKE22,TAKE23,TAKE24,TAKE25,TAKE26,TAKE27,TAKE28,TAKE29,TAKE30,TAKE31,TAKE32,TAKE33,TAKE34,TAKE35,TAKE36,TAKE37,TAKE38,TAKE39,TAKE40──。


「はぁ、はぁ、はぁ」


 鼻呼吸では足りなくなった酸素を求めて口を開けて呼吸する。

 休むことなく反復運動。何度も最初から最後まで弾いて、間違えればその箇所を何十回も往復する。


 ピアノは音量を最小限にしてやっている。だがそれが逆にカタカタという音を助長してしまい、本来のピアノの音は集中しなければ聴き取れないようになってしまった。


「……ッ」


 キツい、苦しい。指が攣ってしまいそうだ。

 汗が浮き出て、もう指を止めてしまいたい気持ちが延々と付き纏ってくる。


 既に時刻は三時間を超えている。残り時間タイムリミットまであと二時間。だけどその三時間で、俺はひとまず弾けるようになった。何もできない状態から、楽譜を見ずにある程度まで弾きこなせるようになった。


 だけど──それではまだ足りない。


「そこまで。少し休憩を──」


「何言ってるんですか。ここからですよここから」


 せっかく先生と出会えたんだ。この幸運を、この機会チャンスを逃してはいけない。

 先生の指導は的確で、それでいて理不尽なほどにスパルタだ。

 俺以外の生徒だったらとっくのとうに諦めているだろう。泣いてしまっているのだろう。今だって俺の心の中には諦めたい自分がいるし、人目も憚らず泣いてしまいたい自分もいる。


 ──だけど、そうしている間にもどんどんと天音は先に進んでしまう。


 諦めていたら、泣いている暇があるならその時間を少しでもピアノに費やしたい。

 今度は俺が追いかける番だ。今度は俺が──走り出すんだ。

 普通にピアノをやっていては永遠に天音には届かない。

 だけど、今あるこの時間を全てピアノに捧げれば、彼女に手が届く位置にまで来ることは可能だ。


「君は凄いな」


 後ろからぼそりと先生の声が聞こえた。

 だけどあまりにも小さかったので、うまく聞き取れない。

 出来るなら、今だけはピアノの音以外に耳を傾けたくはない。

 意識を、割きたくない。


 そんな俺の我儘を、熱意を汲み取ってくれたのか、先生は弾き終えた俺の肩に手を置いて口を開いた。


「OK、そこまで魅せてくれるなら延長ボーナス三時間だ! それで君の理想する演奏まで近づける!」


 まだまだピアノは終わらない。そこに懸ける思いを見つけるまでは。












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