心理掌握のピアニスト


 ……しかし俺がどれだけ探しても、その結衣という人物は見つからなかった。

 当たり前だろう。そもそも登校義務がない特待クラスの女子なのだ。

 もとより後輩との繋がりが皆無な俺に、そんな子を探し当てる芸当は出来ない。


 最終手段としては、瀬戸先生に頼んで直々に向こうから来てもらうしかないのだが、多分あの人に出会ったらまた小言の一つや二つを言われるかもしれない。そう思うと自然と職員室から足を引いてしまうのは自然の道理というわけで。


 そんなこんなで昼休みの時間が終わり、そのままあっという間に放課後となってしまった。


 瀬戸先生は何やら急いでいるらしく、帰りのHRが終わると珍しく俺には何も言わないまま、そそくさと教室から出て行ってしまった。


「悠ーこのあとカラオケでも行かね?」

 

「悪い、ちょっと用事があるから今日はパスで」


 今日は借りた本の返却日だ。

 本来であれば昼休みの間に返したかったのだが、前述の通り時間が潰れてしまったのだ。

 他の友達とカラオケへと行く圭を少し見送って、俺は図書室で本を返した。


「あれ、何かBGMでも掛けたりしてます?」


 微かに聞こえるピアノの音に、俺は返却した本を棚に戻している仏頂面の司書さんに聞いてみた。しかし司書さんは困った表情を浮かべていいえとそう否定する。


「音楽室の方だよな……」


 少し気になった俺は、図書室から出てその足を音楽室の方へと運んだ。

 長くもあり短い廊下。

 徐々にその場所へと近づくにつれて、俺にはその曲がわかった。


(ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58……)


 ベートーヴェン作の協奏曲だ。

 俺も以前弾いたことがある。

 軽やかな曲調であり、しかし心の奥底から痺れるような、そんな熱さを覚える曲だ。


 音楽室の前にたどり着く。重い鉄製の扉で阻まれたその先からは、確かにピアノの音が響いていた。


「凄いな……」


 それにしても凄い……凄いというか、もはや凄まじい。鉄製の重い扉が、最新の防音設備がこの音楽室を囲っているのに、それでも尚こんなにもハッキリ聞こえるとは。

 しかもただ強めに弾いているのではない。まるで耳を突き刺すような音だ。

 もしもこれを無意識下でやっているのだとすれば、とんだジャジャ馬ピアニストだろう。


 だが聴衆を惹きつける魔力を持っているのは確かだ。

 無理やりこじ開けて、曲を聞けと、まるで聴くものの尻を引っ叩いて行儀良く座らせるような雰囲気さえある。


 俺はほぼ無意識のうちに、その扉を開けてしまった。

 教室の倍ほどある音楽室は、ピアノが置かれてある舞台から波紋状に段差になっている形状だ。その黒板のすぐ前には黒色のグランドピアノが一台あり、その周りには誰もいなかった。


否──一人だけ、たった一人だけいた。


「――――」


 そこには、少女だけがいた。

 黒髪をハーフツインテにした、眉目秀麗な美少女だった。

 彼女はピアノに集中しているのか、教室を覗いている俺に気づかない。


 そのまま時間は流れていって、曲はついにカデンツァに差し掛かった。

 カデンツァとは無伴奏のアドリブである。

 それこそがそのピアニストの力量を試す場だと俺は認知している。

 だがカデンツァは、古典派とも呼ばれるベートーヴェンやモーツァルトとは相性が悪い。


 演奏者の独断を許さない作曲者の、そんな強い支配力があるのだ。

 中にはカデンツァを作り付けにして、演奏者を束縛する曲まである。

 初期ロマン派では演奏者と聴衆との自由な交流を尊重しようという考えで、カデンツァは再び書かれなくなったが、そういう時代背景があるからこそ、カデンツァとは良くも悪くも演奏者の技量次第で化ける。


「――な」


 何度も言ったが、古典派の作曲者たちは基本的にカデンツァを良しとは思わない。

 いや、そもそも時代的にはあまりそぐわないのだ。

 貴族全盛の時代、作曲者たちは貴族のためにピアノを弾き、そこでお金や地位を手に入れてきた。


 だから自分たちの作った曲だから、演奏者の気分一つで台無しにも出来るカデンツァは、彼らにとっても悩みの種だった違いない。


 それにベートーヴェンは、カデンツァが挿入されるべき進行で独奏者が勝手にカデンツァを披露するのを禁止した、最初の作曲者だとも言われているのだ。


(詳しく述べると、古典派のカデンツァの楽譜には、主和音の第2転回形から属和音の進行に於いて、その間を独奏者が即興的に、華麗に弾くというものだが、予めカデンツァを書き上げることで、それ以外の自由カデンツァを消したということだ)


 もちろんこの作品はベートーヴェン作で、そんなカデンツァを禁止するような事は無いのだが、それでもどうしても萎縮してしまうのがピアニストの性というべきか。


 だからこそ、俺は彼女の弾くカデンツァに度肝を抜かされてしまった。

 まるで嵐だった。束縛という呪いから解放された獅子のように、彼女は自由だった。


(だからこそ――残念だ)


 そうして第三楽章が終わり、弾きおわった彼女はその指を鍵盤から離し、ゆっくりと息を吐いた。


「……それで、さっきからそこで黙って聞いているあなたは誰ですか」


 咄嗟に扉の影に隠れたが、結局バレるのも時間の問題だと思った俺は、おずおずといった感じで音楽室の中に入る。

 久しぶりに感じるこの空気感は、少しだけ苦手だ。

 緊張感が刺激される。楽器を保護しているカバーの、ちょっとした油の匂いが、仕舞い込んだはずの記憶を刺激してくる。


「ごめん。隠れていたつもりは無かったんだ。邪魔しちゃ悪いかなと思ってさ」


 彼女は立ち上がって、ゆっくりと背伸びをし始めた。

 それによって、僅かに大きな胸がシャツの張りによって強調される。

 俺は視線を胸の方に集中した。


「……変態ですか」


 冷ややかな目が送られる。

 いや、違うのだ。胸の方に視線を寄せたのは、ただお前の学年を知りたかっただけであって、よこしまな気持ちなどは一切ない。


 如月学園はネクタイの色で学年を判別できるようになっている。

 一年時が赤色で、二年時が緑。三年は青色だ。

 そして彼女は赤色のネクタイを着けいた。どうやら一年生のようだ。


「先輩……てことですね」


 その紫紺の瞳が、俺の青色のネクタイを映す。


「私の名前は結衣。折月結衣おりつきゆいです」


 ぺこりとそう自己紹介する少女。


「結衣? それじゃあまさか、君があの?」


「あの……とは?」


 きょとんとした顔を浮かべる。が、僕の顔を見てなにかに気づいたのだろう、表情を固くさせて、互いに次の言葉を聞くのを待っていた。


「お、なんだ悠もいるのか」


 静寂を破ったのは、ドアを開けて中に入ってきた一人の女性の言葉だった。

 赤色の髪にグラスマスなボディ。――瀬戸先生だ。


「珍しいなお前が自発的に音楽室に来るとは。ピアノの補修でも受けたくなったか?」


「別に用事があってきたわけじゃ無いですよ。たまたまここを通っていたら、ピアノの音が聞こえて」


 誘われたとでも言った方がいいのか、だけどそれを言うと何だか少しだけ気恥ずかしくなってしまう。


「八柳……悠」


 結衣が小さくそう言う。彼女の顔は少し下に向いていて、垂れた前髪でよく表情が見えない。


「彼女は折月結衣。今年からここに入学した特待クラスの子だよ。ピアノコンクールの常連で、一昨年からは優勝も果たしている」


「ちょっとしたコンクールですから、知らないですよ……ね、先輩」


 なるほど……つまりこの子は、ピアノの特待生ということになる。

 だけど俺は彼女の名前を知らなかった。

 結衣は少し自虐的に言うが、そもそもとして俺は彼女の存在自体知らなかった。

 いや、当然というべきか。俺はあの日からピアノに関わる全てを断ち切ってきた。

 当然天音のその後を知らないし、その後のコンクールに出場したピアニストを一々覚えるわけがない。


「さあ、練習ウォーミングアップは終わりだ。もう一度今の曲を弾いてみろ。ちょうど観客もいるしな」


 瀬戸先生の言葉に、顔を上げた結衣はコクリと頷く。

 俺の横を通った彼女は、俺の方をちらと見た。

 先ほどまでとは雰囲気が違う、まるで真剣味を帯びたその目つきに、俺の心がドクンと高鳴る。


「というか先生、なんで俺も……」


「お前も彼女のピアノに引き寄せられてここに来たんだろ? ならちょっと聞いて見ないか。さすがに他人のピアノを聴くぐらいならお前だって苦ではないだろう?」


「別にそこまで重度って訳じゃないですよ。俺はあいつのピアノさえ聴かなければ……まあ、一曲ぐらいなら」


 脳裏に天音の姿が過ってしまう。

 そういえば彼女は今何をしているのだろうか。

 ご飯を作る用意していなかったが、まあ一応はお金も置いておいた。

 流石にもう一人で出来るだろう……出来ると、そう信じたい。


「よし。良かったな結衣! 憧れの先輩が聴いて来れるってさ!」


 圧を掛けるように、そう瀬戸先生が結衣に呼びかけた。

 結衣はそれに反応せず、少しピアノの鍵盤を吹くとストンと椅子に座った。

 先生が照明を消し、明るい暖色系のスポットライトが彼女を、ピアノを照らす。


「憧れの先輩って、どういう意味ですか」


「後で彼女自身に聞けばいいさ」


 多くは語らない瀬戸先生に、俺は何のこっちゃと、訳の分からぬまま席に座る。

 横の席に先生も座り、足を組んで背もたれに背を預けていた。

 授業では絶対に見せない姿。その目からは話しかけるなと言っているようでもあった。


 本当に聴く体勢に入っている。

 俺も先生に見習って、少しネクタイを緩めて背もたれに少しだけ背を預けた。

 音楽なんてこうして気軽に聞くのが一番楽しめるもんだ。俺は目の前で息を吸って、吐いて、少し右手を眺めている結衣の姿を見ていた。やがて彼女は目を閉じて、一呼吸をしたのちに指を鍵盤へと這わせる。


 そして――彼女の演奏が始まった。



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