私の先生になってくれませんか?


 結衣が演奏した曲は先ほどと同じだった。

 たっぷりと三十分弱弾き続けて、やがてそれらを終えた彼女の額からは少しの満足感と、疲労が伺えた。


 わかる。暖色系のスポットライトは熱が籠っているから少し暑いんだよな。

 額に浮かべた汗を拭う彼女に、俺と瀬戸先生は拍手を送る。


「素晴らしい演奏だった。久しぶりに私も弾きたくなってきちゃったよ」


 チラリと俺を見て瀬戸先生が言う。

 いや、だからやらないってば。

 この調子で『よし、じゃあ悠も弾いてみるか』と言われたら帰るからな。


 だけどそれ以上のことは言わずに、先生は結衣の元へと近づいて、細かな改善点を口頭で伝えていた。

 そこは流石教育者というべきか、それともピアニストとしてなのか分からないが、俺がそこまで気にしていなかった箇所を指摘していた。結衣はそれを真面目そうに聞き頷いて、訂正箇所を軽く弾く。


 それにしても──。


「体力すごいな」


 本来三十分ぐらい掛かる曲を、恐らく先生がいなくなった後もずっと弾いていたのだろう。あの細い食指が一時間も動き続けていたと考えると、彼女のピアノに対する想いがこちら側にも伝わってくるようだった。


「お前はどう思った? 悠」


「俺の意見なんて宛になるんすかね」


 卑屈に言っているつもりはない。

 それほどまでに、瀬戸先生がほぼ全てを伝えていたからだ。

 本人の為とはいえ、妥協を許さない先生は、殆ど俺が感じた『ちょっとしたミス』を全て結衣にぶちまけていた。


「今は一人でも耳のいい奴の意見が欲しいんだ。この際感想でもなんでも良いから、何か気になるところがあれば容赦なく言ってやってくれないか」


 瀬戸先生の物言いから察するに、彼女にはコンクールが控えているのだろう。

 それもすぐに。結衣は少し険しい表情で俺を見つめていた。

 頭を少し掻きながら、俺は記憶を辿って結衣に言った。


「カデンツァは良かったよ。そこに関しては変更する必要はないと俺は思う。運びに関しては、少し手が震えてるからか若干左の方が弱く聞こえたな。んでも本当に若干。全然気にすることはないと思うし、そのくらいで失点はされないと思うよ」


「ふむ……カデンツァに関しては私も同意見だ。彼女の個性がよく現れている」


「あと、ちゃんとピアノの調律した方がいいっすよ先生──1オクターブ目の『ミ』が少し変です。弦が少しゆるんでいるんじゃないんですか?」


 その言葉に、瀬戸先生は訝しむような表情を浮かべた。

 ん? と続けて先生は失礼とピアノの鍵盤に触れて、ミの鍵盤を押し込んだ。

 ぽろんと軽やかに響く音色。


「私にはあまりそうは聞こえんな。いたって普通の音階に聞こえる」


 同意を求めるかのように瀬戸先生は結衣に視線を送る。

 だが結衣は黙ったままで、そして「どうしてそう思ったのですか」と俺に聞いてきた。


「思うも何も、そうだからだ」


「……まあどれ、そんなに言うなら少し見てみるか」


 蓋を開けた先生が、その問題の音階の弦を見る。

 調律の免許でも持っていたのだろうか、それとも長年やってきたからか見ただけで異常が分かるのか、少なくとも俺の言っていることが真実だとわかったらしい、表情を固くさせた先生は、俺の方に向き直る。


「僅かにだが、確かに緩んでいる。この音楽室は昼休みの間も開放されているからな、私たち以外の誰かがこのピアノで演奏して、そこで少しこの弦がおかしくなったのだろう。……薄々勘付いてはいたが、君は『絶対音感』の持ち主かい?」


 蓋を元に戻してそう俺に質問した先生に、俺は違いますよという。

 俺には絶対音感だなんて、そんな恵まれた才能を持ってるはずがない。

 ただピアノには規定音がある。定められた音階がある。当たり前のことだけど。


 だから先ほどの結衣の演奏も、そのことが気になっていたから残念だと思った。


 調律されたピアノであれば、もっと輝けたはずなのに──


「先輩!」


「おわっ!?」


 気づけば俺の元まで駆け寄った結衣が、その手で俺の両手を挟んだ。

 温かい手だった。程よく整えられた爪にはネイルなどの装飾はされていない。


 よほど大事にしているのだろう、白い手には傷一つ付いていなかった。

 だから反対に、俺の少しゴツゴツして強張った手が、如何に自分がピアノから遠ざかっていったのかがわかってしまう。


「な、なんだ……?」


 近い近い近い! この子近いよ距離が!

 待って最近の子ってこんなに距離を縮めるもんなのか!?

 紫紺の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめてくる。その瞳からは『期待』の二文字がくっきりと浮かんでいるのが分かった。


 女子とまともに会話すらしたことが無かったからか、いきなりの展開に心臓と心の整理が追いつかない。


「──ってください!」


「は?」


 そんな荒ぶる心を落ち着けようとしたからか、彼女の言葉をよく聞き取れなかった。

 だけどなんだか嫌な予感だけはする。

 野生の勘というものだ。山とか森とかにはあんまり行ってないけど。


 ああ、でもどうやら俺の勘もそう外れるものではないらしい。

 次の彼女の言ったセリフに、俺はものすごく顔を顰めた。


「わ、私のピアノの先生になってください!」



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