幼馴染みとの距離感


「いやいやいや! 無理だって、俺初心者だし! ピアノ触った事ないよ!」


 何を言っているんだとばかりに、俺は慌てて口を開いた。


「いいえ。私はもちろん知ってますよ先輩のこと」


 薄く微笑みかける結衣。

 ちくしょうやっぱり俺のこと知ってるのかよ。

 ふと視線を逸らすと、瀬戸先生がブイブイとサインを送ってた。

 なんとなく真犯人が分かった気がする。


「いいじゃないか悠。可愛い後輩がこうして言ってんだから」


「そうですよ。こーんなに可愛い私が言ってるんですから!」


「自分で言っちゃたらダメじゃね?」


 いや実際彼女は可愛いと思うし、それにその……胸だって大きい。

 誤解なきよう言うが、これは俺が巨乳好きだからではない。

 悲しきかな、男子高生はみんな巨乳好きなのだ。恐らく。メイビー。


「だけど、俺はもう五年も触っていない。悪いことは言わないから、瀬戸先生に見てもらいな」


 しかしこれだけはダメなのだ。

 いくら可愛い後輩といえども、例えそれ以外のことなら何だってやってみせるけども、唯一ピアノだけはダメだ。


「そこをなんとか! もう先輩しか頼れる人がいません!」


「後ろに瀬戸先生がいるだろ」


「……先輩しかいません!」


「無視したな今! しかもちょっと考えてからだったろ。後ろで瀬戸先生が泣いてるぞ」


 いや実際は泣いてはいないんだが。

 しかしどうやって断れば良いのだろうか……なまじ、このままダラダラ引き延ばしてしまったら、次は何されるか分からない。俺の教室に入ってきて大声で頼まれるかもしれないのだ。そうなれば圭はもちろんのこと、他の友達にも誤解されるし、何より俺が一番困ることになる。


「八柳悠……成績は極めて優秀であり、部活動はやってはいないが、学校主催のボランティアにも精力的に参加。高校一年時には文化祭の実行委員を務める。主体性はあまりないが、やるべきことはキチンと最後までやり遂げる……だが後輩の頼みを断る性格の悪さもあり、と」


「ちょっと待ってくださいよ瀬戸先生。それはなんですか?」


「ん? ああ今私が君のために作ってる調査書の一部だ。あまりにも書く内容がなさすぎて、つい口にこぼしてしまったようだ」


「なんか最後不穏なこと言ってませんでしたか!?」


 というかそれ言っちゃって大丈夫なやつなのか!?

 まずい、瀬戸先生はこういう事を平気でやる人物だ。

 嘘か本当か、ニヤニヤと意地悪く笑う先生は、なんのことかととぼけて言う。


「気にしないでくれたまえ。さ、どうなんだ?」


「あんたそれでも教育者か!?」


「なお、教師に向かって暴言を吐いたり──」


「わー瀬戸先生は美人で本当にいい先生だな! この三年間この人が担任で本当に良かったな!」


 もうヤケクソだった。


「それで! どうするんですか!」


 ずいっとさらに顔を近づけさせる結衣。吐息が掛かりそうなぐらいだった。

 もはや四面楚歌だった、まるで一秒が一分にでもなったような感覚。

 長い時間考えていたように思える。だけどそれは二、三秒のことなのだろう。


 やがて観念したかのように、絞り出すように俺は結衣に言った。


「ピ、ピアノを聴くだけなら……」


 ◆


 結衣は俺の提案に少しだけ難色を示していたが、俺もそこだけは譲れない。

 最終的には互いの折衷案を出して、取り敢えずその日は解散ということになった。

 要するに、俺が彼女のピアノをこれから毎日聴き、その都度感想や改善点を言う……無論、ピアノはやらない。結衣はまだ不服そうだったが、俺からしてみれば十分妥協したものだ。


「それではまた明日、お昼頃に音楽室で会いましょう」


 そう言って、俺と反対方向にてくてくと歩いていく結衣を見送りながら、俺も急ぎ足で帰路に着く。


「しかし、なんでまた急」


 五年間ピアノに触れ続けてこなかった。多くの誘いの手を、中には有名人まで来てくれたというのに。それでも俺は頑なにピアノを拒み続けた。

 それなのに、今はどうだろうか。曲がりなりにもピアノに関わってしまった。


「多分……」


 惹かれたんだよな。

 そんな言葉がふと頭を過った。

 結衣の心を掴む技術に、まんまと嵌まってしまったわけだ。


「だけど分からないんだよな。どうして、俺は……」


 結衣以上のピアニストなら幾らでもいる……とは決して言わないが、少なくとも俺はそれ以上の

 俺が恐れた圧倒的な才能。一度聞いただけでも分かる『天使のピアノ』。

 あの曲を聴いたピアニストの多くが自ら筆を折ったと、そう言う噂もあり得るほどに。


「天使のピアノ……ピアニストからしてみれば、別の意味の天使だな」


 二重の意味で『天使』。人々の魂を持っていくもの。だから多くのピアニストからはこう言われている。──『演奏者に送る鎮魂歌』と。

 納得せざるを得ない。


 アレは同業者の心を壊すピアノだ。

 圧倒的な才で捻じ伏せるピアノだ。

 それをあの純粋無垢な少女が出しているのだと──しかも本人にその気が一切ないのだから救いようもない。


「折月結衣、折月結衣……っと」


 スマホ片手に彼女の名前で検索する。

 すると僅か百件ながらも、彼女がピアノで優秀な成績を収めたと言う内容の記事がいくつもの見つかった。コンクールの常連だと瀬戸先生は言っていたが、これはそんなものじゃない。


「一歩間違えればコンクール荒らしだな」


 小規模なものから大規模まで。ここ数年の彼女の受賞歴を見ていく。

 随分とスパンが短い。同時期に開催するコンクールもあるだろうに……。どうしてそこまで彼女はコンクールに出場し続けているのだろうか。実積づくりでも限度がある。


「俺のことを知っている……か」


 ──なら彼女は、折月結衣という後輩は。


 俺のピアノを辞めた原因も、分かっているのかもしれない。



 結局、俺が家にたどり着いたのは午後五時半になってからだった。

 まだ日は昇っているとはいえ、天音を長く待たせてしまった。

 一応お金があるとはいえ、あいつのことだ。意地でも使わない気でいるだろう。


 天音はそういうところがある。与えられたものを素直に喜ばないのだ。まるで施しを受けるかのように、いつもありがとうございますとは言うけれど、それを使うのは本当に困った時だけ。むしろ使わないことが多々ある。


 その部分もあまり好きではなかった。

 あいつは、自分のことを過小評価しすぎているから。

 元々はそれをちょっとでも変えてあげたいと、ピアノを勧めたんだが――。


「あぶね、トラウマ再発する所だった」


 自分でトラウマを刺激して自爆するところだった。

 他人のピアノは聴けるけど、今になっても天音のピアノは聴きたくない。

 今も思い返せば、あいつが弾くピアノの残響が聞こえるような気がしてきた。


 八階まで階段で上って、僅かに息が上がった状態で鍵を開けた。

 今回はちゃんといつも通りに開いてくれた。


「あ、おかえりなさい。ゆ……八柳、くん」


 ポツンと、ソファにじっと座っていた天音が、待っていたとばかりに立ち上がる。

 机の上にはまだ一万円札が置いてあった。

 流し台の水切りの場所には、綺麗なお皿が行儀良く鎮座していた。

 この時間の間にやってくれたのだろうか、それに何だか部屋も綺麗になってるし……。


「別に、今のお前は客人なんだからそこまでしなくても良いんだぞ」


「うん、だからこれは、わたしがしたいことなの」


「手伝うことが? 変わってるな」


 ……いや、分かっている。

 俺だって嬉しいというか、少しほっこりする。

 素直にありがとうと、そんな一言が言いたかったのだ。


 だけどどうしてもこいつの顔を見てしまうと、あの日の気持ちが甦ってきて、上手くあいつの顔が直視できない。


「うん……へん、だよね?」


 だから、その顔はやめろ。

 お前がそんな顔を浮かべるから、俺は俺らしくないことをやってしまうのだ。

 ピアノの話を持ちかけたのだって、全部、お前のそんな顔を少しでも変えてやりたくて……。


「正直面倒だ。俺には俺なりのやり方でこの家の家事をやってる」


「ご、ごめんなさ――」


「だけど、今日の俺は疲れているから掃除やりたくないなーとか思ってたところだ」


 実際、疲れるような出来事があったわけだからな。

 これから掃除と皿洗いしなければいけないと、少し気落ちしていたくらいだ。


「だ、だからまぁ……あ、ありがとう」


 後ろに振り返って、俺はそう言った。

 素直に面と向かって言えばいいものを、だけど俺は出来なかった。

 まだ心臓の鼓動がうるさい。

 ちくしょう、最近運動していないからか、少しバテたのか?


「……っうん」


 天音は何も言わなかったが、その後の彼女の顔が少しだけ微笑んで見えたのは、きっと気のせいだろうと思った。






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