小さな幼馴染
ぽすんと、そんな軽い音とともに、彼女の柔らかい体が胸に当たる。
「え……」
最初、ふざけているのかと思った。
だけど彼女がそんな、大胆な行動をするような子ではない。
そのままずり落ちる彼女を、俺は鞄を落として慌てて抑えた。
「あつっ」
体が燃え上がるように熱く感じる。天音の体が、まるでカイロのように熱を帯びていた。抱えるように起こして、俺は彼女の額に手を添える。
「……っ天音、おい天音! 大丈夫か?」
軽く揺さぶってみる。
すると天音は僅かながらに反応を示した。
「あ、れ。ゆう……くん。わたし……」
「いつから、いつからだ! どうしてもっと早く、お金だって渡しただろ!?」
俺は彼女を抱き抱えて、リビングのソファに横たわせた。
彼女に体温計を手渡して、彼女が計っているその間に冷蔵庫を開ける。
いざという時に備えてとっておいた冷えピタと経口補水液、それらを両手いっぱいに抱えて俺は天音の元へと戻った。
途中、あのテーブルの上には手付かずの一万円が置いてあった。
それを見ながら、俺は天音に問い詰める。
「お昼ごろから……なんだか頭がぼーっとするなと思って、でもゆうくんには迷惑かけたく無かったし、お熱だって、さっき計ったらまだ37.7度だったから、大丈夫……」
その時、小さなアラーム音が鳴った。
体温計の音だ。天音は脇からそれを抜き取ると、その画面を見て目を少し大きく開けた。口をまるで「×」のような、ミッフィーのようにして、体温計を俺から隠すようにする。
「見せなさいってば」
まるで子供みたいなことをする。
少しだけ懐かしく感じてしまった。俺と遊ぶ日、彼女はよく熱を出すとこうやって隠していた。なんでも、俺ともっと遊んでいたかったのだとか。
天音から体温計を少し強引に取ると、俺はその表示を見て口をへの字に曲げる。
「バカ」
「あうぅ……」
39度分の高熱じゃねえか!
俺は彼女の額に冷えピタを張って、経口補水液を飲ませる。
「熱はよく出るのか?」
「うん……でも一晩眠ったら治るよ」
「そうか。どこか辛いところはないか?」
「ううん。大丈夫だよ」
元々虚弱体質の彼女だ。こういう急な発熱には慣れているのだろう。
だがいくら慣れているからといって、こういうことは本当にやめて欲しい。今日は帰るのが遅かったとはいえ、俺が急用で遅く帰ることなんてザラだ。
「天音、お前携帯とか持ってないか?」
「ガラケーなら……」
おずおずとピンク色の可愛らしいガラケーを出す。
「いつの時代の人間なんだよ」
懐かしい。まだ携帯など持っていなかった俺にとって、天音の持ってるガラケーは憧れの的だった。良く彼女と一緒に写真を撮っていたりしたっけ。
「メールなら何とか出来ると思うけどさ。それじゃ何かと不便だろ。今じゃスマホが主流なんだから」
「けど、機種変更……? とか、そういうの、分からなくて。いつも仕事の連絡は、お父さんがやっていたから──」
そう言った後に黙り込んでしまった。
まだ彼女の中では心の整理が着いていないのか、ぎゅっと着ているワンピースの裾を握っていた。
「……そんじゃあ俺が着いてくよ。それなら安心だろ?」
「ほんと?」
「ああ」
「……あ、ありがとう……ゆうくん」
彼女はようやく笑ってくれた。少しなよなよしい、薄いものだったけれど。
──それでも俺の心臓の鼓動を早まらせるのには、十分すぎるものだった。
「……と、取り敢えず何か作る。お粥とかでいいよな?」
なるべく胃の消化にいいものの方が良いだろう。
こういう時に備えてパック用のお粥があるが、なんというか、それはなんだか嫌だった。
こくりと、少しだけ申し訳なさそうに小さく頷く天音に、俺は分かったと言って、取り敢えず彼女用の式布団を用意して、そこで横になるように言った。
◆
昨日の白飯の残りと卵で作った簡単な卵雑炊。
だけど育ち盛りの身である俺の胃袋はこれだけでは足りない。
結局、もう一品作る気力がなかったので冷凍食品を頼ることにした。
「自分で食えるか?」
木製の器に移し替えた俺は、布団で横になっている天音に訊く。
天音は、少し考えたのち、チラリと俺の方を見た。
そして、よしと何か覚悟を決めたような顔で言った。
「た、食べさせて……」
「……た、食べさせてって──」
しかし天音はじぃっと俺の目を見つめる。
ほ、本当にやるしかないのか……。
俺は腰を落ち着かせて、スプーンで掬って彼女の口元へと近づかせる。
「~~~っ」
どうやらまだ熱かったのか、薄い唇に触れた天音がびっくりして、その拍子に落としてしまう。
「す、すまん……大丈夫か?」
「平気……ごめんね、落としちゃって」
何か拭くものは無いかと俺は辺りを探していると、その隙に彼女は自分の衣服に落とした雑炊を口に入れてしまった。
「んな、何をしてるんだ……?」
「だってせっかく作ってくれたから……」
指を舐めるその姿が妙に色っぽい。
勿論狙ってやっている訳ではないは知っているが、どうしても、彼女を『女』として見てしまう。
何となく変な雰囲気になってしまって、俺は自分の思考を振り払うかの様にぶんぶんと顔を横に振るうと、続けて彼女の口にスプーンを運んだ。
勿論今度はちゃんと冷まして。
つぷんと口に含んだ彼女は、やがて数回の咀嚼のあとにそれらをごくんと飲み込んだ。
「……おいしい」
「そ、そうか……良かった」
つい口元が緩んでしまう。
あまり自分の料理を人に披露する機会が少ないから、そんな些細な言葉でさえ嬉しく感じるのだ。
「ありがとう、ゆうくん」
薄く微笑む天音に、俺は顔を逸らして表情を抑えることだけで精いっぱいだった。
◆
それから数時間が経過して、俺は自分の部屋で眠ろうとした。
明日は学校が無いとはいえ、なるべく生活のサイクルは崩したくはない。
「それじゃあ何かあったら遠慮せずに言えよ」
俺は水色のネグリジェを着た天音にそういって、自分の部屋に戻ろうとした。
ここまで来るのにも相当な時間がかかった。風呂に入るのはきつそうだからと、なぜか俺が天音の体を拭いたり、流石に服を着替えさせたわけではないけれど、袖を通したりとそれなりのことをしろと言われた。
熱の時の天音はまるで子供のようだ。
いや、子供というか、甘えたがりの子供みたいだと言うべきか。
普段の控えめな性格から、少しだけしたたかさを感じる。
いやまあそれ自体は別にいい。何なら、このくらいは可愛いもんだ。あの天音にもこんな一面があるんだと安心する。
だがしかし――。
「一緒に寝て……」
軽く首を横にふるって、きゅっと俺の袖を軽く握る天音。
「え、いや、お前な――」
それはさすがに不味いんじゃないのか。
いや、何がとは言わないが、うん、非常に不味い。
いくら相手が幼馴染であろうと、どれだけ俺が自分を律せられる男だとしても。
情欲あふれる健全な男子高校生である以上、一時の過ちをする恐れがあるのだ。
それを彼女は理解しているのだろうか、いいや、していないね!
いくら熱だからといえど、これは間違っている。
信頼の表れだとしてもだ。
よし、言ってやるぞ。ダメだって!
言ってやる!
「お、おねがい……」
◆
──そう、これは仕方ないことなのだ。
狭い布団の中で、俺はそう自分を誤魔化すかのように言う。
ただでさえ夏が近づいているこの頃、密着する部分からは天音の熱が感じられて、大変暑苦しい。汗は浮かばないが、この調子では天音の方が苦しいだろう。
「なあ、熱いから出てもいいか?」
起き上がって試しにそう言ってみるが、天音はフルフルと首を振って俺の手を掴む。
「だ、だめだよ……!」
何がダメなんだよ俺の方がダメになりそうだよ!
──とは流石に言えないので、俺は結局押し負けて再び布団の中に戻る。
しかしまあ、添い寝なんて一体いつぶりのことなのだろうか。
あの頃の天音は、今以上に体が弱くて、俺と遊んでいる時でもベッドの中に戻らなければならない時もあった。
涙目になってもっと遊ぶんだとぐずる天音を、度々俺がこうして寝かしつけてやっていた。寝かしつけるといっても、結局は俺も眠気に負けて、最終的には二人で寝落ちして、気づけば迎えにきてくれた父さんの車の中だったということもしょっちゅうだった。
あれから色々あった。
俺は勿論のこと、天音も変わったところがあるかもしれない。
その一面を俺はまだ見れていないだけで、だけどこうしてみると、やっぱり天音は天音なんだと、そう思った。
「天音──外国はどうだった?」
俺が天音に何かを質問するのは、これが初めてだった。
深い訳はない。ただもう少しだけ、天音のことを、俺がいない七年間を知りたかった。別に変な期待はしなかった。ただ、一人でも良いから友達が出来たなら、良いなとそう思った。
「……大変だった」
ポツリと、そう言われる。
「寒いし、英語は分からないし、お友達も、あんまり出来なかった」
まさかそんな弱音を吐くとは思わなかった。
常に無口で、辛いことも悲しいこともあまり面に出さなかった彼女が、こんなにもはっきりと、苦しそうに言うだなんて……。
「お父さんは、いつでもやめていいって、言ってたけど……でも私にはこれしか無かったから、お父さんも新しい環境で大変そうだったから、私も頑張らなきゃって……」
未知の異国で、頼れる人など誰一人もいない状況で、それでもやるしかなかった。
そこにはどんな苦しみがあって、どんな楽しみがあって、どんなドラマがあったのだろう。分からない、だけど天音の父親は死んでしまった。
「私が……殺したんだ」
天音の声が、かすかに届いた。
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