君のために
天音がぽつりと、消え入りそうな声で吐いた。
確か、天音のお父さんは脳出血で死んでしまったはずだ。
それをどうして──どう曲解すれば、天音のせいになるのか。
「お父さん、いつも疲れてそうな顔してた。……だけどそれでも無理して、私のコンサートやコンクールの時はいつも出席してくれたし、終わった後は必ず大好きなピザ屋さんに連れて行ってくれた」
彼女がこんなにも喋ることは珍しい。
それだけ耐えきれないことがあったのか。
俺は相槌を打ちながら、彼女の話を聞くことにした。
「でも……でもね、この前のコンクール……お父さんに急用が入って、でもそのコンクールはとっても大きなコンクールでね……」
「あぁ」
消え入りそうな、震えた声。
天音の顔はこちら側からは見れない。だけどおそらく、きっと……。
「私も不安で、だからお父さんに見てほしかった。聴いてほしかった。応援してほしかった……だけどお父さんは結局来なかった」
外国の、それこそ様々なコンクールを総なめしているくらいの天音がビビるくらいのコンクールなんて……あれしかないか。
結局天音はそのコンクールでどれくらいの順位になったのか、聞きたかったけど俺は黙ることにした。
……いや、そもそも俺はそういうのに触れないようにしていたはずだ。
なんで、今になって天音のことが……。
「私、お父さんに沢山ひどいことを言っちゃった。ホントはお仕事お疲れ様とか、そんなことを言いたかったのに……」
きゅっとかけ布団の端を掴む天音。
僅かにずれる、足が外に出た。
外気の冷たさで、改めて彼女の体温を感じる。
「お父さんなんか死んじゃえって……言わなきゃ良かった……あとでごめんなさいしようって、そう、思ってたのに……」
きっとおそらく、その時にはすでに遅かったのだろう。
脳出血と言ってた。つまり恐らく即死だったのだろう。
何かを言い遺すことなく、別れも言えないまま、そんな後味の悪さを残して、天音の唯一の味方はいなくなってしまった。
「それが……ピアノを止めた理由か」
俺の言葉に、天音は小さく掠れた声でうん、と呟いた。
「もしも私にこんな才能が無ければ、お父さんともっと一緒にいられたかもしれない……」
『才能が無ければ』──もしも昔の俺がその言葉を聞いていたら、きっと俺は心無いことを吐いていたのかもしれない。天音の才能に魅せられて、ピアノを止めてしまった俺にとって、その言葉はどんなものより重く感じた。
だけどなぜか、今の俺には怒りだなんて、そんな気持ちは湧かなかった。
すんすんと、悲痛そうに息を荒くさせる天音。
小さな声で、まるでほっとけばそのまま押し潰れて死んでしまいそうな感じで。
だけどそれでも、彼女は泣かないのだろう。
昔から、そういう子だった。意外と丈夫で、意外と泣かない子なのだ。
だがそれは、泣いたら誰かを困らせてしまうからという彼女なりの優しさ故だ。
その奥に人一倍の悲しみが詰まってることを、俺と天音の父さんだけは知っている。
「天音」
そしてもう――俺しか知らない。
彼女をこのままにしてしまったら、きっと、取り返しのつかない事態になる気がした。
「もうピアノとかどうのとか、今は言わないよ。ここにはお前にとやかく言う奴はいない。俺の両親も、知らない大人たちも誰もいない」
向きを変えて、彼女の体に寄り添うように軽く抱き寄せる。
温いようで熱い。熱に侵された彼女の鼓動までもが感じられるようで、息遣いまでもがダイレクトに伝わってくる。
天音の体は、俺の懐の中にすっぽり収まるくらいに小さかった。
そのせいで、余計に過去の出来事が想起される。
何か辛いことがあって、それらをギュッと我慢している彼女だが、唯一俺の側にいる時だけは我慢せずに泣いていた。泣いてくれた。
俺が彼女の側から離れて五年。
その間に、どれほどの苦しみが、辛い出来事が、心無いことが起こったのだろう。
そしてそれをどれだけ溜め込んできたのだろう。
誰にも心配されないようにと、そういう優しさを持つ彼女は、唯一自分の心には厳しかった彼女は、父親が死んでから今まで、果たして泣いてくれたのだろうか。
感情を、吐露できたのだろうか。
「泣いちまえよ。聞かなかったことにするから。吐き出しちまえよ。嫌なことも全部受け止めてやるから」
俺はお前の幼馴染なのだから、せめてそのくらいはさせてくれ。
天音は何かをもごもご言おうとしていた。きっと大丈夫だよとか、平気だよとか、またそんなことを言おうとしてたのだろう。
――だけどそれすら押し切って、先に涙が零れ出た。
拭おうとして、だけどそれでもとめどなく溢れる涙に、天音の表情が崩れる。
「わ、わたしね、ゆうくんがいない間、ずっと頑張ってたんだよ……?」
「ああ」
「ずっと待ってたんだよ……? ゆうくんが、いつか私のところに来てくれるって、一緒にピアノ弾いてくれるって約束……したのに」
――ずっとお前の傍にいてやるよ。
遠い昔に約束した、子供じみたそんな言葉。
天音は待っていた。待っていてくれたのだ。離れても、きっと俺なら来てくれると。
それは俺のピアノを信じていたからなのだろうか。……もし、そうなのだとすれば。
「ごめん。約束……破っちまったな」
天音には俺がピアノをやめたことを知っていない……のだろうか。
いや知らないだろう。
「お父さんが死んじゃって、いろんな人が来て、私の知らないところで、私のことを勝手に決めようとして……」
天音には親戚がいない。
駆け落ち的に結婚した天音の両親の、叔母に当たる人物はまだ存在するけれど、その人は天音を引き取ることを拒否した。
誰も頼れる人がいない中で、天音はたった一人、泣きもせずに頑張っていたのだろう。
いや、泣く時間すら与えてもらえなかったのかもしれない。
だから気持ちを押し隠すしかなくて、そしてここまで来た。
「……ごめん」
天音は、俺を選んでくれたというのに。
それなのに俺は……あんなにも、ひどいことを言ってしまった。
自分を呪いたくなる。俺は彼女の気持ちをこれっぽっちも考えずに、突き放すようなことを言ってしまった。
「う、うぅぅあああぁぁぁぁ………っ」
そしてついに、堪えきれなくなった感情が口から零れ出る。
「お父さん…… ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
声を押し殺しながら、天音は泣いていた。
微かに聞こえる悲痛そうな声。
俺は──なんて愚かなんだろう。
電話の一つでもすればよかった。
最後あの時に見送ればよかった。
何か一つでも、天音に声を掛けてやればよかった。
昨日、天音は掃除をしてくれたが、あれは裏を返せば『お願いだから見捨てないで』と言っているようなものだ。
天涯孤独となった今、天音の傍にいてやれるのは俺しかいない。
「明日さ、学校休みだから一緒に何処かに行こう。今まで苦しんだ分、幸せになろう」
ただ彼女を抱きしめる。
「今までよく頑張ったな。えらいよお前は、本当に……本当にえらいよ」
それしか、言える言葉が見つからなかった。
天音は傷ついて、疲れてしまったのだ。
そんな状態で『頑張れ』なんて、言えるはずがなかった。
胸の中にいた天音が僅かに動いた。
うん、と言っているのだろう。
俺の胸に顔を押し付けて、天音はギュッと俺を強く抱きしめた。
そのうち、唸る様な啜り泣きが収まって、次第に静かな寝息が聞こえ始めた。
人間大ほどの人形を抱きしめていることにも全然気づかない。
「……おやすみ、天音」
暑苦しくならないように、彼女の頭まですっぽり被ってる布団を外して、そのついでに彼女の髪を撫でた。
柔らかな感覚、母親譲りの白い髪。今も手入れは欠かしていないのだろうか。
「いっそ必需品を買いにショッピング行くのもありだな……」
そんなことを呟いて、ふと、眠気が俺を襲い始めた。
思えばもういい時間だ。今更だが、どうしてとっくのとうに寝ている時間に、俺は天音に抱きつかれて眠っているんだ?
「ったく、子供じゃあるまいしな……」
ぎゅーと離さない天音の寝顔を見ながら、苦笑する。
そして胸の中に通り過ぎた、痛々しく熱い感情にため息を吐いた。
なんだよ、あれだけ遠ざけていたのに、やっぱり俺は天音のピアノが好きじゃないか。
そんな天音が、俺を打ち負かすほどの実力を持った天音が、ピアノから遠ざかってしまうなんて、俺は嫌だった。
なんだかもう一度、天音のピアノを聞いてみたい感情に襲われる。
ネットを探せば山のようにあるかもだけど、できるなら、生で聴いてみたいんだ。
「俺がさ、もう一回弾いたら──お前は、立ち直ってくれるのかな」
だけど俺にはこれくらいしか思いつかなかった。
幼馴染として、そしてかつてお前に負けたピアニストとして、俺ができる最大限のエールがそれしか考えられなかった。
「……なあ、天音」
なあ、天音。
俺は自分のためには弾けないけど。
あれだけ慕ってくれている後輩でもなくて。
もう一度──お前のためになら、弾ける気がするんだ。
こんな感情は、久しぶりなんだ。
体の奥から迸る熱で、人生さえも棒に振るってしまう感覚。
全てをこの刹那に懸けたって良いくらいの、この感情の名前は──衝動。
一度は捨てて、二度思い出させないようにしてきた、俺を狂わす熱いもの。
『挑戦し続けろ──大人になるのはもう少し後でいい』
「瀬戸先生──」
赤髪の、最も頼れる恩人に問いかける。
──俺、もう一度ピアノを弾いても良いかな?
頭の中に思い浮かんだ瀬戸先生の顔は、なんだか笑っていたような気がした。
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