失敗の代償は
夕方になり、結衣は少し用事があるとのことで早めに帰ることになった。
時間を忘れてピアノの練習をしていたそうで、そのため音楽室の鍵などは俺が返す羽目になり、俺は彼女が出て行ってから三十分後に校門の近くに着いた。
もう部活帰りの人はいない。
空にはちらちらと星が瞬き始めた。
『ごめん──』
ここから家まで徒歩で三十分近くかかる。
家に着く頃にはもう七時を超えているだろう。
『俺は、君のためには──』
結衣はもう家に着いているのだろうか。
「何しょぼくれた顔をしている」
プップーと背後からクラクションの音が響いて、慌てて後ろを振り返ると、そこには白いセダンに乗った瀬戸先生がいた。
先ほどまでの思考をキャンセルされて、俺はなんていえばいいか分からず、取り敢えず軽く会釈して横にそれる。
そういえばこの人車で登下校しているんだよな……少しばかり羨ましい。自転車はあるにはあるが、もう何年と乗っていない。自転車通学するには躊躇うような距離なのだ。
「へい男子高生。もう遅いから乗って行きなさい」
へい彼女後ろ空いているぜ、ばかりに言うじゃんこの人。
「いやいいですよ。知らない人の車に乗ってはいけませんってママが言ってたので」
「良いんだよ知っている人なんだから。それに君の家はここからまあまああるだろ? 別に変なところに連れて行かないから、おとなしく捕まりなさい」
瀬戸先生は少し強引に俺を後部座席の方に乗らせると、緩やかにアクセルを踏んだ。
◆
緩やかに進んでいく無色透明の景色。俺は誤解が生まれないように窓付近から離れて隠れるように身を潜めていると、前方から先生の笑い声が聞こえた。
「どうだった? 結衣のピアノは」
「まあ……流石は如月学園の特待生だなぁと。彼女以外にピアノでの特待生っていないんですね」
と言うか芸術方面の特待生自体少ない気がする。
恐らく合同のクラスになっているのだろう。
もとより、登校義務のない奴らだ。自分がどこのクラスに所属しているか大した問題ではないだろう。これならまだ学術方面での特待生の方が来ている。中には通常生と同じく毎日のように学校に来ている変な女の子もいるらしいけど……。
「元々実験的に取り入れたものだからね。芸術方面での分野は、特に才能の差が激しいから。そんな過酷な世界に子供を放り込む──親や教育機関、マスコミが黙っていられるはずがない」
学術方面ではなく芸術方面。
いくら多彩で異色な如月学園の教育制度といえど、やはり周囲の批判はある程度応えなければいけないのか。
「それじゃあ、結衣は今まで一人でピアノを?」
「ああ。最初は趣味でピアノを弾く人たちや、吹奏楽の人とかと一緒にやっていたそうなんだけどね。だけど最後は着いていけなかったな……だから最終的にはいつも一人でピアノを弾いていたよ」
脳裏に一人でピアノを弾く結衣の姿を思い出す。
そうなると、そもそもどうして彼女は俺を呼んだのだろうか。
この学園では俺が『元ピアニスト』だと言うことが隠していたはずなのに。圭か……? いや、あいつは確かにお調子者だけど、人の嫌がることはやらないやつだ。
「私が君のことを伝えたんだ」
先生が種明かしをするかのように言った。
「とは言っても、君の名前を告げた途端に彼女は反応を示したけどね。どうやら元々君のことを知っていたようだ。流石有名人」
「茶化さないでください。……俺は、もう近づきたくなかったのに」
俺はもうピアノに関わりたくなかった。
夢を捨てたから、あの世界にいるのが辛くなったから。
「──でも君は近づいた。本当に触れたくなかったら、あの場所にいなかったはずだ。そうだろう?」
瀬戸先生のその言葉に、俺はなにも返せなかった。どうして俺はあのピアノに引き寄せられたのか。今なら答えが分かる気がした。
俺はあのピアノに、昔の自分を重ねていた。
昔の時みたいに、傲岸無知で不遜で、そしてなによりも自由だったあの時のピアノに――。
「……俺は、まだピアノを弾いていたいんですかね」
答えられるはずのない質問を俺は投げつける。
車が停止した。信号が赤になったからだ。
目の前では会社帰りのサラリーマンたちがうつ向いた表情で渡っている。
「会社勤めの人たちは大変だな」
瀬戸先生が言う。そこには微かに同情の気持ちが籠っていた。
お疲れ様ですという気持ちと共に、しかし俺もあんな風になるのかなという侮蔑にも近い感情が生まれた。
──俺たちは、夢を追いかけそれが叶った人たちを『成功者』と呼び、それ以外を『敗北者』と蔑む。それを表にしていないだけで、みんなそう思っているのだ。
嫌なやつだ。本当に──嫌なやつだと心の底から自分を軽蔑した。
「……人は平等ではないからね」
バックミラーで俺を見つめる先生が、ぽつりとそう言った。
本当に、俺の……いや、生徒の気持ちをよく理解している人だ。
「日本は豊かで明るい国だ。昔よりも多くの人々が自分の夢に向かって邁進できる。だけどそれは全員じゃない。こんなことを言うのは、社会人として大人として、そしてなにより教師としてどうかと思うが――生まれは変えられない。お金がないから夢を諦めるなんて私の周りにはごまんといたよ。それはもう仕方がない。努力で補える程度の才能があれば話は別だけど、多くの人間はそうはいかないからね。いつか夢を諦めて、そして生きていくために働いていく。不幸だとは思わないけど、幸福だとも思わない」
「……それは」
どうかと思った。
少なくとも、冷たい発言だった。
何と言うか、そこは多少なり強引でも、そこはやっぱり否定して欲しかった。
「だけど仕方がない。だろう? 私たちは神様でも救世主でも何でもないんだから。全てを救うなんて傲慢だ。いずれ君も理不尽な世界がいやと言うほど分かる。生まれが全て、才能が全てだと言うわけではないが──その中で夢を追える環境に生まれた人は、一体どれくらいいるのだろうね」
何故だが自分が責められるような感じだった。
俺は少しだけ怒気を孕んだ声色で先生の方に姿勢を前にする。
「確かに俺は運が良い方かもしれません。裕福で、理解があって、何よりも俺を愛してくれている両親の元で生まれて。だけどそれがなんだって言うんですか、だからお前は夢を追えとでも、ピアノを弾けと言うんですか。そんなのはあんまりだ。俺だって人間ですよ、しかももう直ぐで十八歳――大人だ。いつまでも夢を追えるほど、俺は子供にはなれない」
「大人……ね。それじゃあ悠、君はどういうことで大人になると思う?」
先生は俺に諭すような口調で聞いてきた。
「知りませんよそんなこと。働けるようになるとかですか? 親に仕送りをして、自分一人で生きていけるようになったときとか?」
世間一般的には、それを自立した大人とでも言うのだろうか。確かに俺は一人で生きているとはいえお金などの金銭は全て両親に甘えている。
だから俺は大人ではない――とでも言うつもりなのか? そんなの屁理屈だ。それでああそうですかと頷けるほど、あの時の挫折は柔くはない。
「――妥協することだよ」
「妥協?」
先生は薄く、まるで自嘲するかのように笑いながら言った。
「悠。君は子供の時、運動会で一位を目指したくて走る練習とかしたことはないか?」
「まあそりゃありますよ。一位になればお菓子が貰えたから、頑張って走りましたけど」
元々運動する事は嫌いでは無かったし。
「じゃあ今は?」
「……一体なにが言いたいんですか先生は。無理ですよ、部活やってないし、最近体を動かしていないし」
それに、俺にはそういう才能がない。
いいところで三着が妥当だろう。
一位を目指すなんて、そんな馬鹿らしいことするんだったら勉強でもしてた方がマシだ……とまでは思わなくとも、まあ、時間の無駄だなとは思ってしまう。
「そこだよ。子供の時は一位を目指すものだ。最高を狙うものだ。最初から三位や二位を狙う子供なんかいやしない。なぜだか分かるか?」
「……失敗をしたことがない、から?」
「そうだ。失敗して挫折する。そして目標を下げて妥協する。その積み重ねが人を『大人』に変えるんだよ」
「挫折をしない、失敗しない成功者なんていない。ただそれを上手く隠しているだけ――要は
やがて、長いように感じた赤信号がようやく青に変わった。
緩やかに発進する車。先生は目線を前に向けたまま俺に言った。
「だからさ、悠。別に無理強いはしないさ。弾きたかったら弾く、ダメなときはやらない。せっかく恵まれた環境に生まれたんだ。憲法にもあるだろう? 君は君自身の幸せを追いかける権利がある。いっそピアノから遠ざかって、ゲームとかでも良いんだ。――希望を抱かない人生を、夢を追いかけない人生は空しいものだ」
ハンドルを慣れた手つきで操作する。
ぐんぐんと速度が上がっていって、通り過ぎる景色に色が付く。
「いいか。失敗の代償は年を取るに連れて大きくなる。再挑戦する気概はあっても、歳やその周りの環境次第じゃ出来ないことだってあるんだ」
隣の窓が一斉に開き始めた。
いや、隣だけじゃない。全ての窓がいま、開いたのだ。
「君はこう言ってたね。──俺はまだピアノをやりたいのかと」
びゅう、びゅうと夕焼けに燃える風が車内に吹き込む。
誰もいない道、捕まらない速度ギリギリで走り抜ける。
「そんな顔で言うなよ。ホントは弾きたいくせに」
「いや、別に俺はそんな……」
そんなはずは──ない、はずだ。
俺は今までピアノを避けてきた。
自信を打ち砕かれて、もうこんな苦しみを味わうくらいならいっそと、放り投げたんだ。
──捨てたんだ。
破棄して唾棄して妥協したんだ。
自分の夢を嘲笑して、だけど他人を責めることもできず尻尾巻いて逃げた。
そうだよ。
ああそうだよ捨てたんだよ! 裏切ったんだよ俺は!
これまでの栄光を!
称賛されてきた自分を!
誰よりも誇らしいと言ってくれた両親も!
そして……誰よりも俺のピアノが好きだった天音の気持ちでさえ!
俺は全てを放り投げ、ただ傷つくことを恐れて手放してしまったんだ。
「だけど……」
声が聞こえる。
『私は先輩のピアノ、好きですよ』
──それを拾って俺に届けてくれた後輩がいた。
その後輩はあの場にいても尚、希望を持って挑み続けた。
そしてそれが奏でるピアノの旋律は、とても色鮮やかに聴こえたんだ。
あれが俺の原型から派生したものだと、俺のピアノが誰かの心を救ったのだと、そう言われて嬉しかった。誇らしかった。
だけど……もう俺は、あの舞台に立てる気がしない。
「いいか! よく聴け悠!」
その時、弱気になる俺を引っ叩くように。
瀬戸先生は風の音に負けないくらいの声量で叫んだ。
「いま君が歩んでいる道は既に、多くの先人たちが歩んできた道だ! 悩まない人間なんかいない! そのまま道を外してもいい! 歩くのを辞めたって構わん! 君の人生だ、君次第だ、何もかもが自己責任だ!」
瀬戸先生の言葉が胸を突き刺す。
「だが、もしもその道の向こうにある景色が見たいなら──」
そこで一度先生は言葉を切った。
バックミラーで俺の顔をじっと覗き込む。
ニヤリと、格好良く先生は笑いかけた。
「ここで辞めたらカッコ悪いぜ」
徐々に俺の家へと近づいていく。
マンションの手前で先生は俺を下ろしてくれた。
俺は先生に少し待ってくれるように言って、近くの自販機からコーヒー缶を買ってきた。
「はは。生徒から何かを貰うなんて初めてだ。ありがとう、だけど私はブラックじゃなくて微糖派なんだ」
これからはそっちで頼むよと、先生は車体に寄りかかってコーヒーを飲む。
これから――俺は何となく、先生の言いたいことが分かって、はいと頷いた。
「まあ何にせよだ。私の言いたいことは――」
背中をパシッと叩かれる。
「挑戦し続けろ。大人になるのはもうちょい掛かっても良い」
『何かあれば頼ってくれ。私は君の先生なんだからな』と笑いながら言う先生に、俺は少しだけ考える。
……いつからだろう。失敗を恐れるようになったのは。確かに子供の時は失敗しても食べて寝ればすっかり忘れていた。だけど小学生、中学生へとなる度に、いつしか失敗することを恐れるようになった。世間の目が怖くなった。努力する自分を『ダサい』なんて思うようになった。自分という人間の限界を知って、それに似合った目標を持つようになった。
本来、俺は勉強も出来が良い方では無かったし、運動だってダメな方だった。
唯一自信があったのはピアノだけだ。
ピアノさえあれば、俺は俺でいられたんだ。
「……そう、か」
――そうか、俺は真剣じゃなかったのか。
真剣にやれてなかった。才能に胡座を描いて、ピアノをただの自分の名声を上げるための『道具』だと認識し始めていた。
元々はピアノが好きで始めたのに、ピアノを弾くことが好きだったのに。
そして真剣にピアノを練習した結果、俺は負けただけだ。
たった一回の敗北で、全てを悟った気になって、辞めたんだ。
……笑えて来る。あんなに意固地になってずっとトラウマだったあの時の挫折が、今や小さいものだと思っている自分がいるんだから。
「先生も、たまにはピアノ弾いて下さいよ。俺、結構先生のピアノ好きなんで」
「ふふ。授業以外での私のピアノは高いぞー?」
先生はいつものように笑うと、続けて「しまった、今日はこの後合コンの予定があるんだった!」と急いで運転席に戻って、ブルルンとエンジンを吹かせて行ってしまった。
なんというか、本当に慌ただしい人だ。
俺は車の後ろ姿に小さくお辞儀をしてマンションのエントランスを通る。
エントランスからは軽やかなピアノの曲が流れている。昔はその音さえ嫌で、裏口から帰っていたのに、今やその音すらも愛おしい。
早く弾きたい──と思う一方で、だけどしかし、それには動機が必要だなとも、俺はまだそんなことを思っていた。
なんの気なしにやるのは、なんというか、この空白の五年間を本当の意味で無かったことにするのは嫌だったからだ。
英気を養う──だなんて宣うつもりもないけれど、この五年間は、確かに俺にとって苦しい時間だったかもしれないけど。
でもピアノをやめたから、俺は勉強をし始めたし、そのおかげでこの学園に入れて、先生や圭に出会えて、結衣に感化されて、そして今過去と対峙している。
「天音……」
脳裏にあの色白で病弱で、小さくて大事な幼馴染のことを思い出す。
母親を亡くし、早々に一人で過ごすことが多かった彼女は、俺と天音のお父さん以外の人間を怖がるようになっていた。
そんな彼女の癒しになればと、俺は彼女にピアノを聴かせたんだ。
ああ、そうだったんだよ。
初めは本当に、純粋に、あの子の為に弾いていたんだ。
それ以外の動機を持ち得なかった。あのコンクールで一位を取るまでは、本当に。
海外に行ってまでピアノを弾いて、段々と俺の中にあった自尊心が高くなるにつれて、俺は本当に大切なことを忘れてしまった。
「それが今じゃ、世界を股にかける天才ピアニストで、俺は……」
何度目かの自嘲。だがその時俺は気づいてしまった。
いや、もしかすると最初から気づいていたけど、無視をしていたかもしれない。
俺は──彼女がピアノを弾いている姿を見たことなんて一度もない。
だなんて、そんな馬鹿らしいことに疑問を持たないようにしていた。
「おかしいだろ。普通」
プロなら尚更だ。
天音は一人で勝手にどこかに行くようなやつではない。
だからあいつはまだ、ここに来てから一度たりともピアノに触れていないはずだ。
一体どういうことなのだろうか。
なんとなく嫌な気がした俺は、足早く階段を登って家の扉を開けた。
「あ、お帰りなさい……」
開閉の音に気づいたのか、天音は台所からトテトテとゆったり歩いてこちらまで寄ってきてくれた。
続けてその小さな両手を俺に向ける。
「ん」
鞄をくれ、というらしい。
それを拒絶するかのように断って、悪態でも一つ吐くのがもはや『いつも』のやりとりみたいになっているけど、今回は違う。
「なあ天音」
俺は靴を脱いで、何の気無しに、そんな風に聞こうとした。
視界のはじ、白銀色の髪と彼女の頬が映る。
白い頬が少し赤っぽい、その小さな口からは堪えきれない息継ぎの音が聞こえる。
「お前ピアノは──」
その時だった。
彼女は俺に寄りかかるように倒れた。
◆
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