俺が棄て、君が拾った『芸術』


「待ってください先輩!」


 放課後。俺は結衣から隠れるように教室から出ようとするが、後ろから声が掛けられた。相手はもちろん結衣だった。


「面倒見てくれるって言ってたじゃないですかー!」


 彼女の声を無視して、俺は廊下を早歩きで渡る。

 その後ろには結衣が着いて来て、あーだこーだと騒ぎ立てる。

 周囲の視線が俺たちに降ってくるが、それでも結衣は黙らなかった。

 俺は早歩きから駆け足となって、階段を降りる。


 今は結衣の顔を見られない。

 気持ちの整理がまだついていない。


 だけど普段運動もろくにしていないせいか、それともただ単純に結衣が速いだけなのか。俺は三階に行く途中の階段で捕まってしまった。


「も、もうこれで逃げられませんよ……!」


 踊り場で俺の右腕を掴む結衣。


「……お前は」


「え?」


「一体、何がしたいんだ、お前は」


 つい堪えきれずに言ってしまった。

 汗を浮かべて息を切らしていた彼女が、一瞬ビクッと硬直する。

 普段の俺からは出ないであろう声色に、自分でも少し驚いていた。

 だけどそれくらい、俺の心の中は荒れていた。


「あれは、あれは俺のピアノだった」


「はい、ですからそれでお話が――」


「話す? 話すことなんてない。知っているんだろ俺のこと。ならお前も分かっていたはずだ!」


『堕ちた天才ピアニスト』――俺がピアノを弾かなくなってから、雑誌は面白おかしく俺をそう書いた。表向きには中学受験のためにプロ活動をストップすると言うものだが……あの会場にいた奴らは薄々勘付いているのだろう。


「俺は……棄てたんだ」


「はい」


「誰に言われるまでもなく、自分で! ……自分で、棄てたんだ」


 両親は理由を一切聞かずに、そうかと言ってあっさりと俺をピアノから遠ざけてくれた。それが逆に苦しかった。通っていたピアノの先生は俺にすまないと言って、俺の我が儘を通した。俺がピアノを止めることを、誰もが許してくれた。


 取り敢えず、もしもあそこで誰かが引き止めて、叱咤激励でもしていたら……そう考えるのは卑怯だと言うことは分かっている。


 ……この世で夢を諦める理由は二つだけだ。理由の有無。


 ──理由があって夢を諦めたのは、それはしょうがない。


 だけど俺にはそれがない。

 自分で捨てた。自分で放り投げたのだ。

 捨てた夢はもう取り戻せない。──否、その資格すらない。


「私は、あの時の会場にいました」


 結衣が言う。


「……なら、事の顛末は分かってるな。お前も、あのピアノに――」


「違います! ……やっぱり、先輩は何も分かっていない」


 フルフルと首を横に振って否定した結衣の眦には、僅かに涙が溜まっていた。

 十七年の人生の中で、女の子を泣かした経験があまりない俺はそれにギョッとした。

 わなわなと肩を震わして、当人も涙を堪えるかのように顔を下に向ける。

 だがそのせいで涙が落ちてきたのが分かった。


 下校時刻だからか、上の方から帰宅するであろう生徒が来る気配がした。

 こんな姿を見られたからには、何か良からぬ噂が立つかもしれない。


「わ、分かった。取り敢えず音楽室行こう、な?」


「別に……どうぞ先輩はお帰りください。こんな可愛い後輩を……ひっく、泣かせて……っ、帰ってしまえばどうですか!」


「分かった帰らない、帰らないから!」


「明日には根も葉もない噂で先輩の居場所無くしますからね!」


 本当になんてことを言うんだこの後輩は。


「帰らない、もう帰ったりしないから……!」


 俺はそう言って彼女の手を取って、急いで音楽室へと駆け込んだのだった。


 ◆


「落ち着いたか?」


「……泣いてなんかいません」


「そんな充血した目で言われてもな……」


 音楽室には誰もいなかった。瀬戸先生もいない。もう時期テストが近いからか、それとも体育館での練習なのかは分からないけど、いつもどうやって許可を取っているのだろうか。ピカピカに磨かれた楽器たちを眺めながら、俺は視線を椅子に座ってハンカチで目を押さえている結衣の方に向ける。


 結衣は口調こそ元に戻っていたが、目は少しだけ充血していた。

 ああ、俺が泣かせたんだな……そう考えると少しだけ黒い感情が吹き出してくるようだった。


「悪かったよ。怒鳴っちゃって」


「……いえ、自分が悪かったです。すいませんでした」


 互いに少しだけ頭を下げて謝った。

 結衣は立ち上がって、ピアノの方に歩み始める。

 精神を落ち着かせるためなのか、俺は何も言わずにただ黙って聞くことにした。


「私は幼い頃からピアノをやっていました」


 蓋を開けて、その白い鍵盤に指を這わせる。


「物心つく時から……ママが元ピアニストだったので、三歳の時から私はピアノと共に生きていました」


 単調で規則的な音が音楽室に響く。

 演奏ではない、ただの指慣らしだ。


「普段のママは優しくて、お祝い事とかはよくケーキを焼いてくれました。でもピアノの稽古レッスンの時は怖くて、だから私は怖いママにするピアノが大嫌いでした」


 幾度もやっているからか、慣れたような手つきで往復する。

 徐々にクレッシェンドやスタッカートなどのアレンジが加わる。


「お外で遊ぶ時も手袋をしなくちゃいけないし、地下の防音室でやっていたので、外の景色が見れないのが本当に嫌でした」


 地下の防音室――その言葉を聞いて、俺は彼女の家が裕福であることを確信した。

 まあ、元々この学園に来る時点でお金持ちなんだろうなとは思っていたけれども。


 しかし、確かに子供にとっては酷だと思った。

 俺は楽しんでやれたからまだマシだったが、コンクールに出ている連中の殆どは親のでやっている奴らだった。


「六歳の時、私は念願のコンクールに行くことになりました。ですが……残念ながら私はそこで一位になることが出来ず、むしろ最下位付近になりました」


 六歳……となると、小学生のコンクールか。

 小学一年生でその舞台に出れるだけでも、十分すごいと俺は思うが。

 ん? ……待てよ、彼女が六歳となると、俺は大体七、八歳だから――。


「はい。実はあの時出会っていたんですよ私たち」


 くすりと笑いながら指の練習を続ける結衣。

 正直、全く記憶になかった。

 その時の俺は、まさに人生の最盛期とも言わんばかりで、傲慢だった。

 自分の演奏だけ終えて、あとは携帯で動画でも見ていたくらいだ。


「初めて先輩のピアノを弾いた時、私の中にあった黒い感情が全部吹き飛んだんです」


「こんなにも晴れやかな心地は初めてで」


「ほら、ピアノで感動して泣く人っているじゃ無いですか」


「泣くまではいかなかったんですけど、何となく気持ちが分かるなというか」


 ポロポロと、結衣は曲を弾き始めた。

 題名はわからない。でも俺はこの曲を知っている。

 きっと、いつかのコンクールの日に弾いた曲なのだろう。


「あんなふうに自由に弾けたらなと思って、だから今の私がいます。先輩は私のこと、眼中にも無かったのでしょうけど。それでも私はずっと先輩の背中だけを追いかけてきました」


「…………」


 彼女の目が見れなかった。

 嬉しい気持ちはあった。そりゃ、俺なんかのピアノで誰かの悩みが払拭ふっしょくできたのならば、そこには意味があったはずだ。


 だけど俺はそんな気持ちで弾いたわけじゃない。

 誰かのためになど、弾いたことがない。

 いつだって俺は自分のために弾いてきた。幼い時に覚えた承認欲求を満たしたいがために、そんな低俗な理由でピアノを弾き続けていた。


「だから私は先輩を追いかけていました。先輩は気づいていないかもですが、実は何度も同じコンクールにいたんですよ?」


「うぅ、それはすまなかった……」


 何度でもいうが、当時の俺は本当に周囲の人間に興味がなかった。

 コンクールの常連のうち、現在も活躍しているピアニストの数人は覚えているけど、本当にそれくらいなのだ。


「コンクールに行けば先輩に会える。だから私は無理してでも沢山のコンクールに出場したんです。先輩がいなくなった後でも。いつか会える日を信じて」


 おかげで今は実績も上がって、この学園に来れたんですよと結衣は笑う。

 あの沢山の受賞歴はそう言うことだったのか……。


「だからあの時のコンクールも、いました」


 あの時の――その言葉だけで、俺の心臓が少しだけ縮こまるような感覚に襲われる。

 思い出すだけでも震えが止まらない。自信と尊厳を踏み躙られ、永遠に消えることはない傷痕を残していった、あのコンクール。


「確かに神坂さんの演奏は素晴らしかったです。私も少し……いえ結構自信を無くしてしまいました。ああ、やっぱり天才には敵わないのかなと。あの場にいた誰もが、きっと同じことを思っているはずです」


 そうだ。

 俺たちがいくら頑張ったって、真の天才には敵わない。

 それが芸術の世界であり、そしてそれはどの世界にも通ずるものだ。

 凡人がいくら努力しようとも、天才はそれを凌駕する。


 ──だけど彼女はそれでもピアノを選んだ。自分の世界を守り続けた。


「……強いな」


 本音だった。彼女だけではない。あの場にいて、天音の真価を見せられてもなおピアノを捨てることが出来なかった全てのピアニスト達に、俺は尊敬の念を送る。


「何も一人の力だけじゃなかったですよ。私は先輩のピアノが好きで、だからあの時のコンクールだって、私は神坂さんより先輩の方が――」


 恐らく、彼女の言っていることは本心なのだろう。

 嬉しい、とても嬉しい。油断していると少し泣いてしまいそうなぐらい、嬉しい。

 だから彼女は言うのをやめた。俺が天音にピアノを教えた張本人だと知っているから。これ以上の発言は—―負け惜しみと同じことだから。


「私は……先輩に、もう一度ピアノをやって欲しいです」


「ごめん。それだけは出来ない。俺はもう、自分のためにピアノを弾けない」


 静かに溢れた結衣の願い。

 だけどそれでも俺は無理だった。

 俺はもう、自分のためにピアノを弾けない。


「あの時俺は一番になれなかった。そんな下らない、一時だけの感情に身を任せて、俺は自分の芸術を捨てたんだ」


 一番になるためのピアノ。

 俺が有名になるためのピアノ。

 下らない動機で、下劣で思い上がっていた。


 視線を下に落として、自分の手を見る。


「だから俺はピアノを弾くことはできない。俺はもう、自分の為にピアノは弾けない」


 戒めだ。

 思い上がるな、と。

 お前はクズで最低なのだと、そう自分を戒めなければ、俺はまた自分を嫌いになる。


「私じゃ……だめですか」


 その時、はっきりと聞こえた。

 顔を上げて、結衣の顔をまじまじと見つめる。

 結衣はその潤んだ瞳をこちらに向けて、切願するかのように口を開いた。


「私のために……ピアノを、弾いてはくれないですか?」










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