棄て去りしもの
「せんぱい! お昼一緒に食べましょ」
結衣はそんな事を言いながら、俺の教室の扉から顔を出した。
クラス中が俺の方へと視線を向ける。
それは斜め前にいる圭も同じく「お呼びだってさ、せ・ん・ぱ・い」と茶化す様に言ってきた。
取り敢えずムカついたので、圭にはそのウザったい頭に一発手刀をお見舞いして。次に彼女のほうへと顔を向ける。しかし何て言えばいいか分からず、だけど彼女の顔は正に『先輩を訪ねに来た健気な後輩』そのもので。
後輩という存在に弱い僕は、ただ頭を抱えながら大人しく応答するしかなかったのだ。
「結衣……昼休みに音楽室で、じゃなかったのか?」
てくてくとバランスを崩さず真っ直ぐに歩く結衣を追いながら、俺は今朝作ったばかりの弁当箱を両手で抱える。
「それでも良かったんですけど、せっかくなら音楽室で食べましょうよ」
「いやなんでさ」
せっかくだからって、どこがせっかくだからなのだろうか。
「それに、なんで俺なのさ。友達と食べればいいだろ?」
「同学年の友達はあまりいません。一つ上の先輩である月見先輩や菜穂先輩とかならいますけど......」
「あ、ああ......なんかごめん。確かにそもそも特待生自体あんまりいないもんな」
「先輩と同じで」
おいさっきから失礼すぎるぞこの後輩。
いるよ? 俺にだって友達の一匹や二匹いるよ?
いやその例え方だとまるで俺の友達が犬猫だけになってしまう。
いるよ! 圭とか……えと、圭とか!
そんな事を思いながらも、音楽室に辿り着いた俺らは、重い金属製の扉を開けて中へと入った。
中には当然と言えば当然なのだが、誰もいなかった。
壁には多くの名曲を残した音楽家たちの肖像画が飾られており、ピアノの他には木管楽器や金管楽器などが置かれていた。
昨日見た時とほとんど一緒だ。唯一違うのは、黒板にはまだ授業で使ったのか、瀬戸先生の綺麗な字が残されていた。
「ここで食べましょう」
「……今更なんだけど、ここで食ってもいいのか? 普通、中庭か食堂だろ?」
「良いんですよ。たまに瀬戸先生もここでタバコ吸ってますよ?」
「ここは喫煙所じゃねえよ……まあ、それなら良いか」
別に昼飯をどこで食おうが、俺が圭に煽られる運命は変わりない。
ああそう考えるとなんかムカついてきたな。次は思いっきし叩いてやろうか。
「先輩の弁当って、何だか綺麗ですね」
弁当箱の中身を見た結衣が、感心そうに言う。
箱の中身は、鮭の切り身に白米、ほうれん草のお浸しと、なるべく栄養バランスを考えて作った。
「なんだかお弁当屋さんみたいです」
「まあ実際参考にしてるからな。キャラ弁とか、そういう可愛いやつとかは一人暮らしだと作る気にもなれない」
そもそもそういうのは、大抵食べてくれる人がいてこそだ。あまり自分用に作る人はいないだろう。
「へぇ先輩って一人暮らしなんですね。意外です」
「まあ……慣れだよ慣れ。そういう結衣こそ……」
弁当の中身を見て、俺は絶句する。
中には野菜しかなかった。
それもドレッシングをかけないタイプの、生野菜。
「……ダイエット?」
「うわぁ先輩、いまのはデリカシー無いですよ。私じゃなかったら今頃ぶん殴ってました」
「言葉じゃなくて手が出るのかよ」
「何言ってるんですか。暴力が一番の万国共通語ですよ」
「拳と拳で語り合うやつってか!? 時代が二千年遅えよ。俺たちの間にはもう一つ共通言語あるんだからそれで話しあおう!」
お前はどこぞの戦闘民族だよ。
お前のその手はピアノを弾く手じゃなかったのかよ。
そんなツッコミをし、えいえいと可愛らしいパンチを振るう結衣を見ながら、俺は飯を食う。
そう言えば、天音は何をしているのだろうか。
俺といる時はずっとテレビを見ているか、ぼーっと空を眺めているだけだった。
何かあった時のために、一応ある程度のお金は持たせておいたが、天音のことだから、使わないつもりでいるのだろう。
「昼飯ぐらい……作っときゃ良かったな」
自分の昼と二人分の朝食を作るのに手間取ってしまって、彼女の昼飯を作るのを忘れてしまった。いや、その時のためのお金のだが、何というか不安が勝ってしまう。
そう言えば俺は、昔からあいつがピアノを弾いている以外に、自分で行動を起こすところを見たことが無い。今は父親を失って寂しいだろうけど、いずれ立ち向かわないといけない。
その時、天音はどういう選択を取るのだろうか──。
「今日は先輩に聴いてほしいピアノがあるんです」
先に食べ終えた結衣が、徐にスマホを取り出すと、それを音楽室にあった有線のスピーカーに繋げる。おいおい許可は取ってるのかよ……と言いたいところだが、ここまでの話の流れからするに取っているに違いない。そう願いたい。
「へえ、どんな曲名だ?」
「先輩が聴いたことがある曲のはずですよ」
へぇ……それじゃあクラシックか。
最近は圭の影響でアニソンも聴いているが、やはりクラシックが一番だ。
何というか心が洗われるというか、作者の苦難が感じられるというか。
やはり時代背景を知るのと知らないとでは、曲に感じる感情の波が違うからな。
やがて、そのスピーカーから軽やかなピアノの音が響き始めた。
しかし音質が悪い……スピーカーのせいではなく、そもそもの音源のせいだろう。
どうやらカメラで撮っているのか、所々に混ざるノイズに邪魔される。
「……」
そういえば、結衣は『聴いてほしい曲』ではなく『ピアノ』と言ったんだ。
ならば俺が聴くのは曲ではなく、それを弾いている演奏者の腕前だ。
「どうでしたか先輩? 感想をください」
やがて終了したのか、パチパチと大きな拍手と共にその音は止まった。
やはりビデオプレーヤーでの再生だったか。
「いや何というか。まあよく出来ている方なんじゃないのか? いや結構上手い方だと思うよ俺は。ただな……その演奏者、まだ子供とかだろ」
「どうしてそう思うんですか?」
なんだ? 俺を試しているのか、結衣の表情が少し固くなったような気がする。
まるで俺が真意に気づいていない事を恐れているかのように。
「まず全体的に音が弱い。それは演奏者の元々の力が弱いせいだ。それに指使いが少しだけ荒かった。恐らく椅子が合ってないせいだろうな、少しやりにくさが残る」
恐らくこれは結衣の子供の時のものだろう。
だがこの感じは何だ……この胸に残るざわめきは、一体──。
「だけどそれらを加味しても、素晴らしい演奏だということは変わらない。何でだろうな、心を掴まれるというか、解放されるというか、そこからその求心力が生まれたと考えると、確かに納得できるよ。この演奏者は素晴らしいピアニストになれる」
ただ本心だけを伝えて、俺は食べかけの弁当を片付けようと箸を持つ。
実際、その動画にいるピアニストには確かな才能を感じた。
いい意味で自由、悪い意味で楽譜に囚われない弾き方だ。趣旨さえ違えなかえれば、きっとピアニストとして食っていけるだろう。大成していただろう。
それが成長して今の結衣になったと考えると、納得できる気がする。
できる気がするというのは、少しだけ異質だということだ。
確かにあのピアノは凄かった。ノイズとか抜きに生で聴いたら感動していただろう。
だがあのピアノには求心力はなかった。
カケラはあったかもしれないが、あんな、結衣のピアノのように強力なものではない。あのピアノには自由があり、解放があり、世界があった。
断言しよう。あのピアノが幼い頃の結衣だとすれば──今の結衣は落ちぶれている。
何があったのかは知らない。師が悪かったのかもしれないし、俺の知らない何かがあって、そこで彼女のピアノが変化したのかもしれない。
なんにせよ惜しいものだ。だが素質はあるということが分かった。
俺に何ができるかは分からないが、少なくとも、そのコンクールの日までは彼女の練習に付き合ってもいいかもしれない──。
「八柳君!!」
だっだっだと大きな駆け足と共に、音楽室の扉が勢いよく開かれた。
中から現れたのは瀬戸先生だった。整えられていたはずの赤色の長い髪が散っている。
「せんせい……どうしたんですか?」
「どうしたもこうもない! 煙草を吸いにここに来たのだが、君──今ピアノを弾いていただろう」
「は……?」
タバコ発言は取り敢えず無視して。
一体何を言っているんだ? 俺がピアノを? 冗談じゃない。
そもそも俺はさっきまでここで結衣のピアノを──。
「………………まさか」
納得してしまった自分がいた。
そうだ、どうして気づかなかったのだろう。
俺は、あれは結衣のものだと思い込んでいた。だけどそれは違った。
結衣は、少なくとも自分のピアノを信じている。努力を怠らない子だと思っている。
そんな彼女が落ちぶれただなんて、そうまでして俺は信じたかったのか。
これは──。
「これは、先輩のピアノですよ。私のじゃありません……私は、先輩みたいな天才じゃないので」
結衣が寂しそうに、薄く笑う。
これは俺が棄てたものだ。
昔、己の才能が最高だったと勘違いし、そしてそれは無垢な少女に打ち砕かれた。
そして自ら手放した、俺の魂そのもの──。
──『芸術』なのだ。
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