父の背中


 ガタガタと揺れる軽自動車。舗装されていない砂利道を走る時の、砂じゃりを押しつぶすような小気味いい音と、微かに漂うヤニの匂い。

 幼い頃からこの時間が好きだった。この自動車は俺をどこか知らない場所へと導いてくれると言う確信があった。未知への憧れに恐怖が抱き始めたのは、きっと子供の終わりどきなんだろうと思うようになったのは、やはり瀬戸先生流に言うならば『妥協』を覚えたからだろう。


 妥協──俺の父親は妥協を知らないような男だった。

 何事にも全力で投じて、一身一頭が武器だった。

 それで何か間違えれば誠心誠意謝罪し、成功すれば子供のようにはしゃぐ。

 子供みたいな大人。大人になりきれていない子供。中間。良いどこどり。


 俺では絶対に辿り着けない、ある意味対極の存在。


「懐かしいな。当時と全く変わってない」


 言われるがままに父さんの車に乗ってから三十分。

 ここは郊外の山の中腹にある見晴らしが良い場所だ。だがここは非常に限られた人しか知らない場所。

 なぜ限定的かと言われると、ここは正規の場所ではないからだ。

 車を降りて山を登って、舗装された道から外れて辿り着いたところにある、俺と父さんしか知らない場所。


「嘘だ。目の前にあるマンションは最近できたやつだよ。逆に、向こうにあった山が一つなくなってる」


 俺はこの場所が好きだった。ここから覗く風景を見ると、何だか満ち足りた気持ちになるからだ。──逆に、中学に上がった時からここに来ることは無くなっていた。

 そもそも行くのが面倒くさいし、行ったとしても、もうこの風景を見て心動く俺がいないことを、何よりも俺自身が知っていたからだ。


 逆に父さんは俺をいつも誘い、俺が拒否するとそのまま自分で行ってしまう人だった。


「ばっか例えそうだとしてもこの場合はこう言うんだよ」


 なんてそんなことをいう。この人にとっては全てが自分の都合のいい風に解釈してしまうのだ。誰かに騙されてしまいそうだけど、俺が聞く限り、そのようなことは一度もなかったはずだ。


「……天音は」


 俺はついに自分から聞いてしまった。

 父さんは夜景を眺めながら答える。


「いま母さんが食わしてる。水とかレーションとか、ちょっと手をつけてはいたそうだが……悠、何があった?」


「……実は」


 隠すことは何もない。俺は全てを父さんに話すことにした。

 だけど天音との確執はそれこそ五年以上続くものだ。説明の説明、補足説明の補足説明と、三十分以上も時間を有した。


「そうか」


 父さんは俺の話を良く聞いてくれて、うんうんと頷いてから、ニカっと俺を安心させるかのような笑顔で俺に言った。


「よく頑張ったな。分かったよ。あとはオレ達に任せとけ」


「──あ」


 優しい眼差し、心配させまいと振る舞う笑顔。

 頼りなさそうで頼りになる俺の父親。

 その笑顔を見て、その言葉を聞いて、俺は嬉しかった。


「お前の思いも、天音ちゃんの気持ちも分かった。ま、任せておけって。こう見えても父さんは会社じゃご意見版みたいな役職にいるからさ」


 ニシシと笑う。その言葉は正直──嬉しかった。もういいんだと、あとは託しても良いんだと、そう思った。

 思えばよく頑張ったじゃないか。今こうしてピアノをやろうと思えているだけで十分良いじゃないか。天音は俺のことを嫌ってるだろうし、このまま続けていたらどちらかが必ず破綻する。


「そう、やって……」


 ──そうやって優しく、やんわりと、俺の心を気付かないまま傷つけないまま


「父さんはさ。俺がピアノを辞めるって言った時、何も言わなかったよね」


「ん?」


「それってさ、嬉しいことなんだどさ、なんだかなぁ……えっと」


 分からない。父さんの言ってることは正しいような気がする。

 このままじゃどちらかが壊れてしまうと言うことは俺にも分かってる。

 だけどさ、。俺が欲しいのは諦めじゃなくて、逃げ道を用意するでもなくて、頼ることでもなくてさ。


「あの時さ」


 こんなの酷いジョークだ。子供の言い訳だって、もう少しまともなものを用意するだろう。


 だけどさ、それでも今伝えなきゃ、もう一生言う機会が無いと思うから。


「あの時さぁ、俺本当はさ──『頑張れ』って言って欲しかったんだよ」


 一言でも良いから、俺は父さんに、そう言って欲しかった。

 諦めるなと、叱咤激励して欲しかった。

 だって何も言わなかったと言うことは、俺の望みを、要望を聞き入れたと言うことは──父さんは、俺にそれ以上の期待をしていなかったってことだ。


 誇らしいと言ってくれたけど、見捨てるときは一瞬だった。

 俺は心のどこかで、その事を覚えていた。


「悠……」


「あとは任せろだって? ふざけんな、これは俺の、俺たちの問題だ! 父さん達が出しゃばってくんなよ! 俺は俺のやり方で天音にちゃんと伝えるから! だからさ──」


 俺は父さんの目を見つめて、口を開く。


「俺を信じて欲しい」


「…………」


 父さんは目を丸くさせて俺の方を見た。

 何か口をモゴモゴさせて、しかしフッと優しく笑うと「ああ分かったよ」と、頷いてくれた。


「い、良いのか……?」


 何もしてこなかった俺を。何をすればいいか分からないでいるこの俺を。


「息子を信じない親がどこにいるんだよ。それにしても悪かったな悠。オレは……何もお前に期待していないと言うわけでは無いんだ」


 ゆっくりと地面に腰を落とす父さん。俺も習って地べたに座り込む。


「オレの名前の漢字わかるか?」


御遂みとげだろ」


「ああ。何事も遂げられる男になれっつぅ願いを込められて付けられた名前だ。だからオレは幼い頃から徹底的な教育を受けていた。箸を持つよりも先にペンを握らされてたんだ。日本語を覚えたらすぐに英語、それが終わったら中国語って感じで、とにかくオレは毎日勉強だったよ」


 父さんのお母さん……つまるところ俺の祖母の話。

 財閥の家に生まれた父さんは、幼い時から徹底的な教育を受けられていた。

 それで結果を出せるならまだ良かったかもしれない。

 父さんはハッキリ言ってバカだった。優しく言うオブラートに包むなら不得意な方だった。


「それだけで子供を見捨てるのは間違ってる。それだけで何もかもを否定するのは誤ってる」


「中学卒業後はヒッチハイクで日本横断。そこで繋がった縁を元手に海外へ。アラブはいいぞー上手くいけば大金が手に入る。それで精一杯の身なりを整えて、ちょっとばかし詐称ズルして大企業に入った」


「そこでのし上がっていったのは、会社で便りになる奴らと出会えて、あとはまあ運だな。英語とか外国語とか、あとはコミュ力無かったら野垂れ死にしてたよ」


 初めて自分のことを語る父さんの表情は優しげで、そのころから父さんは父さんだった。苦手は苦手と判断し、自分の長所を生かした。無理に勉強するのではなく、成長しないのではなく、変わらないのではなく、そのままの


「悠がピアノを辞めるといったときさ、オレはそれでも良いと思ったんだ。。ピアノはたまに弾く程度で、なにか自分が『これだ』って思うようなものに、しがらみなく取り組んでほしい。だから頑張って仕事して……不自由な思いをさせたくないからな」


 俺がピアノをやめた結果。世界中の多くの著名な人々が俺をなんとかして再び舞台へと立たせようとしれくれた。きっと、父さんの会社のほうもその煽りを受けたかもしれない。それくらいの力を持つ人々だ。利益や自分の地位。それらを踏まえれば無理やり俺を立たせようとしたほうが絶対に良い。俺だったら――そうしてしまうかもしれない。


 だけどそれをしなかった。自分の幸せを、家族の幸せを、不幸を不幸せよりも俺の意思を尊重してくれた。


――なんてことは、どこにでもある普通のことだ。だけどな親にとっちゃ死ぬほど不甲斐ない思いなんだよ」


 父さんは俺と一緒に夜景を臨んでいた。

 光り輝くネオン。変わり続ける都市の様相。


 ああ。


 だけど。


 それでも変わらないものがある。


 この土の匂いも、父さんの優しさも。

 今も変わらず、気づかないように、俺を見守ってくれる。


「お前が何者になんか親としては二の次三の次だよ。親はな、子供が幸せであればそれでいいんだ。だから――」


 御遂は、勉強が不得意な中卒は、一人の会社員は、一介のサラリーマンは、そして俺の父さんは。


「ピアノだけが全てだと思わないで、何者かであろうとしないで、お前は――その時なりたい自分になればいい。そのための手伝いをオレは手伝いとも呼ばないし、恩だとも思ってない」


 俺の頭に手を置き、優しくしかし力強く撫でた。


「オレ達はお前を愛してる。ピアノがなかろうとあろうと、お前はオレ達の立派な息子だよ」


 あの時言えなくてごめんな――そんな言葉を言って。

 それが、あの言葉が、父さんの真意だった。母さんの真意でもあった。

 ……とんだ思い上がりだ。俺は最初から俺だったのだ。父さんから見て、母さんから見て、八柳悠は『天才ピアニスト』八柳悠ではなくて、等身大の、泣きもするし笑いもする、一人の息子としてみてくれたのだ。


 あの人たちは、最初から俺を見てくれてたというのに。

 天音だって、俺をそんな目で見ているはずじゃないのに。

 俺自身が――そう思って、思い込んで、ピアノ以外の全てを自分で閉ざしてしまった。


「ん? どうした悠。いきなり顔を赤くさせて、まるで自分の考えが実に愚かしいものかと分かったような顔つきだぞ」


「そこまで分かってるなら口にするな! ……ちくしょうマジで本当に早く言ってくれよ。俺をそう思わしてくれよ……」


 ピアノをやめてから、多くの人々が俺をピアノの前に立たせようとしていたのを見て、俺のその傲慢にもとずいた一種のそれしかないという『個』に固執した思い上がりは、益々高まっていた。


 故に――ピアノが無ければ価値がない。

 だから――ピアノをやらなければ意味がない。

 そんな風に思い込んでいた。それから逃れたくて、自分に価値をつけたくて勉強を始めた。


「でもありがとう父さん。おかげでスッキリした」


「そうか。それなら良かったよ……悠、これからどうするんだ?」


「……まだ天音のところには戻れない。学校はないから、暫くほっつき歩いているよ」


「金は」


「ある。……ったく何歳だと思ってんだよ父さんは。数日間遊べるくらいのお金くらいあるから。それに宛もあるんだ。心配いらないよ」


 二人で山道を降りる。俺が先頭で父さんが後方。

 そうやってえっちらおっちら歩いて、車に乗り込み、再び来た道を走っていく。

 徐々に風景の光が増えていく。自然の匂いから嗅ぎなれた都市の排気ガスの臭いに変わっていく。


「心配するさ親なんだから……でもま、そこらへんはあまり深入りしないでおこう」


「そうしてくれると助かるよ」


 不思議だ。今までとなんら変わらない会話なのに、ずいぶんと自然体で話せている。

 会話が楽しいだなんて思える。


「でも、オレらもいつまでもいられるわけじゃないからな。……そうだな、三日後には帰ってこい」


「三日後?」


三日後といえばちょうどGWが終わり、学校が始まる時期だ。

確かにそこらへんには必ず戻るはずだが……しかしなぜだが嫌な予感がする。

こういう時、俺の嫌な予感はそれはそれは嫌というほど当たってしまう。


父さんはああと一呼吸おいて、俺に言った。


「三日後、天音ちゃんフランスに帰っちまうんだとさ」








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