君に贈る勇気の讃歌

再会


 神坂天音──俺の大事で大切な幼馴染。


 触れれば壊れそうな彼女の存在を、俺はどう認知していたのだろう。


 最初の頃は世話の焼ける妹分だと思っていた。

 一人っ子だった俺にとって、体の弱い天音は同い年であったが、守るべき存在だと思い込んでいた。もしも自分に妹が出来ていたら、きっとこんな感じかもしれないと思っていた。だから俺は昔からあいつが泣くのは嫌いだった。静かに泣く彼女を見ると、居ても立ってもいられなくなるのだ。早くあいつの顔から悲しみを取り除きたいと、全ての不幸を取っ払ってやりたいと。


 そのために、俺はピアノを弾いていた。

 彼女の隣で、泣きたい時も、泣くのを我慢している時も。

 俺がピアノを弾くと、あいつはいつしか泣き止んで、そして薄く微笑むのだ。

 その笑みを見たいがために、俺はいつも重いピアノを持ち運んでいたんだっけ?


 だけどあの日から、俺は天音を呪い始めていた。

 俺の地位を悪気なく奪い取るその様は、まるで悪魔のように映っていた。

 いつしか気軽に誘った俺自身をも憎むようになっていた。

 そうして自分を憎んで、彼女を呪って恨んで勝手に遠ざけていた。

 それがどんなに彼女にとって酷で、酷い行いだったのかを知らないままで。


「……」


 ──どうして、こうなってしまったんだろうか。


 色んな感情が駆け巡る。律のせいか、それとも俺がピアノに触れたからか。

 もしもピアノの神様がいたとして、俺みたいな不届者が触ったからその罰なんだろうか。


 ……いや違う。いずれ来る出来事だった。

 いつまでも隠しては置けないし、ただその日がちょうどこの時だったということだ。

 たった──それだけの──こと。


「くそっ」


 あれから三日が経過しようとしていた。

 ゴールデンウィークももう終盤。だと言うのに、俺と天音の関係は最初の様な、否それ以上に冷え込んでいた。


 おはようと言えば返してくれる朝が、美味しいと言ってくれた昼が、お休みを言ってくれる夜が来ない。


 天音は塞ぎ込むように、俺と目を合わせようとせず、部屋の隅で蹲っている時間が増えた。食事は徹底的に避け、特に俺と一緒に食べることは無かった。

 もとより食が細く虚弱体質な天音だ。一食抜けば当然元気は無くなっていくし、水すらも絶っているからふらりと倒れてしまいそうだった。流石にやつれていく天音を見るのが心苦しくなった俺は家を空けることが多くなっていた。


 俺が作った食事だと手を付けてもらえないことは分かっているので、分かりやすい位置にカップ麺やレーション。ミネラルウォーター等を置く様になった。


「はぁ……」


 今日も昼から外に出ている。バイトはない。

 僅かな金を持って俺はとある場所へと行っていた。

 電車で二駅離れた場所。閑静で荘厳な家が立ち並ぶ住宅街の中、俺はとある一軒家のチャイムを押す。


「はーい」


 奥から聞こえる声。茶色の可愛らしいデザインの扉の向こうから現れたのは──長い髪を靡かせた一見お嬢様と見間違うような格好をしている少女。


「先輩っ! さあどうぞ! 準備は出来ています」


「すまないな結衣……今日もピアノを借りてくよ」


 このゴールデンウィークを天音のために使おうと思っていた俺は、結衣の家に来ることが最近の日課となっていた。


 ◆


 高い費用をかけて作られた堅牢で硬質な白色の地下室。

 その中央にはポツンと一台のピアノだけが置かれていた。

 シンプルなアップライト型の、よく調律が施された市販のピアノ。

 随分と長く使い込まれているのがよく分かる。音の一つ一つに彼女の人生が乗っているような気がする。


「しかしビックリしましたよ。いきなり先輩が私を求めてくるなんて」


 傍にある椅子に座って楽譜を読んでいる結衣がそう言った。

 学校ではツーサイドアップなのだが、家ではラフに長髪らしい。

 なんだか学校では見られない後輩の一面が見れた感じで、少し新鮮だ。


「……言い方。まあ元よりそういう予定だったんだよ。ちょっと前倒しになっただけで」


 俺の家にはピアノがない。それに、天音がいる以上家の中では弾けないと分かった俺の頭には二つの手段があった。一つは学校の音楽室で弾くこと。これは平日の時に利用しようと思う。そしてもう一つは──結衣のところにお邪魔するというものだ。


「いくら連絡先知らないからって、仕事用のメールアドレスで来ないでください。……まあでもこうしてまた先輩がピアノを弾いてくれるなんて嬉しいです。何の心境の変化ですか?」


「色々とね、あったんだよ」


 流石に天音のことは言えなかった。俺は続けて指を動かし続ける。

 今やっているのは指の練習だ。同じメロディーを何度も往復する。

 スタッカートにしたりフォルテにしたりとアレンジを加えたりして。

 何分も何十分も、一時間でさえやり続ける。


「今更な話だけど、ありがとうな」


「何がです?」


「あの時俺を誘ってくれて。俺にもう一度、ピアノをやる楽しさを思い出させてくれて」


 いつだってきっかけは結衣がくれた。彼女がバトンを渡してくれた。

 あの時弾いた曲は思い出すだけでも恥ずかしいけれど、あの時の、万感の拍手に包まれたあの感覚だけは今でも残っている。


『私のせいで……ゆうくんが、ピアノを弾かなくなっちゃったんだって』


 ……それと共に、あの言葉絶望も延々と蘇っては俺の心を突き刺していく。

 俺はあの時、なんて言っただろうか。……気休めでもいいから『違う』とでも、言えばよかったのか。あの時の俺を無視して、殺して、そんな言葉で取り繕るのが正解だったのだろうか。


 だけどそれは結局逃避だ。いつまでたっても変わらない。あの頃と何もかも。


「それにしても、驚いたよ。まさか結衣がピアノ系動画配信者だなんて。しかも結構人気じゃないか」


 闇を振り払うかのように、俺は平静を装って結衣に尋ねる。


「最初はストリートで弾いてたんですけど、いつの間にか人気出ちゃって……仮面とかで偽れば大丈夫かなと」


 確かにそれは一理あるだろう。あの時の結衣は話し方も雰囲気もまた変わっていた。

 俺はこの数日間彼女の傍で彼女のピアノに浸っていたから分かったものの、あれがなければ俺も気づけなかったはずだ。


「そういえばあの後、久遠律さんが伴奏を演奏してくださって」


「なに? あいつが?」


 あの人を食って掛かるようなやつが、そんな殊勝なことを?


「ええ――『騒ぎを起こしてすまなかった』と。おかげでえらい人だかりができてしまって、解散するのが大変でしたよ」


 意外……といえばそうだった。そんなことをするやつだとは思えなかったからだ。他にも結衣は律から自分のコンサートのプレミアムチケットを貰ったらしい。確かにあの発言でだいぶ場は白けたというか、ちょっとした放送事故みたいなものだ。


 結衣は「アーカイブは公開しません」と言うが、あんなの公開したら二重の意味で有名になるだろう。


「しかし……良く許してくれたな。こんな時期に頼む俺も非常識だとは思うけど」


 結衣はコンクールを控えている。六月にあるもの。大きなコンクール。

 ……そのコンクールは、俺がその昔小学生の部で初めて行ったコンクールでもある。

 格式は高く、最終まで行くのにどれほどの人数が蹴落とされたか。だがその分勝ち上がった時の影響は大きい。事実、俺はそれで名を轟かせ外国への足掛けとなったし、あのコンクールから活躍したと言うピアニストは多い。


 それはもちろん……律も然りだ。

 少しだけ表情を固くする俺とは正反対に、結衣はあははと笑いながら。


「お母さんは……先輩の隠れファンですから」


 そんな切なそうに笑う結衣に、俺は少し居た堪れなくなった。


 ◆


「それじゃあ先輩、また明日」


「ああ。ありがとうな」


 時刻は午後の七時。午後の一時から七時までの六時間、俺は彼女の家でピアノを弾いていたことになる。無論その時間全部ではなく、休んだり、彼女と他愛もない会話をしたり、彼女のピアノを俺が聴いて、都度修正したり……そんな感じだ。


 結衣に見送られながら俺は一人歩く。

 そういえば、俺は結衣の母親にあった事がない。

 元ピアニストだと言う結衣の母親だが……あの家にはそんなことを象徴するようなものは一つも無かった。幼い時から母親と一緒にやっていたという結衣の言葉には嘘はないと思う。だけど、あの家では──ピアノを推している割に、どこか薄っぺらさも感じてしまうのは確かだった。


「いやまずはそれより天音のことだよな」


 思考を切り替える。それと同時に見ないふりをしてきたどうしようもない現実いまが襲いかかってくる。俺はあの時──何も言えなかった。嘘ではない。本当のことだったからだ。俺は勝手ながらとはいえ傷ついたわけで、やめたわけで、それを『嘘』と誤魔化すのは嫌だった。


 俺は嘘をつきたくたい。天音も、自分自身にも。


「よーぅ、バカ息子」


 電車を降りトボトボと、どうしようかと悩む俺の背中に、その声は掛かった。

 聞き慣れた声色、バッと思考よりも先に振り返る。そこにいたのはヨレヨレの白シャツとピッシリとした黒色の背広に身を包まれた、無精髭を生やしただらしなさそうな男が、駅前に立っていた。


「帰って……きてたんだ」


 八柳御遂やつやなぎみとげ──俺の父親。


「おう。しかし見ない間にデッカくなったなぁお前。身長今何センチよ」


「今は、だいたい百七十七……」


「はっはっは。あと数センチでオレを越すな。悠」


 勢いよくバンバンと背中を叩く父さん。汗と少しの制汗剤の匂いがする。懐かしい感覚に、俺は少しだけホッとしたような安堵感を覚える。


 だがそれも長くは続かず、父さんはぐいっと顔をこちらに覗かせて、口を開いた。


「それで? どうしてお前がここにいるんだよ──天音ちゃんを放っておいて。ええ?」




















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