終の夢


 思えば俺と久遠律の出会いは、最初のコンクールでの順位表だった。

 俺にとっては初めてのピアノのコンクールで、一位。

 そして律は二位。恐らくその時から彼との因縁というか、奇妙な間柄は始まったのかもしれない。


 だがこれといった会話なんてない。

 周りなんて知ったこっちゃねえ精神でコンクールを荒らしまわっている俺と、ただ黙々と睨むように順位表を見ている律。そこに会話なんてあるはずもなく、ただ彼のその異様な視線だけは、俺の心に残っていた。


 だが歳を重ねるにつれ、アイツとコンクールで顔を見合わせる度に、俺の心に荒波が立っていたことは間違いない。まだ心の中に優越感が残っているものの、確実に着実に実力を伸ばす律に少しばかり気圧されたのは間違いない。


 そんな関係に終止符が打たれたのは、やはりあの時のコンクールだろう。

 天音が一位で、俺が二位、そして律が三位という順位に、俺は愕然として、絶望して

 ──そして律も同じ気持ちだったのだろう。それとも──いつもみたいに、不機嫌な表情を浮かべていたのだろうか。俺には分からないけど。


 ただこれだけは言える。

 天音の台頭から、俺の同期の九割がピアノを辞めた。

 そしてその中でも生き残り続け、貪欲に喰らい続けてきたのがあいつだということ。


 全てを喰らい尽くし己が糧にする。


 それが『貪欲のピアニスト』──久遠律だ。


 ◆


「答えろよ八柳悠。なぜお前がそこにいる? どうしてお前がピアノを弾いているんだ?」


 律の登場に会場は静寂を保ちきれずにいた。

 ヒソヒソと話し声が至る所であった。


「久遠律だ」


「去年の優勝者」


「海外にいってたんじゃないの?」


「戻ってきたんだよ。ほら数ヶ月前にあったコンクールで優勝したから」


「怖い……」


 久遠律という存在は、同業者からしてみれば知らないものはいないぐらいの知名度を持つ。有名度では恐らく天音には負けるだろうけど、長く日本で活動してきている分、知名度では律の方が圧倒的に上だろう。


 だが観客の心にあるのは恐怖ばかりだ。

 律のピアノは観客の心を癒すことはない。悲しみに寄り添うようなものでは決してない。むしろその逆で、エナジードリンクをぶち込まれたかのように、その音色を聞いた人々はその音に戦慄し、恐々し、興奮するのだ。労りなんてものはなく、終始ぶっ飛ばす様な、聴衆を置き去りにする様に演奏する。


 奇抜な言動でファンの数は少ないものの、その分コアなファンが多くいる。

 天音を天使だと喩えるなら、律は悪魔と言っても過言ではないだろう。


「八柳悠……? 誰それ?」


「ばっかお前知らないのかよ? 八柳といえば『天才モーツァルトの生まれ変わり』とも言われたピアニストだよ!」


「史上最年少で全国コンクールの頂点に君臨した男の子」


「その後も数々のコンクールで一位になった人」


「史上最年少で海外に行って、そこでオーケストラの伴奏を任されたらしい」


「あの世界的に有名なJ・R・ロバートが感動して多額の資金援助もしたそう」


「個人での演奏会も予定されてたらしい」



「「「「「けど五年前のコンクールで辞めちゃった」」」」」



 …………。


「どこかで見たことがあると思ったら、そういうことか……」


「八柳悠……あの方のピアノ、小生も一度拝聴したことがありましたが、まさに感動。涙腺崩壊で涙が止まらなかったですぞ」


「当時でも海外活動は異例中の異例ですからな……しかもその先駆者となった人が辞めたと聞いた時は驚きました」


「でも確かにどうしてここに……? しかもこんなゲリラライブに来るようなこと、今までありましたかな?」


「いやそもそもピアノ自体を避けていたような。あれだけの腕がありながら、少しもったいない気はしていましたが……」


 声が、聞こえる。

 誰かの声が、言葉が、遠慮なしに容赦なく俺の心の中に入ってくる。

 それらはすべて正しい。俺は多くの人たちの期待に背を向けてしまった。


「また逃げるつもりか八柳。お前が神坂天音に負けてピアノを見捨てたことはみんな薄々気づいているよ」


 そしてまた、俺は逃げようとしている。

 律の声は小さいものの、ハッキリとよく通る声だった。

 今更だが、こいつと何かを話すのはこれが初めてなのかもしれない。


「いや逃げてもいい。僕は昔からお前が嫌いだった。僕の上にいるから? 違う──お前からは何も得られなかった。それだけならまだいい。だが己の『芸術』を棄てた今のお前はもう眼中にない。遅ればせながら──失望したよ八柳悠」


 じろりと、不健康そうなクマのある濁った瞳で俺を睨みつける。

 七三分けにした髪型はいつもの通りで、昔の頃は確か眼鏡をかけていたはずだ。

 随分見ない間に、色んなところが変わっている。もう既に律はあの過去を乗り越えたとでも言うのか。


「五年前自分の幼馴染神坂天音に負け、そのたった一回の敗北で、全てを棄てて逃げた挙句、こんなピアノを弾きやがって……そうじゃないだろう。お前の『芸術ピアノ』は」


「……俺は」


 俺は律の目を真っ直ぐ見て、マイクを切った。


「俺は逃げないよ」


 逃げない──俺はもう逃げない。

 過去からも、そして現在からも。

 だからこれは準備だ。俺が俺のピアノを手に入れるまでの……準備なんだ。


「それじゃあ、ありがとうございました」


 俺は最後に結衣にそう言って、壇上から降りる。

 律の元へは駆け寄らない。俺は周囲の視線を振り切るかのように、急いで上階の方へと走り去ろうとする。


「ゆうくん」


 その時。通り過ぎた円柱の陰に隠れるように、そこには天音がいた。

 柱に寄りかかって、次の曲が流れるあのピアノのステージから見えない位置に、天音はいた。


「あ、天音……」


 なんで──ここにいるのだろうか。

 嫌な予感がして、ぐっと肝が冷える感覚がする。


「ご、ごめんな。あのイベントちょっと見てたら遅くなっちまった」


 どうしてここにいるのだろうか。

 もしかして──聞かれていたのか、全て。

 天音は項垂れていて、その表情を伺うことは出来ない。

 俺は必死に取り繕うかのように、関係のないフリをしていた。


「あのピアノ上手だったな。最近じゃクラシックなんて分からないような奴が増えてきているけど、それでもちゃんと弾きこなすのは驚いたよ」


「うん……そう、だね」


「いやーしかし分からないもんだな。俺も長くここを利用しているけど、こういうイベントは、しかもピアノは久しぶりに聞いたよ」


 口が乾いてくる。

 冷や汗が止まらない。

 天音はその場から動かずに、ただ淡々と俺の言葉に相槌を打っていた。


「ピアノ、上手だったよ」


「……あ」


 聞かれていたのか──あのピアノを。

 ドクンと心臓が大きく脈打つ。

 後頭部を掻きながら、俺は視線を逸らして言葉を紡いだ。


「あ。ああ! ……よく、分かったな」


「いつも隣で聞いていたピアノだもん。分かるよ」


 時間さえあれば、俺はいつも持ち運べる電子ピアノを天音の家まで持ち込んで、彼女のベッドの隣で弾いていた。天音はいつもそのピアノを聴きながら眠っていたんだ。そして起き上がればいつものように「私も弾けるかな」なんて、言ってたっけな。


「久しぶりに弾いたんだ。無理やり頼まれてな。連弾なんて数えるくらいしか弾いてないから……でもやっぱり楽しいな」


 今ならまだ間に合う。

 まだ、まだなんだ。まだ間に合うんだ。間に合うはずだ。

 ここで言わなければいけない。俺は荷物を持ち替えて、利き手を天音の前に差し出した。


 いつもの行為。俺が手を差し出して、天音はそれを受け止めてくれた。

 いつも。いつも……今日だって、繋いできたはずだ。


「なあ天音。無理に弾こうとは言わない──だけど一緒にもう一度、ピアノをやらないか? やっては……くれないだろうか」


 これからの思い出を重ねていこう。

 天音の心を癒すために、俺の過去を乗り越えるために。

 二人で戦っていこう。戦っていきたいんだ。

 まだ大丈夫だ。俺と天音は──まだ、大丈夫なはずなんだ。


「……ごめんなさい」


 だけどもう。

 事態はとっくのとうに進んでいて、俺はそれに気づけなくて。

 あの夜星に祈った願いは砕けた。


 天音はその手を取ろうとしたが、しかしその手をもう反対の手で押さえた。

 まるで取ってはいけないかのように。自戒するかのように、自壊してしまうくらいに。


「ゆうくんは、優しいよね……っ。こんな私にも優しく手を差し伸べてくれて」


 それは静かな、しかし確かな拒絶だった。

 喉の奥で掠れた声が漏れる。

 天音は今、何を言った?


「でももういいよ──無理しないで、ちゃんと言ってよ」


 白銀の髪が揺れて、前髪に隠された青の瞳が微かに見える。

 彼女の瞳は潤んでいて、今にも、今にも眦から涙が溢れ落ちそうで。


「私のこと大嫌いだって……全部、私のせいだって」


 そして透明な涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。

 気づけば──あれだけ煩かった外音も。

 微かに聞こえるピアノの音色も消え失せて。


「私のせいで……ゆうくんが、ピアノを弾かなくなっちゃったんだって」


 その言葉絶望だけが、逃げ続けた応報アクトが、今度こそ容赦なく俺を突き刺した。



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