先輩の意地


 ショパンエチュードOp10の始めにあたる作品10-1は有名な曲であり、しかし意外に難易度が高い曲として知られている。

 その理由は簡単で、右手は常に大きく開いていないといけないからだ。

 故に手が広い演奏者にとっては楽だが、その分小さい人にとっては中々厳しい曲だといえる。


 つまるところそう――右手の拡張。


 手が小さい結衣には厳しい曲だということを、残念ながら俺は弾き始めた瞬間に察してしまった。


 だがしかし。


 そこで躓くほど折月結衣おりづきゆいというピアニストは、生半可な奴じゃないということを、俺は改めて知ることとなる。


「おおお! あの序盤の難所を見事弾き切るとは!」


 流れるような指のタッチ。

 とても片手では捌ききれない――だがこれは連弾で、故に通常のピアノでは出来えないことができる――両手弾きクロスハンド奏法。


 これで本来であればミスの一つでもしそうなところをノーミスでクリアしやがった。


 ……いやそういえば言ってたじゃないか。

 幼少期にやっていたと。

 弾き方については分かっていたのだろう。


 すると結衣が僅かながら視線をこちらのほうに寄せてきた。

 仮面越しだが分かる――どやぁって感じだ。

 いやお前は最初から弾けること知ってたし? 全然、心配なんてこれっぽっちもしてないんだが?


 ……だがまあ。


 俺も負けていられないな。


「おー……しかし何ですかな。通常のエチュードは我らも知っていますが、案外連弾となると意外と簡単になるんですな」


「いやよく見てござれ。鍵盤の位置の関係上、指と指が当たってしまう箇所が多いですぞ。上手に聴かせるには互いに自重するかどちらかを目立たせないといけない。となればここは一番経験があるYUIちゃんが補助にいかないといけないはずなのに……」


「全面的にYUIちゃんが前に来ている。いや主旋律だから当たりまえですけども……あの少年何者ぞ?」


「目立つことなく影に徹する。YUIちゃんの為でしょうな。だけどそれは相当の実力でないと考えられない発想……しかしあの少年、どこかで見たことがあるような……」


 順調な滑り出しからスムーズに中盤まで持ってこれた。

 俺のほうも楽譜を見ながらだが何とか追いつけている。

 改めてこの曲にしておいて正解だった。なに、確かに単独で弾くには難しいが、こうして連弾であれば本当に弾きやすい曲だ。


 ピアノの調律も申し分ない。

 ちらりと隣の彼女を見ると、彼女は真剣な表情でピアノを見つめていた。

 そうだ。これが結衣のピアノだ――俺という雑音がありながら、彼女の音は鮮明に聞こえる。


「あっ」


 しかし長くは続かなかった。

 疲弊したせいか、それとも俺がワンテンポ遅れたからか……指と指が触れ合い、本来彼女が弾くところが抜けてしまった。

 ほんの一秒にも満たない一瞬の中、彼女は苦しそうな顔を浮かべる。


 普通の痛がり方ではない。

 それは長年やってきた俺だから分かることだった。


 ――もしかして、なにか指でも痛めてしまったのか。


 プロでも間違えるときは間違える。故に、こういう時一番大切なのは素早く頭を切り替えて弾く精神の技量だ。

 しかし結衣は――違った。震える指を見つめながら唇を固く閉ざす。

 やってしまったというより、何か体の不調を感じ取ったような、そんな表情だった。


「あれ……?」


「どうしたのかな……?」


「ミスった……?」


 早く弾き続けなければ、もうすぐ次の節が来てしまう。

 観客も不穏な空気を察したのか、音のない中、そんな騒めきだけが聞こえて……。


「結衣……」


 目と目が合う。

 不安と申し訳なさが混ざったような視線。

 謝るなよ、お前が悪いんじゃない。だけど早く何とかしなければならない。

 結衣の不調を察したのか、端っこのほうでカメラを持っていた二人の少女が駆け寄ろうとしていた。


「――あ」


 ポロンと小さな音一つ。

 俺は彼女の弾く領域にまで手を伸ばしていた。


「まさか――」


 結衣が俺を見た。察したのか、刹那、色々な感情が混ざった表情を浮かべて、小さく頭を下げた。そうして席から離れて――そこで観客は俺が何をしようとしているのかを理解した。


「「「ここで本来のエチュード!?」」」


 結衣がミスしたところの弾きなおしではなく、あくまでその続きを単独でやる。

 そうすれば今の静寂も何もかも合わさって――として錯覚できるからだ。


 だがそうなれば俺は失敗はもちろんのこと、彼女と同等か、あるいはそれ以上の技量を見せつけないといけない。そうしなければ満足させられない。


「だけど……あの少年、楽譜を用意して貰った辺り、エチュードを覚えていないのでは?」


「連弾用のエチュードは覚えてない……という線もあり得ますが」


「いやしかし……それにしてはあの少年、えらく楽譜と睨めっこしていませんか?」


 俺はエチュードを覚えていない。

 微かな記憶を頼りに、震える心を黙らせて、そして――。


「まさか……?」


「いやまさか。そんなのあり得ない。そんなこと出来るくらいならエチュードを覚えた方が早いですぞ」


「そ……そうですな。まさか引退して久しぶりに弾いたプロ級のピアニストじゃあるまいし……しかもそんな舞台で弾こうとするバカがどこにいるって話ですな」


 楽譜から読み取れる箇所から、記憶を頼りに本来のエチュードを想起させる。

 吟味する時間すら惜しい。今自分が弾けていること自体奇跡みたいなものだ。我に帰ってしまったらもう弾くことすら出来ない。


 もちろん、これはコンクールでもないしコンサートでもない。

 飛び入り参加型のものだ。ここで間違っても誰も文句は言わないだろう。


「……でも」


 俺は許さない。先輩として、結衣の舞台に上がって間違えることなんて、許せない。

 それが例え彼女自身が許したとしてもだ。


「先輩……」


 緊張と不安のさなか、俺の心を一定に保とうとしているのは白と黒の鍵盤だった。

 随分と久しぶりに、間近でみた鍵盤は照明で照らされて、より一層滑らかさと美しさを醸し出している。


 演奏者にしか見えない世界。見えない景色。想定も計り知ることもできない極地。

 不思議だ――たった八十八の音、しかしそれらは人の手で旋律へと生まれ変わり、やがてそれは色が付く。その色は演奏者によってさまざまで、無色透明のただの音が、旋律というものに変わって鮮やかに彩られる。


 ――もしも音で人の心を動かすことができる人がいるのならば、きっとその人は音楽のことを愛しているのだろう。


 思いが籠った行動は人の心を動かせる。

 ならば俺は――今、誰に向かって弾こうとしているのか。

 ここにいる人たちか? カメラの向こう側にいる視聴者たちか?


 それとも、ただ失敗を恐れるあまりメトロノームの如く弾こうとしている俺に向かってなのか……?



「ゆうくん……?」



 もしもこの場にいるのならば。

 いや、いなくてもいいや。

 俺が想う相手は一人だけ――彼女一人に届けられればそれでいい。


 なあ天音……あの日のこと、ずっと後悔していたんだ。

 お前に会いたくなくて、拒絶して、そして傷つけた。

 ごめんって言いたい。お前に、あの日のことを、今までのことを。謝りたいんだ。


 俺は臆病だから、今はまだ──言葉にいい表せない。

 だけど必ずお前に言うから。お前に伝えるから。

 だから今は少し待っててくれ。こんなもんじゃダメだ。もっと……もっと練習しないとな。


 ◆


 気づけば最後まで弾き終えていたようで、俺は鍵盤から手を離して立ち上がった。

 拍手が湧き起こる。あまりにも久しぶりなことで、俺は一瞬自分が何をすべきか忘れてしまった。


(あ、そうか……お辞儀するんだった)


 思い出して、頭を軽く下げる。

 なんだか気恥ずかしい。観客は最初に見た時よりも随分と多くなっていた。

 こんな人たちに俺は、あんな……あんな出来栄えのものを。


「ありがとうございました〜! いや〜本当に助かりました。凄い腕前ですね」


「は、ははは……いえいえこちらこそ。急なソロの変更に対応してくださりありがとうございました」


 あくまで、予定調和。演技として話す俺に結衣は察したのか、話を合わせてくれる。

 演奏者との軽いトークショーという訳ではないが、結衣と俺との会話は少しだけ長かったように感じられた。俺としては早く待っているであろう天音の元へと行きたいのだが……。


「おっと予想以上に長くなりましたね。失敬失敬。それでは皆さん、この若き才能あふれる未来のピアニストに拍手を──」


 俺の少しそわそわした態度に結衣が気づいたのか、そんな言葉尻を添えて拍手を求めようとした、まさにその時──。


「ふざけるな」


 その声は冷ややかで、小さくて、だがやけに響く声だった。

 シンと静まり返る会場。すると観客の中にスペースが空いた。

 一人の少年だけを残して、まるでその人物を避けるかのように。


「その男はピアノから逃げた卑怯者だ。才能に胡座をかいて、天狗になった鼻をくじかれて、たったそれだけで逃げ出した奴だ」


 その少年は髪を七三分けにした堅物そうな男で、黒縁の眼鏡を掛けていた。

 俺はどこか……この男を見かけたことがある。それも幾度となくだ。

 男は続けていう。俺の過去を、俺の禍根トラウマを、罵るが如く。


 そして言った。


「僕は覚えているぞお前のことを。どういうつもりだ──『八柳悠』。モーツァルトの生まれ変わりとも揶揄されたお前が、かつて神坂天音にただ一度敗北しただけで、ピアノから逃げたお前が、どうしてこんなところにいる」


 反抗的な態度、その口の悪さ。その目つき。

 ああ思い出した──と言っても、全然話したことがないから、名前すらあやふやなままだけれど。


「お前もしかして……久遠律くおんりつか?」


「まだ覚えているとはな。そうだよ、僕が久遠律だ」


 久遠律──俺と同じくコンクールの常連でもあり、常に俺の下にいた男。

 こいつの評判だけは知っている。話したことはないが、いつも俺に嫉妬の眼差しを向けていた男として認知していたから。好きとか嫌いとかそんな感情すら抱く前に、俺はドロップアウトしていたから。


『悠見てみろ。今年のピアノコンクールの一位は彼だ。いつも君の下にいた彼が、まさかここまで成り上がるとはな──』


 去年の瀬戸先生の言葉も同時に蘇ってくる。

 その時は僅かながらに驚いたものだ。俺からしてみて律という男は──極めて突出とした才能を持ってるピアニストでは全然なかったからだ。


 しかしながら。


 ──去年の全国ピアノコンクールにて、律は齢十六歳にしてその頂点に君臨した。


 俺の行けなかった領域ステージへと、天音たちといる階位レベルにまで成り上がった男。


 それが久遠律──俺の知る中で一番ピアノに貪欲なピアニストだ。



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