夢を捨てたピアニスト
あれは五歳の時だ。
三歳の時から通っているピアノ教室で、大きなコンクールに行くことになった。
俺はなんとなしに親に頼み込んで、出場することになった。
とんとんと試験を乗り越えて、ついには全国大会まで。
初めて着るちゃんとした服に、厚底の靴。
髪を少しワックスで整えて、香水まで付けて、その時の俺はなんだか凄そうとしか思っていなかった。
その会場には様々な子どもがいた。
眼鏡のやつ、お嬢様みたいなやつ、その他諸々。
最初は発表会みたいな感じかと思って、でもなんだかそいつらの顔は真剣そうで。
あの時は子供ながらに戦慄していた。
そんな緊張感の中、俺は――一位を獲った。
無名のピアニスト。否、まだピアノを初めてたった二年で、俺は高学年の子よりもピアノが上手いということを証明してしまった。
「素晴らしい! 君は天才だ!」
その後もコンクールなどに出席するたびに、多くの著名な有名人が俺の方に集まって、俺が一度でもピアノを弾けば全員が感動していた。
いつしか『モーツァルトの生まれ変わり』だとも言われるようになって、俺は外国のコンクールにも足を運び、そこでも優秀な結果を残していった。
テレビでしか見たことがない人たちとも会ったり、中には俺の才能に惚れ込み多額の支援金を寄越してくれる人もいた。
楽しかった。自分が他の人とは違うということに、嬉しかったのだ。
俺が歩けば道を退いてくれるし、俺が弾けばその分だけお金が貰える。
別に貧乏ってほどではないけど、それでもお金はあるだけあったほうがいい。
「ゆうくん、凄い……!」
そんな俺をいつも褒めていたのが天音だった。
俺の親父が、天音の父さんと友達だった関係からか、物心つく頃からいつも俺の隣には天音がいた。
天音はいつも俺の演奏を褒めてくれて、はしゃいでくれる。
天音は肺の病気に患っていてあまり外に出られなかった。
いつも優しくて、不満があってもそれを決して表に出さないような子だった。
今思えば、それは父親を心配させまいとする彼女なりの優しさだったのだろう。
だから俺はなんとなしに言ってしまった。
「それじゃあさ、天音もピアノやろうぜ。簡単だからさ」
天音もピアノをやれば、少しでも気が楽になるかもしれない。
俺がそう言うと、天音は少し困ったような顔を浮かべて、そして小さく頷いた。
それが地獄の始まりだった。
◆
『だからさ、俺たちもそんなに時間が取れないからさ、それにこんなむさ苦しいおっさんよりかは、まだ同年代のお前の傍にいた方が良いかなって。天音ちゃんも了承していたぞ?』
「俺は了承してねぇよ!」
玄関前。父さんに改めて事の詳細を説明されて、俺はそう噛み付くように言った。
『いや言ったじゃねえかよ。天音ちゃんのこと頼んだぞって、頷いてたじゃないか』
数分前の記憶が蘇る。確かに俺は何かに了承していた。
……しまった。まさかこういうことだったとは。
それでわざわざ電話を掛けてきたのか。というか、それならもっと早く電話を掛けてこいよと言いたかったが、今回は俺が悪いのでなにも言えない。
「良いのかよ」
『なにが?』
「健全な男子高生と、女の子だぜ?」
賭けだった。万が一もないが、俺がもし天音を襲ったとしよう。
今はどうだかは分からないが、元々無口な天音のことだ。
脅せばなんとでもなるかもしれない。
……なんか想像するだけで最低な気分になってくる。
あの純粋無垢な、白百合みたいな細い体に?
あり得ない。だが、可能性はゼロではない。
その可能性は流石に親父も考えているはずだ。
少々お金は掛かるかもしれないが、それならまだホテル暮らしの方がまだ良い。
『お前はそんなことしないよ。合意ならともかく、お前は女の子が嫌がることは絶対にしない超クソ童貞だからな』
「……褒められてんの? 貶してんの?」
『半々だ。まあ、ともかくそういうことで頼むよ。とりま、このゴールデンウィーク中には俺たちも一回戻るからさ。その後改めて話し合おう』
電話越しから何やら騒がしい音がする。
どうやらまだ仕事中みたいだ。
だけどまだ納得がいかない。どうして、どうして天音は――。
『天音ちゃんは、お前と一緒に暮らしたいって言ったんだ。男だろ、格好いいところ見せてやれ』
最後に、親父はそう言い残して電話を終了させた。
ツー、ツーという音に、俺はため息を吐く。
「ゆう、くん……」
リビングにまで戻ってきた俺に、天音は申し訳なさそうな顔を浮かべながら、きゅっとワンピースの裾を小さな手で握り込んでいた。
「迷惑、だったよね」
……やめろ、その目で俺を見るのはやめてくれ。
お前は俺から全てを奪ったんだ。
お前にその自覚が無いとしても、お前がいると、俺はせっかく遠ざけようとしてきたものが襲いかかってしまいそうで、怖いんだ。
「……とりあえず、親父たちがこっちに帰ってくるまでの間だけな」
「う、うん。じゃあ、よろしくね――ゆうくん」
そうやって薄く笑みを浮かべる天音に、俺は知らず知らずの内にドキッとしてしまった。思えば、昔から天音は可愛かった。それがそのまま昇華されたように思える。
確かに、これなら『ピアノの天使』の異名も頷けるわけだ。
「その呼び方はやめろ」
だからここで線引きしておく。
もう俺は、お前のことを何とでも思っていない。
特別扱いもしない。友達だとも、幼馴染だとも思わない。
「もう子供じゃないんだ。俺も、お前のことは『神坂』って呼ぶから」
視線を別の方向に向けて、冷たくあしらうように言った。
「あっ……ぅ、うん」
その視界の端で、天音が今にも泣きそうな顔を浮かべていたが、俺は特になんの反応も示さなかった。
◆
感想⭐等よろしくお願いします。
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