天使のピアノ
神坂天音は天才だ。天才だった。
その才能は止まること知らず、俺が彼女にピアノを教えてから、ものの二年であいつは俺を超えてしまった。
やることがピアノしか無いせいか、あいつの上達速度は軒並み早くて、楽譜を覚えるのだって常人より早かった。年のせいで鍵盤に届かない箇所は、他の手で補うか、それこそ上手にアレンジするその才能に、俺は焦りを感じていた。
その時だろうか、俺と天音が徐々に会わなくなっていったのは。
俺はあいつを超えたくて、今まで以上に努力してきた。
それこそ、朝から晩までずっと鍵盤に齧り付いていた日もあった。
努力なんて面倒くさかったが、俺の中で膨れていた自尊心と言う風船に、針が刺さっていくような気がして、それを振り払いたくて努力してきた。
大丈夫だと、俺はモーツァルトなのだと。
幼い時にそうして囃された言葉を、今度は自分に言い聞かせるように。
それはまるで呪いだった。誰かにそうしろとでも言われたのではなく、俺は自分自身を守るためにその言葉を使っていたのだ。
そうしなければ、自分が崩れてしまいそうで。
自分が何も価値のない人間だと、思い込んでしまうから。
だけどその日はやってきた。
一位 神坂天音(十二歳)
二位 八柳悠(十二歳)
全国的に大きなピアノコンクール。俺以外にも様々な実力者が集い、競い合う場で、初出場である天音が一位に輝いた。
それはきっと素晴らしいことで、誇らしい出来事なのだろう。
多くのカメラが彼女に向けられる。
あまりの事態に、彼女自身もあまりよく分かっていないのだろう。
キョロキョロと誰かを探すように視線を過らせて、そして俺と目が合った。
パァッと笑顔を浮かべる。頑張ったよと、言いたげに。
「おめでとう天音! でも次は負けないぜ」
とでも言えば良かったのかもしれない。
いや、そう言おうと思ったんだ。暴れ回る感情を押し隠して、少なくとも彼女だって頑張ってきたんだから、俺はそれを褒めなければいけない。
だって頑張ってきたんだから。
【――それじゃあ、自分の頑張りは無意味だったのか?】
そう思ってしまったら、もうあとは止まらなかった。
俺は彼女の笑みに耐えきれなくなって、会場から出てしまった。
外は快晴だった。傾く夕陽が、まるで彼女を祝福しているかのように感じられて、俺は大声を出して走っていた。
「どうして、どうして、どうして!」
家に帰り、手も洗わず俺は激情のままに俺はピアノの蓋を開けて鍵盤を叩く。
それはフォルテでもフォルテッシモでもない。ただの怒りの発露。
徐々に鍵盤に触る指が握り拳となる。
「俺だって頑張ったのに、俺だって!」
万全な状態で挑んだつもりだった。
多くの時間を、友達との遊びやゲームなどではなく、その全てをピアノに注ぎ込んでいたつもりだ。だから今回も、俺の優勝で間違いないと思っていた。確信していた。
そんな暴れ狂う俺を、父さんたちはただ黙って見守っていた。
その日は、夕飯も食べずにずっとピアノに齧り付いていた。
天音のピアノが、まだ耳にこびり付いている。
それをかき消すかのように弾くが、それでも天音のピアノは残響し続ける。
「なんだよ……俺、生きてる意味ねえじゃん」
勝てないとわかった。
きっと、俺がこの先どんなに努力したって、天音には届かない。
なら俺が今生きている理由はなんだろうか。俺にはピアノしかないと言うのに、これぐらいしか取り柄のない人間なのに。それさえ奪われてしまったら、俺は――
「う、うぅ……あああああぁぁぁぁ………っっ!」
窓から差し込む太陽の光が、憎たらしいほどに眩しかった。
俺はモーツァルトではなかった。
そのモーツァルトの才能に嫉妬する、サリエリだったのだ。
そうして俺は、その日以降ピアノを触ることは無かった。
その後、着実に天音はその才能を遺憾なく発揮して、数ヶ月後には本格的にピアノに専念するために、天音の父親と共にフランスへと渡ってしまった。
ちなみに、天音が望んでいたわけではない。どうやら俺を超えうる逸材に目を惹かれたのか、向こう側からアプローチをかけてきたのだ。
「俺だってそんなこと、されたことないのに」
その時も、俺は親父たちに最後の挨拶をしてこいと口うるさく言われたけど、結局俺が天音に会うことは無かった。
なんで俺、生きているんだろう。
夢を打ち砕かれたはずなのに。
夢を捨てたはずなのに。
夢なんて、無いはずなのに。
◆
朝。規則的な目覚ましのアラームを止めて、俺は自分の部屋を見渡す。
勉強机にタンス。部屋の隅には筋トレ器具が転がっている。
ベッドの横には窓ガラスがあって、そこから眩い光がカーテンから漏れていた。
「────ぅ、」
現在の時刻は六時半。
ちゃちゃっとシャワーを浴びて、朝食を作って、七時半に出れば十分に間に合う。
いつも通りのルーティンに動くのは、我ながらとても気持ちいい。
まるで自分が立派に生活していると自覚出来るからだ。
「……」
リビングに入った俺は、ソファの近くで、小さな式布団の中で眠っている同居人の存在に気づいた。
そして、ようやく頭に血が巡って来たのだろう、俺は顔に手を添えて何とか心を静めようとする。
――天音の着ている薄青色のネグリジェが、少しはだけているのだ。
そこから見える美しいまでの白色の肌に、何故か鼓動が早くなる。
客人用の式布団で眠っている天音の素顔は、何というか微笑ましく、出来る事ならずっと見ていたぐらいだった。
「って、そんな事している場合じゃ無いな」
思春期の男子高校生は直ぐにエロに走る。
如何に彼女が可愛かろうと、美しかろうと、彼女は俺にとっての悪魔そのものだ。
どうしても彼女を見てしまうと、あの日のトラウマが襲い掛かって来る。
取り敢えず俺は寝ぐせを直すために、シャワーを浴びることにした。
◆
熱いシャワーを浴びたおかげで、幾分か考えが纏まった気がする。
昨日の夜は、あまりの出来事に何も作る気になれずお互いにカップ麺を啜っていたからな……まあ、当の天音は『美味しい』と言っていたようだが、恐らく内心は怒っているだろう。
そうだ、もっと怒ってくれ。そのまま嫌になって出て行ってくれ。
そう思いながら、俺はタオルで髪を拭きながら脱衣所から出ると――。
「あ」
「……っっ!?」
起きた天音と鉢合わせしてしまった。
銀色の髪には所々はねている部分がある。
天音はビックリしたような表情で俺を見つめていた。
「ゆう……や、八柳くん、どうして脱いで……っ?」
ヤバい。今の俺上半身裸だ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。今着替えてくるから!」
俺の部屋はリビングの所にある。
慌てて自分の部屋に入って、大きく息を吐く。
危なかった……下半身はまだタオルを巻いたままだったから良かったものの、これが本当に裸だったら――
「て、なんで俺が……」
呆れてしまう。自分自身に。
俺は意識を切り替えるように両頬を軽く叩くと、その後、制服に着替えた俺はまだ顔を赤くさせている天音を素通りして、キッチンの方へと向かう。
「あの、なにか……」
何か手伝おうとする天音に、俺はいいと冷たくあしらう。
「あま……神坂はそこでじっとしてろ」
今日は簡単なものでいいか。
食パンを一枚トースターに入れて、その隙に卵を一つフライパンに落とす。
醤油を少し回しかけたりして、白身が固まり黄身にも熱が通った所を狙って、俺はそれを平皿の方に移す。
焼き上がった食パンを目玉焼きの隣に乗せて、解凍したミックスベジタブルを申し訳程度に乗せる。
「……しまった」
そこで俺は忘れていた。この家には今俺以外にもう一人いるのだ。
流れ作業でやってたから、一人分しか作ってないことに気づく。
如何に俺が天音の事を考えていない事が分かった。
俺は出来上がった皿を見て、続けて時計を見た。
時刻は七時十分を超えている。
「……食ったら、台所の方においてくれ」
作る時間も食べる時間を計算して、間に合いそうにも無かったので、俺は泣く泣くそれをテーブルの上に置いた。
「八柳くんは……?」
「俺は学校がある」
俺はそう言って、取り敢えず天音に一万円札を渡した。
これで昼食を取れという意味だ。
もちろん昼食だけではなく、何か困ったらその金で……という趣旨も含まれている。
「これだけあれば足りるだろ。あまり外に出るなよ。……ただでさえ、今のお前は弱っているんだから」
天音の肺の病気は、日常生活を送る上では何も心配はないのだが、激しい運動など肺を大きく使うことや、長時間の活動だと軽い貧血を起こしてしまう。
それに天音はどうやら向こうでも、あまり活動的ではないようだ。小枝のような体を見ながら、俺は少しだけ推測った。
それに……まだ、心に余裕があるわけが無いだろう。
「い、いってらっしゃい」
わざわざ玄関まで見送る天音に、俺は何も言わずに扉を閉めたのだった。
◆
「あれ珍しいな悠。お前がそんなに頼むなんて」
四時間目の授業が終わって、現在昼食の時間。
俺は学食に来ていた。カツ丼とミニうどんのW炭水化物のセットを口に運ぶ俺に、後ろから圭が声を掛けてきた。
「朝作るの忘れてたんだよ」
流石に幼馴染の女子と同居することになったとは言えないから、俺はそんな感じで誤魔化すことにした。
「珍しいこともあるもんだ」
圭はへぇと本当に珍しそうな顔をしてから、白髪の髪を少し整えて、俺の正面の席に座って弁当箱の包みを開け始める。
圭――本名を
俺の過去を知る唯一の友達といってもいい。
「その弁当。お前の彼女が?」
圭はいつも学食で食っているから、彼が弁当を持ってくることなど珍しい。
圭は俺と違って陽キャだから、当然の如く彼女がいる。
確か他校の子だったような気がするが……俺も一度ぐらいしか会ったことがない。
でも可愛かった気はする。
「そうそう。俺のためにわざわざ朝早くから起きて……いやぁ幸すぎて困っちまうな」
「はいはい。惚気続けるんだったら別のテーブルに行くぞ」
まあ、仲が悪いよりかはマシなのだが、顔を見合わすたびに惚気話を聞かされるこっちの身にもなってくれ。
「ちょっと待ってくれ。実はお前に伝えることがあって来たんだ」
「俺に……?」
「とぼけちゃって……お前がいなくなった後、ウチのクラスに一年の女の子が来てさ、開口一番『八柳先輩はいますか?』って。ほら、お前が部活やってないことは知ってるし、野暮用とかだったら
瀬戸ちゃん先生とは、本名を
「いやまさか……接点が無さすぎる」
俺は首を振りながらその可能性を否定する。
この学園に入ってもうじき三年が経過しようとしているが、それでも俺の交友関係は広まらず、ましてや年下となんて
「案外一目惚れとかだったりするかもだ。ほら、お前黙ってれば顔はそこそこ良いし」
「なんだそこそこって、馬鹿にしてるのかよ……で、その後輩の名前は?」
「確かなー、
特待クラスというのは――ここ『
何か一つでも才能があれば、それを全力で育てる教育コース。
そこから多くの天才が排出される、いわゆる天才御用達コースというわけだ。
彼らは基本的に登校義務がない。
その才能さえ伸ばせれば、あとの学業は一切免除してもいいというのだ。そのため多くの人々がその試験を受けているが、毎年通るのは三、四人のみという狭き門。
それが特待クラスだ。
「そりゃどうしてさ」
「学校中で俺の知らない女の子なんていない。だからもしかしたらなーって。ほらあいつらって基本的に学校来ないだろ?」
なんともなトンデモ理論だが、しかしこいつの直感は中々に侮れないところがある。先ほどの言葉も決して嘘や誇張表現というわけではなくて、この黒神圭という友人は、どういう訳か人と仲良くなるのが天才的に上手い。今だって、俺との会話中に何度も通りがかった生徒たちに声を掛けられている。
「……わかった、取り敢えずその子のことを探してみるよ」
なんにせよ、俺に用事があるということは、今後も俺の教室に来るかもしれないってことだ。変な噂が立つのは嫌だし、早めに見つけておかないとな。
「告られたらちゃんとOK言うんだぞ!」
元気そうに手を振って見送る圭に、俺はため息を吐きながら学食から出ていった。
◆
感想⭐等よろしくお願いいたします。
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