伝えたいこの想いは


 私、神坂天音の人生はいつだって苦しみと痛み、そして悠くんのピアノで溢れていた。


 生まれた時から虚弱体質で、綺麗な空は、みんながいる外には、私はいつもいなくて、だから窓の向こうから覗くことしかできなかった。


 悲しくて、理由もない苦しさが胸を押しつぶして、みんなと一緒になれないもどかしさがいつも体に纏わりついて。

 そんな中、悠くんのピアノだけが私の生き甲斐だった。


 悠くんのピアノは凄かった。神がかっていると言っても過言じゃないくらいに、悠くんのピアノには『世界』があった。聴いていると、頭の中に風景が浮かび上がってくる。それは空の上だったり、長閑な田園地帯であったり、川のせせらぎであったり、多種多様で色鮮やかな幻想が、そのピアノの中に秘められていた。


 私はいつもその空想の中で思い描く。

 お外でいっぱい遊んで、お日様の下で駆け回って、まだ見ぬお母さんと、私のことを一番に思ってくれるお父さんに甘えて。夜はお月様に見守られながら眠る日々を。

 ──そのかたわらに、大好きな貴方がいることを。


 自由だった。ピアノを聴いている時だけ、私はこの苦しい現実から羽ばたいて、自由に飛び回る蝶のように、羽ばたけていた。


 私だけに弾いてくれるピアノ。

 そのピアノを聴いていると幸せになれた。

 彼が私を思ってくれている──その事実だけで、お顔がニヤけちゃうくらいに幸せだった。


 だから、私もピアノを弾いてみたいと思った。

 貴方だけに送る、貴方だけの、貴方のためのピアノを弾きたいと。

 それはお礼でもあり、贖罪でもあり、そして私のしたいことでもあったから。


 彼と対等に立ちたいという、僅かな思いとともに、私はピアノを弾き始めた。


 ──それが、最悪な結末に至るとは気づかずに。


 ◆


『貴女がいるから』──いつだって、その言葉と共に私の身近にいる人はいなくなっていった。


 貴女がいるからピアノをやめた。  ──なら。

 貴女がいるから〇〇が傷つく。   ──私の存在意義は。

 貴女がいるから、努力したって無駄だと思い知らされた。 ──どこにあるの?


 幸せにしたい。せめて、私の曲を聴いてくれる人だけは、あの時くれたピアノの温もりと同じものを、届けたい。

 そう思って弾き続けた。当初の目的は完遂されずに、気づけば私は一人になっていた。


 でもいつしか私のピアノは、人を幸せにするのではなく、人の夢を終わらせるものになってしまった。


 彼ら彼女らがどれだけ努力したのか私には分かる。

 私より遥かに苦しんで、頑張って、あんなにも、あんなにも指にマメを作らせてまで、きっと私よりピアノに真摯で、ピアノが大好きなはずなのに──。


 それでも世界は、世間は、ピアノの神様は──私に微笑んでくれる。


『情けないわね。もっとシャンとしなさい。アタシのライバルならそうすべきよ!』


 エリちゃんはそう言ってくれるけど、そんなの私には無理だよ。

 誰かの夢を潰して、終わらせて、その上を踏み歩いて生きていけないよ。

 それが芸術の世界だって言うことは理解しているつもりだけど、それでも、それでも私は──。


『助けて……助けて、ゆうくんっ……』


 何度だって求めた。何度だって名前を呼んだ。

 一年が過ぎて、二年が過ぎて、三年が過ぎて、それでも大好きだった。

 それでも彼を待っていた。いつしか私の隣に来てくれることを、私の手を取って、導いてくれることを。


 だけど彼は来ない。


『お前のせいで、お前が大好きなゆうくんはいなくなってしまった』


 私が、終わらせてしまったから。


「ああああ、あああああ、ああああああっっ」


 涙が溢れる。後悔ばかりが胸を締め付ける。

 どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして──。

 神様は卑怯だ。私に微笑みをするだけで、それ以外を私から奪い取っていく。

 お母さんも、周りの人も、お父さんだって。


 みんな私のせいだ。

 私のせいで、悲しむ人がいる。苦しむ人がいる。

 あの時ピアノをやるだなんて言わなければ良かった。

 あのまま一人孤独で死んでおけば良かった。


 私なんて──いなくなれば良かった。


 ◆


「天音ちゃん。荷造りは終わったかい?」


 ゆうくんのお父さん──八柳御遂やつやなぎみとげさんに向かって、私はこくりと頷く。あれから何日が経過したのだろうか、後悔と懺悔だけを繰り返して、その時が来てしまった。学園に戻るのは少しだけ怖いけれど、それでもここにいるよりかは遥かにマシなのだろう。私は逃げるように、選択をしただけなのだから。


 キャリーケースを転がして、ゆうくんの自宅から一歩、外の世界へと出る。

 外は真っ暗で、御遂さんの大きな白い車があった。


「重いだろう? 後ろに仕舞うからね」


 そう言ってパンパンに膨らんだキャリーケースを取って、後ろのトランクへと乗っける。重い──あのキャリーケースは、本来は軽かったはずだ。あの時、ゆうくんの家に来る前までは。


「──っ」


 どうして重くなったのか、その理由は明白で、明白すぎるからこそ、私は唇を噛み締めた。本当におめでたい女──ゆうくんの優しさに甘え続けた、あまつさえ、それに気づかないでいたいやらしい女。


 白い車が緩やかに発車する。運転席に御遂さん。その助手席にゆうくんのお母さん──里弥さんが座っていた。


 御遂さんと里弥さんが何か会話をしていた。

 私はただ、窓の外の景色を眺めていた。


 ──結局、あの日からゆうくんが帰ってくることはなかった。

 そうだよね……私なんかに、会いたくないよね。

 あれだけ拒絶して、あれだけ我儘をして、あれだけ迷惑をかけた面倒くさい女の子なんかに、会いたくないよね。


「天音ちゃん」


「……はい」


 御遂さんは私に優しく語りかけてくれる。

 飛行機の手配やら学園の方まで、全部この人がやってくれた。

 私が――悠くんからピアノを奪った張本人だということを知っているうえで。


「フランスにもオレの友達がいるから、卒業後は日本に戻ってくるなり、そこで過ごすなり、どうであれ最後まで力を貸すよ。必要なものがあれば何でも言ってくれ」


「……どうして、そこまでするんですか」


 泣きたかった。泣く資格なんてあるはずもないのに。

 どうしてこの人たちはこんなにも私に優しくしてくれるんだろう。

 私は、貴方たちの息子を傷つけました。私は、私はこの手で自分の大好きなピアノを、大好きな人を終わらせたどうしようもない女です。


「そうだな――理由は二つある。一つは、君のお父さんに迷惑ばっかり掛けてしまったその恩を返したいから」


「お父さんに……?」


「うん。まだ悠が生まれる前からかな。天音のお父さん――理人さんにはとてもお世話になったよ。今のオレがいるのはあの人のおかげだ」


 私のお父さんと真逆のことを言っている。

 お父さんはいつも御遂さんに感謝していた。与えたつもりのない恩をいつまでも返そうとしてくれる、心優しい人だと。だから僕も彼に見合うような人になれるよう努力したい――と。


 私がそのことを伝えると、御遂さんは少し目頭を押さえていた。

 私には推し量ることができない二人の仲が伺えた気がした。

 やがて車は高速に入り、静かなエンジン音と密かに流れるピアノの音楽だけが辺りを包み込む。


「もう一つはね、天音ちゃん――君が悠の傍にいてくれたからだよ」


「……っ」


「君と悠の間に何があったのかは大体分かっているつもりだ。だから、その上でオレは天音ちゃんに『ありがとう』と言いたいんだ」


「ありが……とう……?」


 理解ができない。どうして? どうして? どうして私にありがとうを言うの?

 御遂さんはハンドルを操作しながら、窓の外に映る夜景を見ていた。


「余計なことをするなと口止めされてるからね。だからこれはおじさんの独り言だと思ってくれてかまわない」


「きっと君がいなければ、悠はとっくにだろうとオレは思う」


「確かにあいつの才能はすごい。親の贔屓抜きで見ても相当な部類に入るのだろう」


「――だけど一番ではない。最上ではない」


「だからいずれきっと大きな挫折が待っているだろうとオレは思ってた。その時悠はどんな選択をするだろうな……そう思ったとき、オレが懸念していたのは、あいつが本質的なものに気づけないで選択してしまうかなんだ」


 御遂さんは私の目をちらりと見て言った。


「悠がピアノをやり始めて、まず最初に言った台詞はな『どうやったら天音ちゃんを喜ばせるピアノを弾けるかな』だった」


「~~~~~~~っっ」


 そんなことのために、そんなもののために、こんなもののためだけに。

 悠くんは最初から私のためだけに弾いてくれた。

 私なんかのために弾こうとしてくれた。その事実だけで、天にも昇る気持ちだった。


あいつの思いを、あいつの気持ちを――あいつ起源はじまりをちゃんと覚えているか、忘れていないか……それが心配だった。物事の本質を、始まりの気持ちを気づけないまま進むことは、それがたとえどんなに成功したとしても決して満たされることはない」


「それに――さ、きっと悠は天音ちゃんがいなければピアノを始めることすら無かったと思うよ。だから両親オレ達から言わせてくれ」



「――天音ちゃん。悠の傍にいてくれてありがとう。ピアノを弾いてくれてありがとう。オレ達は悠のピアノも天音ちゃんのピアノも大好きだ。天音ちゃんさえ良ければ、察しが悪い息子だけれど、どうかこれからもよろしくお願いいたします」



 ̶私̶の̶ピ̶ア̶ノ̶で̶多̶く̶の̶人̶を̶終̶わ̶ら̶せ̶た̶。

 私はまだピアノを弾いてもいいの?


 ̶私̶は̶悠̶く̶ん̶を̶苦̶し̶め̶た̶。

 傍にいてもいいの?


『天音、聞いてくれ。俺は――』


 ねえ悠くん。貴方はあの時、何を言おうとしていたの?

 私が塞ぎ込んでいた間、どこに行ってたの?

 貴方に話したいことが沢山あるよ。


「……ひっく、ひっく、あああ、ああああ…………っっ」


 バカだ。大バカだ私。

 今になって、あれだけ拒んできたのに。

 嫌いだって面と向かって言われるのが怖かったはずなのに。


 それでも会いたいよ。

 今はただ、悠くんに会いたい。

 だけどそれはもう、叶うことはない。


「ああああ……っっ」


 高速道路を静かに走っていく車の中。

 声を漏らしながら泣く私を、ただただピアノの音だけが包み込んでいた。


 ◆


 羽田空港に辿りついた私たちは、車を置いて国際線がある第二ターミナルへとやってきた。結構時間に余裕をもって来たため、私は里弥さんと一緒にベンチで休んでいた。手荷物検査まであと三十分近くある。ここで座って休憩するのが良い塩梅だ。


 私はガラケーに表示される時計を眺めながら、続けて前方の空港の様子を見る。


 外国人や日本人、いろんな人種が混ざり合った少し混沌とした場所。


 空港の雰囲気は少し好き。別れの寂しさと新しい旅立ちの瞬間が見れるから。

 いろいろな感情が渦巻く中を一人で進むとき、何だか勇気が湧いてくれるから。

 少し前にここに来た時、私は悠くんの家に来る前にここで勇気を貰ってきたのを思い出す。


 不思議。一週間くらいのあっという間のひと時だったのに、帰るとなるとすごく胸が苦しくなる。

 結局、遊園地とショッピングモールしか行けてなかったけど、それでも私は十分幸せだった。


「……写真、貰っておけば良かったな」


 ここに来た証を残しておきたかった。

 そうすれば、辛いときでも頑張れる気がしたから。

 それでも結局は思い込みで、私と悠くんは喧嘩別れでサヨナラだ。


 電話も繋がらない。ねえ、今貴方はどうしているのかな。

 お話したいな。謝りたいな。貴方にもう一度、会いたいな。

 私がそんな、少しの不安に心を蝕まれている時だった。





 ――ピアノの音が、微かに聞こえた。




「これって……」


 嘘だ。

 あり得ない。

 これは何かの間違いで、きっと空港が流している音楽に違いない。


 でもこのピアノは。この曲は、この曲名は――。


「『詩人のハーブ』」


 私が初めて行ったあのコンクールの課題曲。

 

 でもなんで……? あり得ない。きっと何かの偶然だ。


「行ってきなさい天音ちゃん」


 隣で座ってた里弥さんがそう言った。

 里弥さんの茶色のお下げが揺れる。


「まだ時間もあるし……ね」


「あ、ありがとうございます!」


 私は飛び出すように椅子から立ち上がって、そのまま音のする方向へと歩き出す。

 一末の不安と焦燥感と――僅かな期待とともに。

 音が近くなっていくにつれて、私の期待が確信へと徐々に変わり始めて、歩きから走りへと変わりだす。


 まだ終わらないで。まだ弾き終わらないで。

 話したいこと、伝えたいことが沢山あるの。

 だから神様お願いします――もう二度と逃げたりしませんから。


 私に、もう一度悠くんに会わせてください。


 



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