飾り気のない告白を


 午後八時。俺は電車を乗り継いで羽田空港まで来た。

 空港には事前に連絡して特例で許可を貰ったのはいいものの、少し急いでいたから汗がヤバい。


 第二ターミナル地下一階にあるストリートピアノ。

 少し騒めきのある室内を歩きながら、俺はそのピアノを見つけた。

 趣のあるベヒシュタインのグランドピアノ……何だか凄く誇らしい感じに佇んでいる。きっと多くの人に触れられてきたことだろう。その音色を出してきたことだろう。


「少し無理させるな」


 白い鍵盤にそっと指を這わせる。


 今の俺の姿は昔を思い出させるような、畏まった服を着ている。

 このままドレスコードのレストランでも行けてしまうそうなほど。

 髪はワックスで固めて、一丁前に革靴なんて履いちゃったりして。


 何だか思い出すなこの感覚。初めて舞台に上がった時のあの高揚感が襲ってくる。

 周囲の人はなんだなんだとばかりにこちらを見ていた。当たり前だろう。ここのピアノは通常八時には閉まってしまう。それに、こんなかしこまった格好で弾くのだから、中には撮影かなにかと近づく者さえいた。


 だけど悪いな。

 今から弾くのは君たちのためではない。

 動画用でも、撮影でもない。プロの力自慢でもない。


 ただ、一人の女の子のために贈る俺からの賛歌だ。


 近くに鞄を置いて、汗をもう一度拭って、俺は椅子を調整して座った。

 息を吸って、吐く。もう一回吸って吐く。

 それでもまだ緊張は搾り取れない。今も体の中で渦巻いている。


「――っ」


 それらを振り切るように、断ち切るかのように俺は鍵盤に両手を伸ばした。

 詩人のハーブは天音が最初に受けたコンクールの課題曲だ。

 小学生高等、中学生が弾くような難易度の曲だからそれほど難しくはない。


 ゆえに弾き手の度量が試される曲とも言ってもいい。

 単調でありながら流れる左手を止めてはならず、添える右手はアクセントを付け強調させる。こうやって構造解析すれば楽曲というものはひどく簡単そうに見えて、実際に弾いてみると凄く興味深い。


 全てが計算尽くされている――自由の余地なく、それは一種の完成された閉ざされた世界だ。その世界は無機質で無感情、貰い手がどう感応するかは自由だが、弾き手である自分ら演奏者は感動する余地もなく、逆に言うなら売りつけるわけでもなく、ただ淡々と弾きこなさなければならない。


「すごい……」


「だれあの子?」


「上手だね」


 徐々に人が増えてきた。中には動画を撮っているものまで現れる。

 だけど俺が欲しいのは名声や承認欲求ではない。

 君はどこにいる? どこで何をやっている? 父さんの話だとこの第二ターミナルにいると聞いたが……。


 やがて詩人のハーブは最終局面に達していた。

 これまでの記憶がよみがえる。いきなり俺の家に現れた日のことを、俺が過去を恐れ逃げ惑う中君だけは真摯に俺に接しようとしてくれたことを、そしてあの日の夜の出来事を――君が久しぶりに泣いてくれた日のことを、一緒に遊園地に行って遊んだ日を、ショッピングモールにて服装を選んだりこと――短く、僅かながらで刹那的な時間。


 だけどきっと、今まで生きてきた中で一番濃密な時間だった。

 忘れられない、忘れたくない。俺はこの記憶をずっと抱えて生きていきたい。

 だから俺は――君と喧嘩別れで終わりたくない。


「もしも、神様が、いるとしたら――」


 俺は優しく語り掛けるように、目の前のピアノに向き合う。

 あれだけ拒絶して忌避してもう二度と弾かないとすら思ったこの黒色の魔物は、たった八十八音という定められた旋律しか鳴けないこの道具は、神聖を帯びていた。


 きっとピアノには神様が宿っている。

 その神様に俺はこいねがう。

 ――お願いします神様。もう二度と逃げたりしません。

 ちゃんと向き合います。自分の過去、罪、逃げた報いはちゃんと受けます。

 天音に嫌われてもいい、拒絶されてもいい。何を言われたっていいから、だからもう一度。


 ――もう一度、天音に会わせてください。






「悠くんっ!」






 視界の端、階段のところに――息を切らした――赤いを顔をした――彼女がいた。

 白銀色の髪、青空のような綺麗な碧眼、ああその服――あの時買った服だ、着てくれたんだ。


 息を切らして駆けつけてくれた。   ――ダメだ。

 俺のピアノに気づいてくれた。    ――この先からは。

 俺を探しに来てくれた。       ――言葉では言い表せない。


 きっと言葉にすれば嘘っぽくなる。

 とっくにその領域外からはみ出してきている。


 感覚的な話だ。言葉なんてものでは語れない。

 きっと言葉の――言語の領域を超えたその先に、その本質がある。

 言語の領域は世界の領域と同意義で、その領域の限界が俺の世界の限界だ。

 語りえないものについては沈黙せざるを得ない――とは誰が言ったものか。


 この一日半、俺は瀬戸先生と共にこの曲を仕上げてきた。寝る間も惜しんで、ピアノに向き合った。


 俺はこの曲が嫌いだった。トラウマを想起させるこの曲が大嫌いだった。

 天音に負けた自分のピアノが大大大嫌いだった。

 だけれど――。


『全てを棄てて逃げた挙句、こんなピアノを弾きやがって……そうじゃないだろう。お前の「芸術」は』


 ――大嫌いなあいつが、唯一俺のピアノだけは認めてくれた様に。


『オレ達はお前を愛している』


 ――父さんが自分の生き方を曲げなかったように。


『ここで辞めたらカッコ悪いぜ』


 ――誰よりも敬愛する先生が、自分にそう諭してくれたように。


『私は先輩のピアノ、好きですよ?』


 ――それでもあの生意気で俺には過ぎた後輩が言ってくれた様に。


 俺は自分のピアノを、魂を、『芸術』を、もう一度大事にしようと思ったんだ。


 俺が捨て、大切な後輩が拾って届けてくれたこの『芸術こころ』を。

 彼が認め、恩師が背中を押してくれたこの『芸術スキル』を。

 両親の無償の愛で応援されたこの『芸術ゆめ』を。


 君だけの、君だけに贈る思い出がいっぱいに詰まったこの『芸術想い』を。

 君に負けたこの曲で、絶対に敵わないと思ったこの曲で、憎むほどにつらかったこの『禁断はじまり』の曲で奏でよう。


 それが俺が君に贈る――賛歌なのだから。

 これが俺からの、飾り気のない告白だ。

 だからここで見て――聴いてくれ天音。



 ――ここから先の領域は言葉なんてものでは表しきれない。


 ◇


 まさしくその曲には世界があった。

 世界の拡張、言語の壁を、領域を超えた先にある想いだけが、私の中に入っていく。

 ああこれだ――この感覚、澄み渡るようなこの熱い気持ち。心の中の闇が晴れていくような感じ。


 奏でるピアノの音の一つ一つが身体に染み渡るような気さえする。

 記憶が想起されて、感情が揺り動かされる。

 私がいつも聴いていたピアノだ……。


 気づけば周りの人がシンと静まりかえっていた。

 あと残り少ない曲を少しでも聴き入っていようと、スマホで撮影していた人はスマホを切って、各々がそれぞれ少しでも雑音を排除しようと動きを停止させる。


 今この瞬間、この世界は悠くんを中心に回っていた。

 感動の嵐が渦巻いている。やっと、やっと聴けた。


 このピアノを私はずっと……ずっと待っていた。

 勇気を与えてくれて、癒してくれて、もう少し生きてみようと思わせるこのピアノを私はずっと待ち望んでいた。


 ――だけどこの曲は少しだけ違う。


 技術の問題ではない。以前までの悠くんはピアノを弾くにあたって、とりわけこういった他の人がいる場所では特に何も思って弾いてはいなかった。だからこそ受け手である人たちはみなそれぞれ違った感応をする。それに裏付けされた自由さだったが――それでもこの曲は違う――その理由を、私だけは知っている。


「悠くん……っ」


 眦から零れ落ちる涙を止める手段はなかった。

 これはあの時のコンクールの焼き直しなんかじゃない。

 音とともに響くのは切なさと後悔――そして、誰かへの思いのみ。


 いま悠くんは、私のためだけに弾いてくれている。

 ここにいる無数の観客よりも、私のために、私だけを思って弾いている。

 これ以上に嬉しいことが果たしてあるのだろうか。


 私はただハンカチで眦を押さえながら、その曲を最後まで聴いていた。


 ◆


 次回最終回です。

 コメントやレビュー等よろしくお願いいたします🙇💦💦




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