そしてまた時が進む

 無味乾燥とした心持ちであった。


 灰色の空が広がり、それを写したような海が広がる。耳が痛くなるほど静か、というより何も聞こえなかった。


 シアンが海辺を歩く。ダミアンはその後ろを歩いている。やがて岩肌に波が打ちつける場所に到達する。波の音は聞こえない。そこは岬のようになっている場所だ。風も香りもない。岩肌も砂べりも、申し訳程度の草ですら空から色を借りてきたかのようにモノトーンであった。


 シアンは岬のへりまで歩き、そしてこちらを振り返る。何か意図を思わせる眼差しだが、ダミアンには分からなかった。


「……」


 その口は何かを話しているように動いていたが音は聞き取れなかった。シアンは表情を変えずに語り続ける。彼女の背後に広がる海が荒れているのが見えている。危ない、離れなさい。ダミアンは危険を知らせているつもりだったが、言葉が出なかった。


 海が荒れていたのは天候のせいではなかったからだ。


 大きな、大きな女性がゆっくりと海から起き上がる。黒インクのような海水を引き連れて、ばだばだと滝のように滴らせながらダミアンとシアンを見下ろした。


 その色だけは青色のメノウのようだった。縞の模様のようなものが表皮に浮かび上がっている。明らかに人間ではない。頭部、首、肩の形はあるのに腕がなく、長い髪のようなものは太さがバラバラで全身を覆ってしまっている。シアンはまるで祈るようにして何かをまだ語りかけている。もしかしたら本当に何かを祈っているのかもしれない。


 海から現れた『それ』はまるで人間とは思えないが、長い髪をした女性が海から出てきたら、その髪が頭部や首、肩の輪郭に張り付いていることだろう。ダミアンが見ているのはそんな容貌の存在だった。顔がどこにあるのかは分からない。俯いているように見えたから、それならこちらを見ているのではないかと判断したに過ぎない。


 かつて商業都市で流行作家としてもてはやされ、さらにそれ以前には旧時代の文献や記録を読み漁ってきたダミアン・ラムラスであっても、目の前に現れた『それ』を形容する言葉が見つからなかった。似たものを見たことがない。シルエットだけなら人間の女性的な曲線ではあるが、『それ』には目もなければ鼻も口もない。


 怪しい獣。それすら適切ではない。獣とは四つ足の動物や全身を毛で覆われている動物を指すものだ。『それ』に毛らしいものはない。


 シアンの祈りは続く。大きな女性のような『それ』は何も言わず、どこにあるのか分からない目で見つめているようだった。


 やがて海から何かが大量に姿を現した。蛇のような、蔦のようなものだ。まるで突然林ができたかのような景観だった。そのうちの一つがシアンに巻き付いてその華奢な体を持ち上げた。あっと思う間もなく。思わず駆け寄ろうとしたダミアンの背後にもいつの間にか接近しており、それは静かに素早くダミアンの体に巻き付くと軽々と持ち上げた。


 足が地面から離れる恐怖。もがこうにも身動きができない。直感的に、この長い蔦のようなものが目の前の『それ』のものであることを理解した。

 

 そして洋上賃貸に巻き付いていた謎の存在もきっと。


 ダミアンに巻きつく力は肺まで圧迫するほど強いが、全力ではなさそうだ。

 この状況にあっても、この大きな女性のようなものが、どれほどの大きさなのかを推測するのも難しい。しかしあの洋上賃貸を上回る大きさであることは想像に難くない。そんな存在が人間一人、握り潰せないなんてことはあるまい。


「……」


 シアンの姿はもう見えなかった。だがその祈りの声はまだ何かを必死に伝えようとしている。


 大きな彼女もまた、ゆっくりと俯かせていた頭部を持ち上げた。恐らくあるであろう視線の先には、ベルティナの町がある。


 ザアッとした寒気を感じた。冷たい刃物を耳元に添えられたかのような緊張を覚える。ヒバルやシドー、ロックナンバーにサーディなど、言葉を交わした人々の顔ぶれが一瞬で脳内を埋め尽くした。初めてベルティナの地に辿りついたときの様子や、口にしてきた料理、耳にしてきた声、日差しや香りまでもが一気に流れて通り過ぎていく。


「ダメだ、ダメだ、ダメだ……」

 呻くようにしてダミアンは声を捻り出した。


「やめてくれ、頼むよ。海を引っ掻き回されたのが嫌だったのか? それなら、もうさせないようにするから、町には行かないでくれ……」


 ゆっくり、大きな体が波を伴って動く。岸壁を削り取り、砂浜を陥没させながらゆっくりと動く。濡れた身体に砂や小石が張り付いても気にすることなく、やがてその身体が地上にのしあがる。岩が砕けて木々が爆ぜる。


 それらは見えるはずのないものだ。ダミアンは感じることのない振動や見えるはずのないそれらを、イメージだけで感じていた。


「やめろ……やめてくれ……!」


 胸を圧迫するなら声も出せなかっただろう。


「やめてくれ!!」

「うるせえ起きろ!!」


 ビクッとしてダミアンは緊張状態のまま覚醒した。汗だくだった。浅い呼吸を繰り返しており、カサカサになった指先で自分の胸を掻いていた。


 一喝したのはシドーだった。怒り眉でダミアンを見下ろし、そしてひとまずの安堵のため息をつく。


「ここ数日ずっとうなされてますね。大丈夫ですか?」


 心配するシドーのトーンダウンした声で少しずつ現実に戻ってきた。


「ああ……」


 実に長い時間を過ごしていた。いつも一人で暮らしていたダミアンにとって、貴重な経験であった。起きたら挨拶をする相手がいて、仕事仲間と食事をしたり、初歩的なミスを怒鳴られ、適当に励まされたりする。慣れすぎたこの生活も終わりを迎える。


「今日からもう単身住まいなんですから、気分が悪いなら自分でクリニックに行ってくださいよ。俺の物件をこれ以上事故物件にしないでください」


 海の怪獣はあれから結局一度も姿を現していない。ダミアンの洋上賃貸はあの襲撃から百四十八日目でようやく修繕を完了させた。


 その間、港町ベルティナはロックナンバーとサーディの指示と指導の元、繰り返し避難訓練を重ねた。金に余裕のある者は訓練に飽きて港町を離れた。代わりに雇用を求めて流れ着く者が居着いた。ヒバルの言う通り、人と金が動くに伴って小競り合いのようにトラブルが頻出した。時にはケガ人を出すほどの騒ぎにもなったが、元はと言えば海と生きる人々の町だ。そのくらいならば慣れている。


「ヒバルさんは別件対応中です。伝言を預かっています」


 遅めの朝食を摂るダミアンに付き合って、シドーも軽食を口にしている。さすがにこれだけの時間を過ごせばわかるが、シドーは見た目以上によく食べる。常に空腹であるとか、口に何かを入れないといけないというほどではないが、あればあるだけ口にする。


 彼の同僚がシドーの姿を見るなり、自分の弁当や菓子類を急いで隠す様子を見るのは珍しいことではない。町を歩いていても顔馴染みらしい料理人が「味見しろ」と小皿を寄越してくるのも見かけた。


 それも今日までだ。


「いくつかの家具、家電は保障対象なので新しいものを入れさせてあるそうです。

 ただ、仕事用のコンピューターについてはこちらでなく、メーカーの保障になります。同型の新しいものを設置させましたが、半額分の請求書が後日到着することになっています」


「そのための労働だったんですね……」


 給与はヒバルから手渡されている。元よりそんなに使い込む趣味もないし、買い込むといえば資料や図鑑などの書籍くらいなものだ。他にあるとすれば、シドーと食事を共にするときやシアンと過ごす時くらいか。


 シアンはあれからも何度か一緒に過ごしたいと言ってついてきたり、海を眺めて過ごしたりした。結局彼女がどこで寝起きしているのかはわからなかったし、様々な衣類を着て見せてきたが相変わらず色味は青とか緑だ。衣類を買い与えようとしたが頑なに拒んだ。代わりに飲み物や食べ物を一緒に楽しむくらいには交友関係が続いている。


 あの灰色の夢との関連は分からない。シアンがいたことは覚えているが、それ以外のことは何も思い出せない。まさか今になって恋をしたわけでもあるまい。


「何かあればいつでもご連絡ください、と。以上がヒバルさんからの伝言です」


 ヒバルはロックナンバーが到着した後から多忙を極めていた。トラブルや問題は日毎に発生しており、ほとんど常に対応に追われている。その合間を縫って顔を出してはいたが、それもここ数日は音沙汰ない。給与の支払いの時だけだ。それですら二言三言の挨拶と労いを交わすくらいしか時間がなかった。


 シドーはゆっくりと首を振った。


「まあ、あの家の管理をしているのは俺なんで、まずは俺に連絡をください。

 流石にあんなデカい奴は無理ですが、そこら辺のゴロツキや押し入りくらいなら相手になりますから」


「押し入られたらもうダメだと思いますが……」


「未知の怪獣に襲われながら無傷で生還した人間がそんなこと言います?」


 そんな逸話になっているのか。今すぐにでも訂正したいが、もう手遅れだろう。多くの人が知っている笑い話になってしまっているに違いない。


 シドーと共に歩き、かの洋上賃貸の前にたどり着く。

 一時はどうなることかと思った。ようやくまた再出発のためのスタートラインに立ったのだ。シドーが玄関扉の施錠を解除する。大きく開かれた扉。あの時に見たように、差し込む日差しが出迎えているかのようだった。


「はい、こちらが鍵です。この時から、ここはあなたの住まいになります。失くさないでください」


 そう言って手渡された鍵。前回のものとは形状が異なるので、新たに設置しなおしたようだ。予備の鍵も一つ付いている。

 散々繰り返された避難訓練の成果を早速チェックする必要がありそうだ。仕事用のコンピューターもセットアップしたい。


 しかし何よりそれよりも。


「お世話になりました」


 ダミアンは頭を下げた。これは本当に、素直な気持ちからの言葉だった。迷惑そうにしていながらも、ダミアンとよく過ごしたのは彼だ。例えそれがヒバルの指示で仕方なくだったとしてもだ。


 何か皮肉や嫌味の一つでも言うのかと思って待っていたが、顔を上げてみると難しそうに口を結んで少し居心地が悪そうにそこにいた。代わりに小さな舌打ちを一つ。


「これからどうするんですか」


「そうですね。私の体験を文章にしてまとめたいと思います。自費出版でもしてみようかと」


「製本業者なんてベルティナにはいませんよ」


「コンピューターを使えば、遠隔にいる業者と連絡を取ることができます。印刷や製本はそちらに依頼して、完成品だけ届けてもらえば……ああ、でもちょっと貯蓄も減ってしまいましたし、船も嫌がるかもしれませんね。

 その時は自分で製本するのもいいかもしれません」


 何をするにも、まずはコンピューターの準備が必要になる。ベルティナには有線のネットワークがないが、携帯デバイスでの通信が可能であることは、ヒバルとの通話で証明されている。あの通信網を仕事用に使わせてもらう手続きも必要だ。都会とは環境が違うため一朝一夕にはいくまい。


 シドーは何度か小さく頷いた。興味なさそうにも見えたし、ほんの少しの心のゆるびを得たようにも見えた。


「あんたに出来そうな仕事があれば持ってきますよ。その出版だってすぐにできるわけではないし、収入にもならないでしょう」


「ははは、助かります。何まですみません」


「感謝も謝罪も十分頂きました。あとは家賃と、仕事の出来を見せてください」

 シドーは言って、玄関扉から出て行った。


 静かになった。打ち寄せる波の音。


 まずは窓を開けて換気させることにした。少しばかりの埃を払いつつ、まずはこの後の食事とシャワー、寝床くらいは整えておかねばならない。手洗い場はすぐ使えるようにセッティングされている。しかし一部の生活雑貨の姿がない。タオルや歯ブラシといった物も揃え直さなければならない。


「やれやれ……」


 換気は後だ。大きな荷物は置いて、身軽になってから屋内を一通り点検した。足りないものをメモに残す。最低限、今夜を凌げるだけの準備が必要だ。日が暮れる前に戻れるようにしなければ。


 ダミアンはそう思いながら玄関扉を押し開けた。


 シアンが立っていた。両手を後ろに隠して、この洋上賃貸の様子を見ようとしている格好でそこにいた。両の手を後ろに回し、なぜかつま先立ちをして。シアンも扉が開いたことに驚いたような顔をしている。


「ダミアン、ここに住むのですか?」


 シアンはいつもの笑顔をたたえて小首を傾げて見せた。彼女がよくして見せる仕草の一つだ。


「ええ、元々私は住むつもりでベルティナに来ましたから」


 灰色の空を思い出した。砂浜を歩くシアン。海からくる大きな女性のような影。違う。あの時とは違うのだ。ダミアンが海側に、シアンが陸地側に立っている。だからあの夢は関係ないのだ。


 あの夢にこの洋上賃貸は現れなかった。確か、そうだ。そうだったか? 大きな女性のような影? あれを見間違えたのではないか? 夢は夢だろう。

 思い出せなかったはずだろう?


「住むのに、どこかへ行くのですか?」


「何かと入り用ですので……」


 無意識に逃げ場を探していた。だが背後にあるのは家屋だけだ。洋上賃貸は陸地と繋がっている桟橋を断たれたら孤島のようになってしまう。


 なぜシアンに対してこんなに不安になっているのか?


「ダミアン」


 シアンは一歩、近づいてきた。後ろに組んでいたであろう右手がこちらに差し出される。

 その手には大きな貝殻が握られていた。内側に虹色の光沢が張り付いている。確か真珠層と呼ばれる光沢物質だったはずだ。


「綺麗でしょう? 拾ったんです。どうぞ」


「ん……?」

「あなたの家に飾ってくださいますか?」


 よく分からないままダミアンは手に取った。ダミアンの手を広げてもより大きな貝殻だった。どういった種類のものかは分からない。だが見事な真珠層だ。その手の細工師なら喜んで何かに加工してもらえるだろう。


「あとこれ」


 華奢なシアンの左手には、まるで似つかわしくないほど丸く太った魚が一尾。尾びれの根元を掴んで突き出す姿は、もはや野に生きる者の姿だ。魚はもう跳ねてもいないが、新鮮らしいことは見て取れる。シドーがいたら喜んだかもしれない。


「どうぞ」

「いや、あの、それはちょっと……」

「食べられないのですか?」


 シアンはもしかしたら捌くことを知らないのかもしれない。外で寝起きするならば、どんな魚も丸ごと火にかけてしまうのかもしれない。それはそれで自然の旨みなのかもしれないが。


 ますますシアンの日常生活が謎に包まれる。彼女は成人したばかりとは思えないような背格好の女性でありながら、何かが少しずつズレている気がする。衣類の出どころも結局謎に包まれたままだ。


「必要な道具を持っていませんので、私の家では調理ができないのです」


「ちょうり……。洗う、切る、焼く…。ああ、調理ですね。刃物を使ったりや木の板で行う……。火も必要ですか?」


「この魚がどのようなものなのかも分かりませんし、道具があっても私にはどうにも出来ませんね。町に行ったら買い物ついでに捌いてもらいましょう」


 じっと魚を見つめるシアンが何を考えているのかは分からないが、ダミアンの提案には納得したようだ。ベルティナに一緒について来るつもりのようでもある。重たそうに見えるのに、軽々と抱える彼女の逞しさを感じた。


「シアンも食べますか?」

「何をですか?」


「こんなに大きな魚、私一人では食べきれませんよ。シドーさんやヒバルさんにもお届けしたいと思いますが、せっかくですから」

「ダミアンと一緒に過ごせるなら頂きます」


 年甲斐もなくドキリとしてしまった。異性からの好意的な反応には懲りたと思っていたが、どうにもそう簡単にはいかないらしい。自分だってそんな心情に揺れ動く登場人物たちの物語を書いていながら、自分でその感覚に包まれてしまうのには息切れしそうな気恥ずかしさを覚えた。


 二つの人影がベルティナに向かう。

 まだ昼にもならない、明るくのどかな日和であった。

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