シドー:轍(4/4)
ラムラスも入院していたと聞いた時は驚いた。
せっかく逃してやったのにと思ったが、逃げている最中に後ろからボウガンで撃たれたらしいと聞いた。命中精度は低いが毒矢を使っており、ラムラスはその毒に侵されて身体を動かすことができなかったのだそうだ。
先に退院することになったラムラスは病院を離れる前にナオミチに会いに来たようだが、面会は叶わなかった。代わりに短いメッセージをその場で書いて看護師に渡して去った。どの病室にも置かれているシンプルなメモ用紙だ。文字を書くことができる町民は少ないが、絵でもなんでも書くという行為は退屈を紛らわせる道具の一つであった。
ラムラスのメッセージは簡素なものだった。
「お大事に。また会いましょう」
文字が人柄を表すらしいが、ナオミチは信じていない。それなら詐欺師の文字はキレイで読みやすいのだろう。日頃の態度は言動で察せる。ナオミチが人を判断する際の基準である。大体はどちらかが乱れているものだ。
ラムラスの字体もまた、丁寧で読みやすい文字であった。彼の文字は柔らかく、なるほどあの姿を連想するように優しい言葉である。ラムラスは小説家になる前、主に子供たちを相手にして語学教師をやっていたことがあると言っていた。あれは嘘ではなかったようだ。
ラムラスの言葉は、ナオミチにとってほのかに嬉しくもあり、苦々しくも感じられた。
「オレは見舞いに行かなかったのに」
知っていたのに行かなかった。
ラムラスのメッセージを見た時、見て見ぬ振りをした自分に気がついた。格好悪くて寒気がする。気分も悪くなった。
退院して外出が許されたナオミチは真っ先に小説家の住む管理物件に赴いた。左腕にはまだ固定するためのギプスを着けて、暴れないようにと包帯を首から巻かれている。右目は眼帯だ。道ゆく人が驚いて振り返るのも気にしなかった。何も考えていない。ただただ、すぐにやらねばという気持ちだけで動いていた。
住民のいる洋上賃貸を訪問するのは初めてだ。住民に用があって訪問するのは……いや、ナオミチがこうやって誰かの家に、襲撃やビジネス目的以外で近づくことがそもそも初めてだ。
何を言えばいいんだ?
何も持ってきてない。財布も持たずに来てしまった。
(間抜けがよ……なにやってんだオレ)
「おや?」
思いがけず、洋上賃貸の玄関扉は勝手に開いた。扉の前で急に冷静になったと思ったら、今度は急に暑くなったような気がした。ラムラスもその瞬間は驚いたように目を見開いたが、その後はいつもの穏やかな笑みになり、招き入れるように玄関扉を大きく開く。
「シドーさんでしたか。誰かがいるような気がしたんですよ」
返事をしようとしたものの、ナオミチの口からは嫌味も皮肉も出てこなかった。
「退院されたんですね。おめでとうございます。お会いできて良かった」
言葉を返そうとして口を動かそうとするもなにも言えないナオミチを見ても、ラムラスは嘲笑することはなかった。こちらを疑うどころか、ひとひらの悪意も根付いていないようだ。何も。本当に心からの言葉なのだろう。
それともナオミチが警戒しすぎているのか。
なかなか言葉を発さない様子を見て、ラムラスは玄関扉を大きく広げた。そして内部を促すように、ナオミチにゆっくりと差し出した手で屋内を示す。
「お祝いの準備ができてなくてすみません。せめて、お茶でもいかがですか」
「……それは、俺も」
居心地が悪いような気がする。しかしホッとした気もする。なにに安堵したのだろうか。
だが棒立ちも格好悪い。なんとなく伏せていた顔を上げる。招かれようとしている屋内の様子が見えた。暖かく照らされた照明、整頓された屋内。ラムラスの書く文字のイメージ通りである。
「やっぱり育ちが違うんですね」
「ビビって都会に帰ったと思いましたよ」
そんな言葉が浮かんだのに言う気にならなかった。
品のいい家具が並べられ、清潔感のある空気に満ちている。湯を沸かし始める音、
一階ダイニング。テーブルにはすでに先客が座っていた。成人女性というには随分幼い手つきでノートを押さえつけ、幼い握り方をして鉛筆を擦り付けている。力加減に敗北した消しゴムが近くにいくつも転がっていた。
忘れようもない、青緑の浮浪者シアンだ。
「シドー」
「なにしてんだ、お前」
覗き込むとそのノートは、文字の書き方を練習するノートのようだった。内容は初歩的なもので、なぞり書きをさせるようになっている。
だがシアンは緊張しているのか気合が入っているのか、どうにも力を入れすぎているようだ。濃い文字色、ガクガクとした筆跡。書き込んだページ数はそこそこある。素直に読み書きを学んでいるところのようだ。
「書くと、読めます。読めると書けます」
「ふうん……そうかよ」
話す言葉には慣れたようだが、読み書きはそうでもないらしい。会って間もない頃は話すことも満足と言えないほどだったが、ラムラスと過ごすうちに言葉を覚えたのだろう。
あの小説家が荒々しい言葉を口にするところは見たことがない。
「書くのは難しい。えんぴつはすぐ折れます」
「怪力女は健在だな。持ち方を直せばいいんじゃねえの」
見ていると、いつか自分を買った隠者の男から指導されたことを思い出した。あの時も持ち方から教わった。最初は本当にそこからだった。基礎すらなかったからだ。
「ダミアンから教えてもらった持ち方は複雑です」
「はあ? あ、いや……」
ナオミチは失言に気づいてそっぽを向いた。学ぼうとする者に見せる態度ではない。過去にもそう指導されたことがある。
ラムラスが茶を入れるために席を離れている間だけ楽をしようとしているのだろう。いつかの自分を見ているようだと思った。いや、紙を破くほど強い筆跡ではないだけでもシアンの方がマシなのかもしれない。
苦々しく結んだ口元から舌打ちを鳴らし、ナオミチはシアンに向き直った。
「あのな、折れるのはその持ち方をしていると力が入りやすいからだ。疲れやすいし、書いた字は雑になる」
「読めればいいのではないですか?」
「なかなか自分本位だな。そう思うなら勝手にすりゃあいいと思うが、お前が読めてもラムラスさんが読めないなら残念がるだろ」
「それは、望んでいません」
「じゃあまずは教わった通りにやれ。握るのと持つのとは違うんだぜ」
何を言ってるのか、と思った。まるで過去の出来事を違う視点で追体験しているようだった。なんだか気持ち悪い。なんだか心地よい。忘れかけていた家族の顔。色褪せて、すっかり白黒になっているのに、あの時の風の音と陽の光と暖かさを思い出した気がした。
同時に忌々しい『ジェイエフ』の記憶も引き摺り出されたが、真っ先に広がったのはあの隠者の書斎だった。
『これは私の罪滅ぼしだ』
(これもオレの罪滅ぼしなのか?)
あの隠者は貴族だったようだった。あの家がどこにあったのかを知ることはできないが、一人暮らしの戸建てにしては敷地が広かった。隠者とは本人がそう名乗ったからで、ナオミチは本当の名前を知らない。彼は『ジェイエフ』を回収しにきた襲撃者によって命を奪われてしまったため、もう調べようもないだろう。
カチャカチャと陶器の甲高い音がナオミチの視線を現実に引き戻した。初めて触れるほのかな甘い香りに鼻腔をくすぐられる。
上品そうなティーカップが置かれた。そこに注がれるのは赤に近い、透明な褐色。湯気とともに広がる香り。ラムラスは慣れた様子で流れるように準備を進めた。
「紅茶は初めてですか?」
ラムラスは親しみを眼差しに乗せて口にした。茶の用意が着々と進められているのをじっと観察していた様子を見られていたのだろう。無知を
「これがそうなんですか?」
「ええ、レモンやミルクを足す方もおられますが、この紅茶の場合なら私はそのままの香りを楽しみながら頂く方が好きですね。砂糖も準備していますから、どうぞ使ってください」
そのまま頂く、というラムラスの作法に従い、ナオミチはそのまま口に運んだ。香りよりも実際の味は苦味を感じる。コーヒーと似ていると思った。
普段は濃い味付けを好むため物足りなさもあるが、凪いだ海のように静かな今の気分には染み入るように美味かった。
一時的に空っぽになった思考に紅茶の香りと暖かさが満ちる。そうして口をついたのはこんな言葉だった。
「見舞いなんか、別に良かったのに」
そんなことを言いたかったわけではない。日常の癖だろう。感謝というのは受け取るのも差し出すのも、ナオミチには難しかった。そんなむず痒い言葉をラムラスはどう受け取っただろう。チラと一瞬、すぐに視線を戻した。
ラムラスは相変わらず柔らかな表情をして、ようやく席についた。
「恩人に挨拶もしないで出ていくなんてできませんよ」
「大したことしてないですから」
「そんな格好になってしまうほどの負傷をしたのに、大したことないなんてことないでしょう」
右の瞼は鞭の一撃で裂傷を負った。回避が一瞬遅れてしまった結果、強い電撃を受けたような衝撃と出血で右目が開かなくなってしまった。
左腕は折られた。鞭の一撃でふらついたところに追撃されて転倒した際に、下っ端の持っていた無骨な鉄剣を振り下ろされた。鉄剣の刃は手入れされておらず、刃はあってないような状態だったのはある意味幸いではあった。だが肘から先を執拗に砕こうとする原始的な攻撃にやられたことは、思い出すとまた胸が怒りで燃え上がりそうになる。
ナオミチが目線を逸らしている様子を見て、ラムラスがどう思っているのかはわからない。分からないが、少なくともナオミチを小馬鹿にする感情ではないことは分かる。
彼は眉をしかめて目を閉じた。その瞼の裏には苦々しい記憶が張り付いているらしく、ゆっくり開いたその眼差しには認めたくないらしい痛みと苦味を帯びていた。
「私にとって、あれは訓練不足を感じる出来事でした。有事の際にも動けるようにしなければなりませんね」
「あんたは小説家。語学教師。それでいいんです。誰でもなんでもできるわけじゃあないんですから」
ラムラスは少し意外そうな顔をして、またいつもの穏やかな表情に戻った。
「私はもう少し、使い物になると思っていたんですよ。自惚れていたようです」
カチャ、とまた茶器の気品ある小さな音が聞こえる。心地よい風が流れ込んで前髪を揺らしていった。波の音。海鳥の声。
ナオミチから見れば、ラムラスこそなんでもできる人間だ。道を外すこともせず、教育という側面には妥協せず、こんな
いつでも人を招くことができるような部屋。仕事はできるがナオミチは自室を整えることができない。
この状況になっても、ナオミチは何のためにここに来たのかを思い出すことができなかった。何をしたらいいのかわからなかったのだ。
気づいているのだろうか、ラムラスは。彼は次の話題を振ってきた。
「語学学習の話、ヒバルさんから聞きました。一旦白紙に戻すことになったと。壊された設備や家屋の修繕を進めて、挑戦ができるようになったらまた彼らから声がかかることになりました」
「ああ……まあ、経済を戻すのが先ですからね」
適当なことを言いながら、ふとシアンの方を見た。
「こいつに教えているのは? 言ったらなんですが、こいつは金を持っていないでしょう」
「代わりになるものをいただいてるんです。海に入ると見つかるらしくて」
言って、ラムラスは窓際を見るように促した。そこには透明のケースに入った貝殻たちが並んで敷き詰められていた。大小様々、大きさも形も。あまりにも数が多すぎて、ラムラスにしては無造作とか雑多という言葉すら適切であった。
「貝殻が対価ですか? まあ、見たことないやつばかりですけど」
(それはおかしくないか?)
発言と同時にその疑問が浮かんだ。
この町に三年もいれば、この近海で発見できる貝類はある程度目にすることになる。全てを把握しているなどと豪語することはできないが、それでもナオミチはそのケースに入った貝殻の大きさも、そしてその見たことない色や形の貝殻の多さに目を見開いていた。
どこかでみた気がする、とナオミチは思った。確か、あれはラムラスが何者なのかを調べようとした時に見つかった情報だ。
(クラムコレクターの、貴族の娘)
世界各地の貝殻を集め、コレクションしているという貴族の娘。展示会のため海上を移動している最中に海賊に襲撃され、身代金を要求されている、という事件があった。その金額はうんざりするような桁数で、それを安全に運ぶために交渉と議論を重ねているとされていた。
目的が違うから視界の端にしか入れていない。内容も、あの娘の写真も。正確には覚えていない。
だが。
(似ている?)
街頭でインタビューを受けた時の貴族の娘。シンプルなワンピースに、簡素なサンダル。自信に満ちた表情で話す様子が雑誌に掲載されていた。
記憶を巡らせているナオミチには気づかなかったらしい。ラムラスは
「もう少し落ち着いたら、アクセサリーにしてもらおうかと思っているんです。職人さんがいらっしゃるんですよ。シアンにも……ようやく屋内に入れるようになりましたから、町での居場所も」
何か。今。ナオミチは何か恐ろしいものを感じた気がした。港町ベルティナでの行方不明者。似た顔をした貴族の娘。そこを線で繋ぐには、理由も証拠もない。それなのに。
違和感がある。以前から。何かがおかしいと思っているのに、それにたどり着けない。何がおかしいんだ? 明らかにおかしなことがあるのだ。目の当たりにしているはずなのだ。なのに。
シアンはじっとナオミチを見つめている。
「シドーさん?」
「あ? ああ……こいつの居場所?」
「浮浪者としてずっとは暮らしていけないでしょう」
妙に細波が聞こえる。ざわざわと頭の中を満たしていく。迫るように。
シロップに浸かる果実になった気分だ。瓶詰めのそれは外の様子が見える。中の様子も見える。
まるで外から何かが見下ろしているような。見上げるとまたシロップが垂れて落ちてくる。その重みと甘ったるい誘惑に耐えながら、違和感を思い出そうと記憶のパズルを繋ぎ合わせる。
(そういやこいつ、屋内は嫌がってたのに……ラムラスさんの家には入るのか)
「なにか、かんがえがあるんですか」
空っぽの声が口から出てくる。ぱくぱくとナオミチは口が動いただけだ。その発言にはなんの意思も意図もない。そんなことを言うつもりもなかった。思っていない言葉が出てきた。
それはカプカプと泡が口から出ていくかのようだった。無感情で、無味無臭で、無色透明の。
「シアンはどうしたいですか」
笑っている。彼女は、まるで不安も心配もないような顔をして笑っていた。ラムラスに信頼を寄せているかのような。
それだけではない。あの笑顔は欲しいものを得た時、目の当たりにした時にするものだ。勝ち誇ったような。願いが叶ったかのような顔をする。
「お、まえ……」
言葉が出てこない。口が動かない。舌が乾く。喉が締まり、呼吸まで止まったかのようだ。ぎゅっと胸の臓器を握られたような感覚。いや、実際掴まれているのだろう。目に見えない何かが。
シアンはただただ、幸せそうに眺めている。
「私は、この港町で暮らしたい。ダミアンと、シドーも居てもいいですよ。大丈夫、幸運ですから」
細波が聞こえる。
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