四年前、某所にて
ガラガラ、ガラガラと耳障りな音が反響している。
照明が少なく、窓もないその空間は長く続く廊下のように見える場所だ。うっすら反射する程度の光沢がある壁。床には砂粒ひとつないものの、磨かれてはいないようだ。そんな中途半端な清潔感のある空間を、荷物を運ぶための簡素な作りの荷車が走り抜ける。やや大きな荷車。大きな木箱だ。大人が二人でようやく抱えられるほどの。それは滑り落ちないようにロープで縛られ固定されている。
その荷車を押しているのは一人の大柄な男性。筋肉質で、その場で垂直飛びすれば天井に頭をぶつけそうなほどに大きな体躯をしている。しかし靴はなく裸足であり、身につけているのも入院する人間が身につけるような質素なものだった。
勢いそのまま、荷車は突き当たりにある灯りのついた一室にたどり着いた。開け放たれていた扉は、荷車が到着すると同時に閉じられた。
「ありがとうゼーレ! ついでで悪いけど、それ開けてあげて」
部屋の奥から少年のような若い声が飛んできた。ゼーレと呼ばれた男は荷車を押していた人物だ。照明の下、彼の紫色の双眸と金色に近い明るい髪色があらわになる。面倒臭い、と言葉にはしないものの、ゼーレは渋々といった表情で従った。
木箱を固定していたロープを引き千切り、木箱の蓋を取り外して放り捨てると荒々しく横倒しにした。ごろごろ。どろどろと出てきたのは人間であった。一糸纏わぬ姿の男女。男性はボサボサでボロボロの金髪。逞しい筋肉をその身体に宿らせている。女性は繊細で透き通った素肌の肢体を晒しており、艶やかな長い黒髪がまるで滴る水のように広がった。
「そ、そんな扱いは良くないよ。まだ数時間しか経ってないんだよ?」
明かりの奥から再び少年の声が飛んできた。ペソペソと頼りない足音が近づいてくる。
姿を現したのは十代半ば程の見た目をした男性だった。顔つきはやや中性的で、若い声と華奢な首と肩の輪郭。瞳の色は黒色だが、よく見ると透き通った群青色をしているのがわかる。黒い髪は短めに整えており、取り立てて目立つような姿はしていない。強いて言うなら、まるでサイズの合ってない白衣のだぼだぼの袖に腕を通し、ずるずると裾を引きずって歩いている姿は異様と言えるかもしれない。ペソペソというのは彼がスリッパを履いているのが理由だった。
ゼーレは忌々しそうに顔を歪ませ、舌打ちをして白衣の彼を見下ろした。大柄なゼーレと比べても、白衣の彼の身長はゼーレの胸の位置よりも低い。
「いつまでこんなことさせるんだ? オレはテメェに飼われるために来たんじゃねえぞ」
「わかってるよ。退屈させてごめんね。これで最後だから。あちらにベッドがあるんだ。二人を寝かせてあげて」
白衣の彼はペソペソと足音を鳴らしながら、ゼーレに指し示した方向へ歩いていく。ベッドが二つ。男女を寝かせるにはあまりにも無骨で色気のないベッドだ。シワのない白いシーツに、同じ色の掛布。同じ色の枕。同じ色のベッドフレーム。ゼーレはそれぞれ片腕で全裸の男女を担ぎ上げ、一人ずつベッドに放り投げた。
「最後って言ったよな? オレを早く移動させろ」
「わ、私にもやることがあるんだから、それまでは大人しく待っててよ。向こうで寝てていいから」
ゼーレは不満を隠そうともせず、どすどすと足を鳴らして奥へと消えていった。白衣の彼にはもう目もくれない。横を素通りされるときには蹴られて踏まれそうな勢いであった。
「やだもう怖い……ちゃんと指導するように言わなくちゃ……」
余った袖をぶらぶらしながら身を小さくして、ゼーレが歩み去っていた方向を見つめた。しかしその足音が聞こえなくなると丸めた背中を伸ばし、ベッドに寝かせた二人に近づいた。ベッドフレームに手をかけて、二人の様子を観察する。
ぼんやり、といった様子でゆっくりと瞬きしていた。顔には表情がなく、これが衣装作成用のマネキンと言って人前に出しても差し支え無さそうだ。呼吸で胸がかすかに上下する以外の動きは瞬きを除けば他に何もないからだ。だがそれでも白衣の彼は満足だった。
「聞こえるかい? 私の声が。見えるかい? 私の姿が」
声をかけると二人はゆっくりと反応した。声を認識し、視覚を得ていることの証左だ。二人には何の感動もないようだが、白衣の彼にとってはそれでも大いに嬉しいことであった。胸を撫で下ろし、二人が寝ているそれぞれのベッドの間の細い通路に入り込む。壁に立てかけていた組み立て椅子を広げて腰を下ろした。
二人はそれをただ、静かに見つめていた。
「まずは、救出が遅くなってしまって申し訳なかったよ。まさか君がこんなことになっているなんて思わなかった」
彼はそう言って唇を噛み締めた。背中を丸め、自分の膝に肘を立てて頭を抱える。こんな狭まく薄暗いところで、小柄な彼はますます小さく縮こまった。
その様子を二人は静かに見ている。ベッドの上、かけ布団を掛ける事もせずに裸のまま。瞬きも呼吸も極めて緩慢とした動きである以外はほとんど動きがない。体は別々なのにこの二人は全く同じような姿勢で彼を見ている。
「とはいえ私もあんまり関与するつもりはない……君が決めないといけないからね。でもせめて、この世界で自由が利きやすいようにしてみたよ」
応答はない。口が動く様子も、喉が動く様子もない。
遠くの方でカタンと音がした。電源が切られ、照明が落ちたのだ。裸の二人は同時にそちらを見やったが、それに関しても取り立てて興味があるわけでもないようだ。
彼は言葉を続ける。
「動きやすいように名前も与えよう……君がヘリオドロ。君はオルニクス。もし気に入らなかったら、ここを出た後にでも自由に改名して名乗るといいよ」
カタン。また照明が落ちる。先ほどよりも近い場所の照明だ。ただでさえ薄暗いこの部屋がさらに暗くなっていく。
「君たちが外に出ても不自由がないように、教えられることはなんでも教えるよ。特にこの世界の歴史や成り立ちにはこの映像が参考になると思う。
これはあるトーク番組の記録なんだけどね。この世界の歴史とか現代の問題とかを当事者……の、子孫かな。うん、多分そう。
子孫に当たるのがああでもない、こうでもないと語り合ってるんだ。結構興味深いよ。まるで自分は善人だとか、無関係だとか被害者だとでも思ってるかのように話してるんだ」
カタン。この部屋に続く長い廊下の照明が落ちた。この一室も間も無く暗闇に包まれるだろう。窓のようなものはなく、天井にも自然採光に向いたものはない。
「まあでも、まずはゆっくり休んで。起きる頃にはエネルギー不足でお腹が空くと思う。そうしたらこの世界でその身体で過ごすにあたって、どのようなエネルギー摂取が適しているのかを教えるよ。
残念ながら君はもうそんな存在になってしまったんだ。もし、以前の姿を取り戻したいなら……そうだなあ。その時にまた教えてあげるけど……」
カタン。ついに辺りが暗闇に包まれた。ダクトから聞こえる空気の流れが平坦に唸っている。太陽の香りも草木の湿り気もない、ただの循環。
「君の分身の二人と、この世界に散らばった君のかけらを全て回収しないといけない。それはこの世界を事実上支配状態にある人間たちの営みを破壊することになるだろう。
今はまだ分からないかもしれないけれど、彼らは君の力で繁栄していて、今も頼りきりで生活しているからね。君も本能的なところで理解しているんじゃないかな?」
暗闇の中、ごそごそと音がする。
彼は裸の二人にベッドで眠ることを教えているのだ。かけ布団をめくって隙間に体をねじ込ませ、清潔なシーツの上に横になると枕の上に頭を乗せる。最後にめくった布団を戻して、目を閉じる。彼は体を休ませるために眠るということを丁寧に二人に教えた。
「まずは休むんだ。ここでの暮らしは私に任せて……ああ、暮らしというのも分からないか。うん、私が教えるから安心しなさい。それじゃあ、おやすみ」
彼は姿を消した。あの頼りないスリッパの音もなく、ただただダクトを通る空気の流れが聞こえるだけだ。二人はそれを認識こそすれ、理解はしていない。目を閉じるとそのままこの暗闇に吸い込まれるような感覚に陥った。
二人の最初の一日はこうして終わったのである。
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