シドー:轍(3/4)
たった一人で襲撃者たちを相手にした大男はリョースケ・ヒバルという。
港町ベルティナだけでなく、その他の土地にも不動産を有する人間。腕っぷしだけではなく、この田舎の地方で権力も財力もある男だった。
そんな男の下で生きることになると、人権は認められるが拒否権はない。黙秘権もない。逃げ出した者もいる。逆らった者は帰ってこなかった。
だが、彼の指示と教育はほぼ的確だった。時には外すこともあったが、失敗も含めて教育だった。また、意味のある指摘や反論ならば許可された。適切な議論、提案。港町ベルティナは人手がなく、一刻も早い復興が望まれる。そこに新しい意見を取り入れる姿勢はあるが、無為な反論や抵抗の相手をする暇はない。
隠し持った武器はないか、と確認されたことがある。有事でもないのに街中でそんなものを装備していては、あらぬ疑いをかけられるとして禁止した。この身体検査の時にヒバルは彼が『ジェイエフ』と呼ばれる理由を知り、親からもらった名前を聞き出そうとした。
しかし答えなかった。口にすることができなかったのだ。
追求することをやめたヒバルは、かつてこの地で活躍した者の名前と苗字を探し出していくつか候補を抜き出した。医療と宿場町の有力者の助言の元、与えられた新しい名前は『ナオミチ・シドー』だった。
北方からやってきたらしいその人物の名前はその地域の文字である『漢字』で表すことができる。だがベルティナではあまりメジャーな表記ではない。興味があるなら教えてやる、とその時は言われた。
ヒバルもまた北方から来た人間だった。少なくとも、ナオミチの故郷とは全く別の地域である。
「ナオミチは地頭がいい」
そう言ったのはこのベルティナでの医療の指揮をとっている男だった。老いてはいるがその眼光は瑞々しく輝いている。彼は長く伸ばした白い眉と髭を指先でねじる癖がある。ナオミチを始め、この地で生きることを選んだ元襲撃者達は、この老人から初歩的な社会性と基本的な文字の読み書き、計算を教えられた。
ナオミチは昔、一度だけ珍しく欲の薄い都会人に買われていたときにそれらを教わっていたため、飛び級するように新たな知識と常識を与えられた。老人は満足そうに微笑む。
「このアホと違って物覚えもいいし、理解も早い。下地があったのかもしれんがな。上手く応用して考えることもできている。あとはもう少し自分の意見を言えるようになるとヨイな。……このアホめ! 無闇に発言の自由を奪うでない」
「バカにしてんのか」
ヒバルは不満そうにぼやくと、老人は楽しげに笑った。
「すまんすまん。決しておまえさんを馬鹿にはしとらんよ。アホじゃがな」
老人によると、ヒバルは早合点が多く見落としも多いのだそうだ。時には自分の署名すら誤字をするとして、大いに笑いものにしてやったのだと自慢げに話す。戦闘能力が高いことを鼻にかけた態度が気に入らなかったのだそうだ。
笑っていいものかどうかすらナオミチには判断できなかったが、ヒバルの表情が少し柔らかくなったのを見て安堵した。人の顔色を窺うようなことは久しぶりだった。
嫌悪する。
あの時代にまた入ってしまったのかと思った。顔は俯くのに、目線は相手の顔を見上げて、そしてすぐにそらす。汚泥だって洗い落として薬草のペーストを使えば臭いまで払えるのに、身体に染み付いて覚えてしまっているその所作を自分がとってしまうとは。
屈辱に歯を食いしばり、軋むほど噛み締めてしまった。
それを見てか知らずか、老人は身体が大きいヒバルを邪魔だと言って部屋から追い出した。
「君が望むなら、その左胸の火傷を治そう」
その言葉が耳に届いた時。ズキリ、左胸に痛みを感じた。二番目の名前である『ジェイエフ』の由来となっているこの記号を焼き付けたこれは、永遠に消えないのだと言われたものだ。治らないと思っていた。ナオミチは大いに戸惑った。
「ああ、適切ではなかったな。お前さんの背中もしくは臀部から皮膚を持ってくるんじゃ。文字の部分を少し取り除いて、違う部位の皮膚を貼り付ける。多少、皮膚の色味が変わるじゃろうが、拒否反応もないじゃろうしすぐ終わる」
「皮膚でも胸にケツがつくのはなんか嫌だな」
「じゃあ、背中にしとくか?」
指でなぞるとその文字は存在感を訴える。幸いにも酷い感染症に見舞われたことはないが、怒りを覚えるとそこは特に熱をもつように感じられることがある。まだ火が残っているかのようだった。
目を閉じてゆっくりと首を横に振る。
「別にこれで困ってねえから」
「そうかい。あと、おまえさんの目は……」
売り物だった時分に染められた瞳の色。鉱物資源のバルクで染めたものであり、黒色だが見る角度によって赤や青が混ざって見える。鉱物状態のバルクのような輝きを見せるものだ。
かつて都市部で流行った装飾であり、エルオウを用いれば黄金になる。
だが、例えば刺青として使った場合はその部位に激しい痛みや火傷、時には壊死することがある。反対によく馴染みその部位の能力を向上させることがある。例えば歯に用いたとき、決して欠けない硬さの歯になる。刺青として足に入れれば瞬発力、といった具合だ。
ナオミチの場合は後者だった。優れた視力をもつだけでなく、明かりのない夜であっても状況を把握することができる。襲撃者として活動していた際、より研ぎ澄まされて優れた動体視力を得るに至ったが、染めたのは目だけであるため飛び抜けて超人的な目立ち方をすることはなかった。
「刺青なら、除去手術があるのじゃがな。瞳への染色の場合はどうにもならん」
「いいよ。もう慣れてる」
親からもらった瞳の色がもう思い出せなくなっていた。
それほどまでに家族たちの記憶は薄れてしまっていたのだ。声も思い出せない。色が失われ、彼らの笑顔は褪せた色味から白黒になりつつあった。
その日の夜は、人知れずナオミチは涙を流して過ごした。初めて孤独を認識した瞬間だった。汚れきった自分があまりにも……だが、それを表現する言葉を知らなかった。
黒く染められた瞳と左胸の烙印は、戒めと言えば聞こえがいいだろう。ただただそれを言い聞かせた。
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