シドー:轍(2/4)
※このエピソードには暴力・暴言・下品な発言や表現を含みます。
ナオミチ・シドーという名前は三番目に与えられた名前である。二番目に与えられたのは左胸の烙印で名付けられた忌々しい記憶を伴うもの。最初に与えられた名前は両親が愛情をこめたもの。
いまだに『最初の名前』を自分で口にすることができない。自分に相応しくないと思っているためだ。だが忘れることもできず、それは胸の奥と記憶の片隅にあって、埃も被らずそこにある。
抱えている最も古い記憶といえば、笑顔で出迎えてくれる明るく朗らかな母の姿と、その腕に抱かれて安心し切った顔で眠る弟。眩しい日差しの中で農作業に勤しむ逞しい父の姿だ。自分もきっとその労働に加わるのだと疑わなかったと思う。
その次の記憶では、彼ら三人が真っ赤な床の上で動かなくなっている様子。塗料ではありえないその光景と臭いをまとわり付かせて、何もわからないまま手を引かれた先で、文字と数字の焼印で左胸を焼かれた。今もそれは残っている。
のちに分かったことだが、母は異変に気づくと弟を守るため、一人で家にこもって息を潜めていたらしい。父もまた家族のためにすぐに戻ってきたが、たどり着く直前で命を落とし、押し入った者どもによって母と弟も命を落とす結果となった。母は適正年齢を過ぎているので売り物にならないのが理由だった。弟も幼すぎたのがよくなかったらしい。
そのあとは…… 一度だけ、変わり者の隠者に貸し出されたが、それ以外はケダモノたちに貸し出されてその悍ましい手で汚された。
流行りだからと言ってバルクで目の色を染められたり、一切の自由も光もない部屋に閉じ込められて夜な夜な弄ばれたりした。発達させないために食べ物は最低限。
幼い体は彼らにとって性別の違いが些細なものなので、どちらを持ち帰ったとしてもおいしく楽しめるものだった。しかも身寄りのないために安価で遊べる玩具でしかなかった。
変わり者の隠者は唯一そんな扱いをしなかった。文字の読み書きを教え、計算や初歩的な経済や社会などを教えた。食べ物は三食与え、敷地内であれば自由に遊ばせた。老いた彼は繰り返し言っていた。
「これは私の罪滅ぼしだ」
「金だけではない。知識と学問、そしてそれを身につける方法を知っていれば、選択肢を広げる手段となり得る」
老いた彼は、程なくして回収しにきた襲撃者たちの手で命を奪われた。
金も知識も学問もあったはずだが、隠者はなぜ死んだのだろうか。父親よりも歳を重ねている風体であったが、それが理由だろうか?
いや、抵抗する手段を持たないからだ。父も母も弟もそれで命を落とした。善良な人間だった。
武器だとか暴力だとかを手段にしなかった。
それは正しい選択ではなかったのだ。
だから武器を取ることと、悪人であることを選んだ。十五歳ごろだったと記憶している。
性懲りもなくまた、この身体を金で借りて持ち帰った馬鹿で変態気質の都会人。嬉々としてグッズを選ぶ後ろ姿。
こちらは既に選択を終えていることも知らずに、拘束することもせず。全く無防備な首に刃物を突き立てることは難しいことではなかった。だが一撃で終わらせることができなかった。ボタボタと命を滴らせながら、こちらに向かってくる様子には流石に恐怖を覚えたものである。
その口は命乞いと謝罪、怯えた声を漏らしていた。
耳が腐るような嫌悪感。喉の奥から胃液が逆流して粘膜を荒らしていった。だがそれ以上に頭が怒りでふらふらになっていた。痛みもなくなったと思っていた左胸の焼印から、血が燃え上がり口から吹き出しそうなほど身体が熱くなった。
「聞き入れると思ったのか」
恐怖とは違う感情で震えた声だった。沸騰した血が脳を熱する。初めての感触に怯えていた手に握られた刃物が、まるで自分の一部であるかのように感じられた。
「お前はオレの声を聞き入れなかった」
あの日の家族のように。赤く染まった床に倒れる姿を見て理解した。
奪われる前に奪ってしまえばいいのだ。確実にするために、何度も何度も突き立てて引っ掻き回した。
いつの間にか都会人は死んでいた。備蓄されているであろう食料と金品が残された。静かになった一室で、ようやく理性が戻ってきた。これらの持ち主は理由はともかく死んだのだと理解した。
のろのろと動いてバゲットを齧り、手探りでシャワーを使っているうち、心身の緩慢な変化を感じ取っていた。
商品を回収しにきた襲撃者は驚いた様子だったが、単独で活動し続けることは現実的ではないことを話した。襲撃者は基本的に二人以上の徒党を組む。単身の者もいるが、怪獣との遭遇を考えれば人数がいた方がいい。何より数の暴力に任せればそれだけでより多くの戦利品が手に入る。
生きるための正しい選択をするべきだ。特に考える必要もなく、その申し出を受け入れた。
法も倫理観もない生活の始まりだった。金も食料も、衣類も道具もなんでも奪っていった。時には村ごと奪い尽くした。働くことが馬鹿馬鹿しいとすら感じられた。なぜならこちらは自由に出歩き、気ままに寝起きし、気に入らない奴は殺せばいいのだ。足りなくなればまた奪えばいい。
だがそれでも、拘束した人間を組み伏せることや手籠にすることだけは出来なかった。泣き叫ぶそれを痛めつけることはどうしても出来なかったのだ。奉仕を仕事にしている相手になら、報酬を払って至ることはあっても、それでもそれ以上のことはできなかった。笑う奴は同業でもぶちのめした。
その代わりなのか、殺傷においては一切躊躇いなく出来るようになった。体質のためか大型の武器を振り回せるような体格も筋骨も手に入らなかったが、闇に隠れて様子を伺い、一気に詰めて仕留めることに関しては他の追随を許さなかった。
優れた視力。小さなものも見落とさず、動くものを見逃さず、暗がりでも把握できる視力が彼をここまで成長させた。
二十五歳にもなるころにはすっかり主戦力の一人となり、斥候の役割や目標地点の視察を的確にこなし、強奪作戦の成功率を上げていった。
だが、それもたった一人の男の前に敗北することになる。
港町ベルティナ。二度にわたる中型怪獣の襲撃と、他の襲撃者集団による強奪作戦に遭遇している。疲弊しきった町が相手だ。港の設備を奪い、町を手に入れればその労働力と資産を丸ごとモノにできる。
襲撃者による町が誕生するかもしれない。そうなれば一気に安定するだろう。
確実に上手くいくはずだった。港町の強奪作戦には他の集団も賛同して頭数も増やすことに成功している。突破しやすいポイントだったはずだ。警戒している状態ではあったから密かに潜入することはできなかったが、一点集中の強行突破で一気に蹂躙するはずだった。
「おいおいおい……こっちは腰痛の後遺症に悩むオッサン一人なんだぜ」
その男は確かに大柄ではあった。だが一人だ。突破なんか容易なはずだった。
だがそいつはショットガンで的確に人体をぶち抜き、無骨な大剣を振り回してぶっ飛ばす。
雑な戦い方をする男だったが、とにかくベルティナに一歩でも踏み込めるものは一人もいなかった。腰痛と言っていた通り、この男は機敏な動きができないようだが、とにかくなんでも投げて足止めする。挑みかかった襲撃者も、その辺に落ちた武器も、空の木箱も農具もなんでも。無視して街に入り込もうとしても、倒した者から刃物を取り上げ投げつけて動きを無理やりに止めた。
こんな男と力比べになったら負けるのは目に見えている。ならば背後に、横に。その鈍重な動きでは追えないように、他の襲撃者メンバーを囮に使って接近する。彼の頸が見えたのを好機と見て、一気に詰めた。
「セコい真似すんなよ」
この大男のショットガンの銃口が腹にめり込んだ。まるで加減もない力で身体中が軋んで歪んだ。
「んかっ……はっ」
悶絶する間もなく頭を掴まれ、そのまま放り投げられた。メンバーを巻き込んで倒れ込み、動けなかった。腹の中がおかしくなって、口まで戻ってきそうなのに来ない。いくつか骨もやられたらしい。今のたった一撃で?
こんなに強いのに、この男は襲撃者ではなく町の人間なのか。
血が混じった咳をして顔を上げた時、ショットガンの銃口が今度はこちらを向いていた。
「このボロ港に何しにきたのか知らねえが……この俺は寛大だ。死ぬか生きるか選ばせてやる」
カチリ、音がする。ショットガンだけではない。この大男は大剣もまだ手にしたままだ。鉄の塊。あんなものをまともに受け切れるはずがない。骨もワタも破裂するだろう。
その様子を見てしまっている。
「いまのこの町は人手不足で食糧不足でな。怪しい奴は全部ぶっ飛ばすか、ぶった斬るしかねえんだ。法の裁きなんて待てねえんだよ。でももし、お前らが俺に服従するんなら生かしてやってもいい。どうする?」
一人のメンバーが唾を吐いて中指を立てた。瞬間、ショットガンはそちらを向いて火を吹いた。爆音、そして破裂音。できた赤い地面にメンバーだったものが倒れ込む。
「おっと悪い! 俺は短気なんだ。言い忘れてたぜ。でも仕事に戻りたいし、ここで終わらせとけば手間もないだろ?」
この時、自分がどう答えたのかはわからない。覚えていない。
わかっているのは、こんなところで死ぬことは選ばなかったようだということだ。
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