海底の夢

「まあ、ご無事で結構でした」


 ヒバルはそう言ってダミアンを労った。ヒバルの運転する自動車の中。そこに他の人員はいない。ダミアンとヒバルの二人だけの密室空間であった。


 あのあと、ダミアンは無事に生還して家屋から脱出することができた。

 心身ともに衰弱しきっていたダミアンだが、家屋の拘束が解かれると同時に玄関扉を開け放った。しかしその途端に一歩も動くことができず倒れ込んだところをシドーによって保護され、直ちにベルティナの町医者に搬送されるとそのまま三日間を点滴だけで繋いだ。


 筆談すらできない状況が続いている間、何かと騒々しいことになっていたらしいが、ヒバルはそれらのあらゆる喧騒からダミアンを隔離させた。


「あなたは私の大事なお得意様であると同時に、私はあなたのファンの一人なんでね。この荒んだ現代において、あなたのような作り手を失うわけにはいかない」


「何をいまさら……」


「嘘ではないですよ。映画にもなった『木漏れ日の机上の恋』は、恥を忍んで隣町まで観に行きました。ベルティナには映画館がありませんからね。あと『八番目の鍵』も見事な作品でした。仕事を忘れて何度も読み耽りましたよ」


 人を信じることに疲れているダミアンは、それでもヒバルの振る舞いには助けられていることを実感していた。ベルティナは確かに小さな港町だが、そこにも権力者や発言力のある人間はいる。彼がそういう存在らしいことは想像に難くない。


 ヒバルは、あの時ダミアンがどうやって生還したのかをついぞ聞き出すことはしなかった。それはとてもありがたいことだった。夜になると思い出す。暗くなると聞こえる気がする。じっとりとした圧迫感を。これを整理できるほどの冷静さはまだ持っていない。


 あのとき。


 ダミアンにできることなどなにもなかった。洋上賃貸の真ん中に座り込んで待っているつもりだった。だが屋根に近いガラス窓が破裂するような音がした直後、「あっ」と思う間もなく木材が折られて骨組みまで潰されたらしい音が絶え間なく降り注いだ。

 安全だと思っていたシェルターがぐしゃぐしゃにされる恐怖。深海を探索するために作られた小型潜水艇が圧に耐えきれずに一瞬で粉砕された事件を思い出した。


 海に怪獣がいるかどうかなんて、調べることができない。無理だ。


「はあっ……ああ、ああぁぁ……!」


 仕事として向き合っていた小説で書いたような声が自分の口から漏れている。言葉のようなものは出てこなかった。叫びだしたいのに、助けを求めるべく大声を出したいのに、四方八方から迫ってくる力がそれを容易く掻き消してしまう。どこかの強化ガラスがまた破裂した。


 どこかの骨組みが砕けた。それはダミアンの平常心の支えを次々にへし折っていくのと同じことだった。


 床に造られた避難用の扉には錠前がされている。だがついにそれも不穏な音と共に蝶番の一部が破損して飛び散った。ホラー作品だってそんな描写をすることは多くない。隙間からは、ネットリとした何かが這いずってきた。肉厚な海藻のようにも見えたし、貝殻のようにも見えた。


「やめてくれ……」


 それはダミアンの足元に迫ってくる。多くの生物に存在するはずの骨がないようだ。軟体動物の特徴を持った怪獣。聞いたことがない。爪もなければ指のようなものも。いや、暗くて見えないのかもしれないし、精神的に異常をきたしたダミアンには現実とは違うものが見えているのかもしれない。


「やめろ! 来るな!」


 びく、とそれは驚いたように動きを止めた。ダミアンは捲し立てた。


「来るんじゃない! なんのつもりだ!? 僕が何をしたって言うんだ!? 近づくな!」


 その瞬間。頭の中でプツンと何かが切れた。ダミアンはそこから意識を失った。だが体だけは玄関の扉にしがみつき、すぐに出られるようにもがいていた。異常な状態だった。


 そこからはもうわからない。鳥の鳴き声か、波間に聞こえる音か「カロロ、コロロロ」と聞こえた気がした。それだけだった。


「ここが仮住まいとなる一室です。この建屋は私とその部下どもが住むシェアハウスですので、野暮な連中は入ってきませんよ」


 ハウス、とは言うが片田舎にしては十分な清潔感と開放感のある4階建てのアパートのような建築であった。手洗いは部屋ごとにあるが、シャワーと浴槽は共有でフロアごとにある。キッチンは一階と三階。ヒバルは四階のフロア全室を仕事場兼住まいにしており、一階と二階にはシドーをはじめとする部下たちが寝起きしているらしい。不動産の事務所はまた別にあると言うから、ヒバルの権力を感じずにはいられなかった。


 ダミアンの一室は三階の南東側、角部屋に与えられた。


「物置だったので傷などがあるかもしれませんが、大目に見てください。最低限の家具だけ揃えておきました」


 自然採光は適度なレベル。どの窓にもカーテンが下りていて、プライバシーは守られている。机。椅子。ソファ。ベッド。クローゼット。

 これ以上の借りを作りたくないと思った。


「ありがとうございます」


「今日は一旦、ここまでにしましょう。ラムラスさんが落ち着いたときに改めて時間をください。これからのことをお話しします」


 水とスムージーと、食べられるときはパンやサラダ、果物を口にした。


 瞬きをしたとき、思考が海底に引きずり込まれるかのような錯覚を見る。炭酸水に沈められたら、視界はあのようになるのかもしれない。しかし爽やかさなどはなく、ベタつく甘さもない。暗い緑色をして、ぬめりのある肌触り。粘性のある水が頬から首筋に落ちる。


 ダミアンが口を開くことができるようになったのは、転居して四日目の夜だった。ヒバルが鶏肉のソテーとワイン、トマトとオリーブのマリネを持ち込んだ時だ。どうやら今日は大口の取引を部下の一人が上手く進めることができたらしく、その祝いの料理の一部なのだそうだ。


 ダミアンは過ごすのも食事も一人で静かに済ませたいと要望していたが、このとき初めてヒバルを呼び止めた。

 部屋の扉がうっすら開いているだけで階下で騒いでいる部下たちの笑い声が聞こえる。ヒバルはそこから切り離すようにして扉を静かに閉めた。


「何か物入りですか? 病院に行きたいのであれば……」


「いや、違うんだ。そろそろ現実に戻りたい」


 しんと静かだった。この部屋も含めて、ダミアンには時間も空気も止まっているように感じられていた。それを今、自分で動かそうとしている。


「私は……僕は、何度も海底の夢を見て溺れそうになっている」


 料理を乗せたテーブル。華やかなのはそこだけで、座に着くダミアンの表情は暗い。だがヒバルは嫌な顔もせず、椅子を引っ張り出して対面に座った。一つ、深い息をついたのを聞いて、ダミアンは口を開いた。


「今日がいつなのか、時間は。あれからどれくらい時間が経ったのか。あの時何があったのか、私はどうしてしまったのか。そして、アレは一体なんだったのか。この港町はどう対処しようとしているのか。私がすべきことはなにか……」


 まるで吐き出すかのようなダミアンの声色だが、ヒバルの表情は変わらない。一度立ち上がり、水の入ったボトルを持ってきてテーブルに置いてまた椅子に戻った。ダミアンの視線がそのボトルを見つめる。常温だが冷たすぎず、飲みやすい。ダミアンの植物のような生活を支える常備品だ。


 ほんの数日足らずだが、見慣れたボトルだ。日付が刻まれている。


「僕はおかしくなったのか」


「そこについては否定しません」

 ヒバルは取り付く島もない様子で言った。


「あなたは生きている。幸いにも現実に戻ろうとしている。だがそれだけじゃあダメだ。行動と結果を示さないといけない。あなたも子どもではないのだし、私もいつまでも身銭を削ることはしたくない」


 ソテーを一切れつまむとそのまま口に運んだ。少しの沈黙。


「一気に戻ろうとする必要はありません。見たところ、あなたは日頃からあまり運動していないでしょう。戻ろうとして焦って駆け出したところですぐにバテますよ」


 その上、ここ数日はまともに歩いてもいない。体力はもちろん筋肉も衰えたであろうことは想像に難くない。この建屋の一階から自分の部屋まで行くのにも息が上がってしまうかもしれない。

 ヒバルは言葉を続けた。


「本当にラムラスさんが現実に戻ろうとしているならば、明日は朝から私のオフィスに出勤してください。仕事ができる装いで」


 クローゼットにはいくつかの衣類がセットされていることは確認している。ダミアンはこの日に至るまでまともに鏡も見ていない。


 現実に戻るには、まず自分の姿と対面する必要がある。

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