再帰への一歩

 朝になったら起きる。顔を洗って自分の顔を見る。見栄えのしない、散らかったヒゲが身だしなみの必要性を訴えていた。窓を開けて見ると、天気は雲の流れる晴れ模様。やや冷たい空気が流れ込む。もう働く人たちが動き回っているようで、威勢の良い声が聞こえてきた。時刻は七時。


 ヒバルのオフィスに入ったのは九時。ヒバルは朝食をダミアンと過ごしたのち、コーヒーの湯気を楽しみながら新聞に目をやっていた。


 新聞は見るなとヒバルには言われている。まだ情報の整理がつかないだろうから、だそうだ。


「現在、ベルティナは警戒状態にあります。あなたと、あの家屋に起こった出来事はセンセーショナルな事件だった。被害は確かに最小限と言えるが、多くの目撃者がいるのにも関わらず、奴の全体像の把握ができなかった上に大きさの推定もできなかった。

 … …ですが、あれは超大型以上でかつ、新型の怪獣ではないかと言われています」


 怪獣の大きさは小型、中型、大型と区別され、さらに大きいと超大型と称される。およそ体長十メートル以上のもだ。あの洋上賃貸の屋根までの高さは知らないが、それをすっかり覆ってしまうほどの大きさともなれば超大型以上とされるのには納得できる。


 怪獣の存在を納得して受け入れると同時に、ダミアンの脳裏はその瞬間をフラッシュバックする。緊急避難用のボートに繋がる床の扉の、蝶番が外れてできた隙間から入り込もうとした異形のもの。


 現在確認されている怪獣は四つ足で機敏に動くタイプと、跳躍と滑空による襲撃を得意とするタイプの二種類。地上型、空中型などと呼ばれたりするものだ。ダミアンが遭遇したのはそのどちらの特徴もない。円筒状の家屋に巻きついて締め上げながら、床下からも侵入する……形が全く想像できない。


 骨や爪、牙のようなものはなかったと思うが、見ていないだけかもしれない。むしろタコやイカのような軟体動物のような特徴を思わせる。旧時代に語られたような海の怪物に似たもの。


 ズキ、と頭に何かが刺さったような痛みが走る。

 ヒバルは新聞から顔をあげ、デスクに放り捨てた。


「こんな片田舎に怪獣の専門家なんていませんからね。あの怪獣の行動も、確認されている怪獣の行動パターンとは異なっている。連中は人間を見たら一も二もなく襲いかかる。

 ですが奴は結局、一人も直接は手をかけていない。ラムラスさんも怪我はないし触られたわけでもないでしょう?」


「意識がなかったようなので、触られていないかどうかまでは……」


「病院に搬送された時の検査では、外傷なしという判断でしたよ。点滴だけです。ラムラスさんから血が出たのは」


 それは出血とはまた違うような気がするが。思っていても反論するだけの元気はダミアンにはなかった。


 しかしこの海の怪獣とやらは、聞くだけなら危険度は地上型や空中型に比べたら高くはないように思われる。もちろん港町に上陸などされた日にはベルティナなどひとたまりもないだろうが、あの襲撃は十五時という日中に行われている。多くの人がその場にいたらしいことは、ヒバルからの電話でもわかったことだ。


 だが誰も襲われなかった。


 ダミアンだけが錯乱状態に陥った。それが巨大な恐怖との対峙によるものなのか、怪獣の能力によるものなのかはわからない。


 トントン、とドアがノックされた。ヒバルが入れと促すと、恭しくシドーがやってきた。初対面時にはお互いあまり目を合わせないようにしていたが、今のシドーは整ったジャケットを着て身なりを整えている。随分と頼もしい精悍な顔つきをしていて、元々インドアな活動しかしていないダミアンに比べたら、健康的な肌のうえ皮膚が厚く肩幅もあるように見えた。


 あえて言うならヒバルにすら笑顔を向けない無愛想だ。ダミアンがオフィスにいると気づくと少し眉を持ち上げて驚いた顔を見せたものの、すぐにヒバルに向き直る。


「いつでも行けますが」

「俺はここでやることがあるんでな。ラムラスさんを連れてってやってくれ」

「は」


 本当なら、シドーは「はあ?」とでも言いたかったのかもしれない。ぐ、と飲み込んで代わりにジロリとダミアンを見やる。


「ラムラスさんにも警戒活動に参加してもらう。収入という考えもあるが、体力はないし今は妙な噂と疑いがかけられているからな。まずは準備運動が必要だろう。この周辺とあの家屋辺りに行ってこい」


 見るからにシドーが反感を抱いているのがわかる。だが反感ならダミアンも抱いているのだ。

 短期間だったとはいえ、ダミアンはシドーの管理する家屋に住んだ顧客である。今の賃貸契約がどうなっているのかの説明はまだないが、解消したとは聞いていない。少しは愛想の一つでも向けてもいいのではないか。


「分かりました。ラムラス様、私は先に下でお待ちしておりますので」


 敬語を話すことはできるらしい。また、ダミアンのことは今のところ一応は顧客ではあるようだ。


「言いたいことはわかりますよ、ラムラスさん。シドーは部下の中でも優秀な方だが、愛想がない」

 ヒバルはコーヒーを口に運び、そして続ける。


「だからこそ、無闇に喧嘩や因縁を向ける者もいない。まずは今日、散策を楽しんでご自身の体力のなさを実感して下さい」


「他に言いようはないんですか」


 おどけた様子でヒバルはそれを流し、再び新聞に目をやった。足音が遠ざかっていくのを聞き、建屋から出た頃を見計らって携帯デバイスを手に取る。慣れた手つきで通話に入りつつ椅子から立ち上がって窓を見やった。


 大きな歩幅で歩くシドーに早足でついていくダミアンの後ろ姿が見えた。程なくして二人の影が街並みに消える。ダミアンは話題の人になってしまったが、シドーが側にいればバカな人間に絡まれることはないだろう。


『もしもし』


「ヒバルだ。連絡を見たぞ。勝手なことしやがったな」


 通話相手は女声で、困った様子のため息を聞かせる。

『誰が止められると言うの? 住民の噂話は飽きもせず同じことを繰り返してる。みんな不安なのよ』


「どこの厄介者が来ることになった? この町に余分な金なんかないんだぞ」


『ロックナンバー』


 トントン、とドアノックが鳴った。ヒバルは怪訝な顔をしてそちらを見やる。そっと開く扉。


『多分、もうそっちに行ってる』


 わずかに開いた扉から体を差し込み、ひらひらと手のひらを振ってみせている。顔を見せないがニヤけているらしいことは想像できた。泥で汚れたブーツの爪先。硬い革製のパンツに通したベルトにはポーチがいくつか固定されている。銃火器、刃物。田舎の港町を歩くにしては、なかなか物騒な装いだ。


 ヒバルは通話を切った。

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