青緑の浮浪者

 小さな港町であるベルティナに、自家用車などという小洒落たものは走らない。最初に洋上賃貸に案内されたときに使ったのは来賓用の貴重な車両で、顧客ではあるが居候状態のダミアンのために走らせる予定はないそうだ。


 ベルティナにも運送用の大型車が通る道が別途備わっている。しかしそれは町の外へ運送される目的の大型車両のためのものだ。町中で貨物を運ぶのは人力か、もしくは馬である。荷車が動く音はどこに行っても聞こえたし、その姿や影は珍しいものではない。


 馬がいるなら落とし物もよく見かけるが、肥料だか燃料だかに用いられるらしく、見つけ次第誰かがすぐに持ち去って行った。

 都会で暮らしてきたダミアンには慣れない景色の一つだった。それでも水浸しになる幻覚を見るよりは万倍ほどマシだった。


「あの洋上賃貸は修繕が進められています」


 シドーの声に、また思い出したくもないショックが津波のように押し寄せる。聞こえるはずのない轟音。新聞紙を両手でぐしゃぐしゃにしていくイメージ。ダミアンの体が拒否反応を示すようにぎこちなく動くのを見て、シドーは一口サイズのサンドイッチをダミアンの口にねじ込んだ。


 なぜだ。ダミアンの顔がシドーを見る。


「家屋にあった家財道具や、ラムラス様の私物で回収できるものは回収して保管してあります」


 まるで何もなかったかのようにシドーは言葉を続けた。どうしたら顧客対応で顧客を無視できるのか不思議でならないダミアンは、ハムチーズサンドを咀嚼するしかなかった。


 あの一件以来、身一つで救出されヒバルに保護されたまま、ダミアンは社会活動を何もしていない。シドーが言うまで忘れていたほどだ。


「落ち着かないと思ったら何かを口に入れてください。そうすれば、まずは食べるか飲むか吐き戻すしかないでしょう」


 ジロジロ、ダミアンはシドーを見た。身につけているポーチや提げている鞄には仕事道具が入っているのかと思っていたが、必ずしもそうではないらしい。第一印象が悪いからかもしれないが、シドーは真面目な社員のようにも見えない。慇懃無礼どころか無礼に振り切った態度である。


 ダミアンの疑問が言葉にされる前に、シドーは眉根をしかめて修繕されようとしている家屋を睨んだ。


「なんだ? 誰だあいつ」


 シドーは言うなり、修繕活動の進められている洋上賃貸に駆け寄っていった。まだ口の中でもぐもぐしているダミアンはノロノロと後についていく。


 修繕に携わっている団体がシドーとダミアンに気がついた。六名。団体は頭部を守るヘルメット、腕章を身につけている。彼らはシドーに気がつくと手を止め、集合してそれぞれ快活な挨拶をして出迎えた。シドーはそれを労い、メンバーと働きに足る程度のチップをリーダーらしき男に渡して言った。


「いま、近くに誰かいなかったか?」

 団体メンバーは顔を見合わせた。


「人影なら見かけるんですがね。ハッキリ見えないから我々はあれがラムラス氏だと思ってましたけど」


 ダミアンは今この場にいる。団体メンバーは興味深げにしてダミアンを観察していた。奇異な色をした視線もある。スキャンダルから逃げるようにして田舎に来た小説家。怪獣に襲われて生還した非力で稀有な人間。町の有力者であるヒバルの監視下に置かれている重要人物。好奇心を抱かないという方が無理な話だろう。


 だが不審な人影は結局、この日に見つけることはできなかった。


 シドーは確かに見たと主張したが、団体メンバーはそれに賛同出来ずダミアンもまた心当たりがない。そして団体メンバーの言う通り人影でしかなく、昼間だというのに誰一人として特徴を言い当てることができなかった。


 しかしシドーはそれで諦める人間ではなかったし、管理する物件に不審者の徘徊など許せる人間でもなかった。日が傾き始めても根気よく足取りを追う姿は、彼の過去の生業を思わせるものがあった。ダミアンはただついて歩くだけで息切れするばかりだったが、ついにその姿を捉えるに至ったのは翌々日のことであった。


「あっ……」


 引きつって息を呑んだその人物は女性のようだった。成人してはいるがやや中性的な顔つきで、ボディラインも衣類で隠れているものの、シドーが掴んだ手首は日に当たったことがないかのように白くて細い。指先には空色に塗った爪が艶やかに、足元には同じ色をした編み込みのサンダルを履いていた。長く豊かな髪がゆったりと波打つようなウェーブを描き、インナーカラーとして染めたらしい青碧や身に纏った浅葱色あさぎいろのワンピースが、この人物に青緑のイメージを抱かせている。


 その目は怯えているというより、驚いた様子でシドーを見ていた。やや淡い、グリーンの双眸。


「最近うろついているのはお前だな。何をしてる?」


「お……う、え……?」


「とぼけるなよ。来い。不審人物として取り調べてもらう」


 遠慮も容赦もない態度でシドーは彼女の腕を引っ張った。目の前でこんなものを見せられてはダミアンも黙っていられない。引き留めようとしたその時、彼女は突如として腕を振り上げ、シドーの拘束を破った。


 思いがけない遭遇に見舞われた女性が怯えて逃げようとするような動きではなかった。ただただ、力任せに腕を振ってシドーの手から離れようとする動きだった。また、シドーもそんなに容易く振り解かれると思っていなかったようだ。驚嘆する顔が振り払われた手を見ている。


「う……!」


 彼女はそのまま逃げ出してしまった。遠ざかる姿を追う暇もなく、彼女はベルティナの町の喧騒から離れた海辺に消えていった。砂浜が途絶え、岸壁と岩場が連なる地域だ。


「怪力女かよ。浮浪者が」


 シドーは痛みを払うようにして手首を振った。

 なんにせよ、この場においてダミアンがなんの役にも立っていないということは変わりない事実だ。歩くのが早い上に行動に移すのも早いシドーには、運動不足のダミアンはついていくことだけで必死になってしまう。

 だがうまくヒバルに説明できるのはダミアンだろう。とにかくこの始終をメモしておくに留めた。

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