シアン

 相変わらず、青緑のカラーイメージの存在として彼女はうろついていた。この日も修繕作業が進められている洋上賃貸を眺めている。岸壁の端、危なっかしいところに居て、ちょこんと座っている様子は精神的な幼さを感じさせた。


 ダミアンがシドーを連れて再び現れたことにも、さほど驚きはない様子だ。感情表現が乏しいとも感じられるが、ファーストコンタクトも友好的ではなかったから仕方がないのかもしれない。シドーはもう関わりたくなさそうな顔をしているものの、ヒバルの指示には逆らえないらしい。


「俺も一応不動産屋なんですよ。あんまり仕事を増やさないでください」


 関わりたくないらしい。今回はダミアンがコンタクトを試みることにした。


「こんにちは」

 青緑の彼女はダミアンの声かけに、わずかに目元をほころばせた。話を聞いてはくれる様子だ。


「あなたはこの近くに住んでいるんですか?」

 名前もわからないのだ、と今更になって思った。彼女は変わらぬ表情で応答する。


「すむ……」

「ええと、名前は?」

「え、と……なまえ、は?」


 ダミアンの背後から舌打ちが聞こえた。

「子供向け絵本の打ち合わせですか?」


 シドーは腕を組んで不満げだ。先日のロックナンバーといい、この浮浪者の女性のことといい、面白くないのだろう。しかもシドーが管理する洋上賃貸の半壊状態を見せつけられている。ダミアンの面倒も見なければならない。シドーはそれが不満なのだ。


「なまえ、ない」

「え?」


 思ったよりはっきりした言葉で女性は言った。

「なまえ、ない。すむ。このちかく」


 ダミアンは思わずシドーを見やった。図らずも目配せし合う形になってしまった。見た目の年齢は十分に成人しているように見える。シドーよりも少し若いくらいだろうか。

 だがあまりにも言葉が少なすぎるし幼稚だ。ダミアンの問いかけは理解するようではある。もっと情報を得る必要があるかもしれない。


「どこから来たのですか」

 彼女が指を指したのは空だった。シドーの眉間のシワが深くなる。


「言語障害……ですか? もっと別のものじゃないですかね」

「ベルティナの医者で対応できそうですか?」


「都会ほどじゃないですけど……一応、怪獣に襲われたとかでメンタルやられた人向けのクリニックはありますよ」


 つまり、シドーは彼女をその被害者ではないかと思っているということだ。怪獣に遭遇、襲撃された人間が生還できても、あまりの恐ろしさに深いトラウマを刻まれてしまう者も少なくない。

 これは救援団体や医療関係者、戦闘集団に属する者ですら起こりうる症状だ。人格が変わってしまったり、現実を受け入れられなくて一切の応答をしなくなる者もいる。


 数日前のダミアンもまた、似た症状であったと言えるのかもしれない。彼女に起こったであろう悲劇を思って胸が苦しくなりつつも、ダミアンは質問をもう一つ投げかけた。


「ケガなどありませんか」

「けが、しない」


 確かに見ために負傷箇所はない。身につけているワンピースもサンダルも綺麗なものだ。

 綺麗すぎるくらいに。

 ぐ、とダミアンは息を呑んでしまった。


「どうして……」


 住んでいる、というのはどういう意味だ? 浮浪者? そういえば初めて見たときから、彼女はそれらしいケガや汚れがなかった気がする。それとも女性だと思ったからジロジロ見なかっただけだろうか。痩せすぎている様子もない。空腹に飢えている様子もない。爪にはマニキュアが艶めいていて、髪の色も染めているようだ。


 浮浪者……なのだろうか。


「病院行くなら案内しますけど」

「え、ええ、行きましょう。でも名前がないと不便ですね」

「浮浪者に身分証明書はないですからね」


 青緑色をした彼女。少し考えて、ダミアンは一つ提案をした。

「シアンというのはどうでしょう? あなたが好む色なのかは分かりませんが」

「単純でいいと思います」

「彼女に訊いているんですよ?」


 彼女の顔が色めいた。不思議そうな表情。だが、次第に嬉しそうに目元が綻んでいった。

「しあん」

「仮の名前としてですが……いいですか?」

「しあん。ふふふ」


 やはり振る舞いが幼い。嬉しそうに笑い、つま先で立ってくるりと回る。ワンピースがふわりと広がって揺れた。

 シドーが肩をすくめてため息をつき、ダミアンもなんとも言えない奇妙な感覚に襲われている。

 彼女はいったい何者だ? 少なくとも、健常な人間とは言えなかった。


「あああああああ!!」


 まずは病院で感染症やケガの有無を診てもらおうとしたところ、聴診器を向けられた途端にシアンは叫び出した。医者は後ろにひっくり返り、看護師は時間が止まったかのように身動きができなかった。

 シアンは女性のため、診察時にダミアンもシドーもその場に居合わせることはできなかったが、少なくともなにもできることはないとシアンを突き返されてしまって終わった。


 看護師の話によると、ステンレスなどの光沢のあるものを嫌ったようだと言う。また、注射器や点滴を怯えた目で追いかけたり血圧を測るために手首を掴まれるのも嫌がったという。そう言えばファーストコンタクトでシドーが腕を掴んだ時も力一杯振り払った。


「とんでもないな」


 シドーの感想は全く簡潔であった。医者はもう関わりたくないと言っているらしい。初見で出禁にされてしまったようだ。看護師もまだ動悸が落ち着かないとしながらも、一応の見解を述べた。


「ちょっと血色が悪いですけど、ケガやアザのようなものはありません。ですがあまり食事をしていないのかもしれませんね。

 それから、掴んだり聴診器を嫌がったりというのは……ステンレスの光沢を嫌がっているとしたら、酷い扱いを受けていたのかもしれません。爪や髪色、衣類まで統一されてますから」


 ダミアンにはその統一された色味についてよくわからなかったが、シドーが耳打ちした。


「持ち主の存在を示すために、統一した色をつけることがあるんですよ」


 腕を掴まれる。ステンレスの光沢で連想するもの。酷い暴力を受けた可能性。これらがシアンの言動の幼いことの裏打ちというなら、ダミアンとて無学ではない。連想されるものに心当たりはある。


 だがそれなら、ケガもアザもないのが不思議な話だ。少なくともシドーは持ち物を青緑色で統一する持ち主の話を聞いたことはないという。この近辺の者ではないということなのかもしれない。


「どうして先に教えてくれないんですか」

 シドーはひょいと肩をすくめた。

「知ってて名前をつけたんだと思ったんですよ」


 次にメンタルクリニックの方に行ったが、シアンはまた怖いものを向けられると思ったのか右手にダミアンのシャツの袖を、左手にシドーのジャケットの袖を握りしめてガラス戸の前で動かなくなった。本当に根が生えたように動かせないし、二人の袖はシアンの爪で破れてしまった。


「怪力女がよ……」

 シドーの恨めしい声が聞こえた。


 異様な様子にクリニックの看護師が出てきて事情を聞いてくれた。簡単な問診のみとなったが、とにかくシアンはなにも答えようとしなかった。誕生日。出身地。直前まで過ごした場所。とにかく何も。


「家族はいますか?」

 この質問にだけはびくりと反応した。


「かぞく」

 表情がなくなっていた。仮面がするりと落ちてしまったかのように、シアンの顔に表情はなかった。


「かぞくいない。でもわたしたちはどこにでもいる。いまは。どこにでも」


 看護師は困った顔をしてダミアンとシドーを見比べた。ダミアンはつい先ほどの病院での出来事を話すと、クリニックの看護師も賛同して持ち主の存在と苛烈な待遇の可能性、そして連れ戻される懸念を説いた。しかし外にいては何もできない。ここは諦めて撤退することとなった。


「さて、どうしますか。とりあえずラムラス様の要望は満たしましたけど」


 小さな港町と言えど、ベルティナにもカフェの一つはある。室内に入りたがらないシアンのため、オープンテラスのあるカフェに入った。ダミアンはまったく疲労困憊してしまい、座ったと同時に意識を失いそうになってしまった。また、シアンは椅子に座ろうともしなかった。ただただシドーが苦労を重ねるばかりだ。ダミアンが促してようやく座ったが落ち着かない様子だ。椅子に座る、テーブルに着くということも許されなかったのかもしれない。


 シフォンケーキとミルクティーをシアンに、シドーはコーヒーを二つ注文した。


 ダミアンは疲れきった体で思考をぐるぐると巡らせる。体が座っていれば少しは休まるが、シャワーを浴びたらそのままソファでも眠れそうな気がした。ここまでやっておいて、シアンをまた夜空の下の潮風にさらすのも気が引ける。


「室内に入るのも嫌がるなら……どこかに預けるということも難しそうですね」


「ベルティナにそんな施設はないですよ。船乗り向けの下宿に預けることになるんじゃないですか」


 ベストな回答とは言えない。だが他に浮浪者を引き受けてくれる場所などないだろう。シアンは病院も嫌がる。そもそも室内にいるのを嫌がるのだ。


 程なくしてコーヒーが二つ届いた。シアンの目の前にはシフォンケーキとアイスミルクティー。シアンが選んだわけではないが、カフェというシステムもわかっていない様子だったのでシドーが勝手に注文したものだ。


 手掴みで食べようとするので慌ててカトラリーを持たせる。やはりどこかに預けるなんてことはできそうにない。


「さすがにヒバルさんの部屋は貸せませんよ。俺も嫌です。この怪力女はドアもぶち破りそうですから」


 忘れかけていたが、ヒバルもシドーも不動産屋であった。それゆえに言い分は理解できる。身分の証明ができないならば住まわせることはできない。ダミアンの住む予定の賃貸もまだ直ってはいない。

 何より自身のこともわかっていないような女性を招き入れるのに抵抗がないわけではない。提案はシドーからなされた。


「そのうち考えましょう」

「え? ヒバルさんは治安が悪くなると言ってましたよ」


 じろり、シドーはダミアンを睨みつけた。

「知っていたとしても、こんなところで言わないでください」


 ダミアンはハッとして口を閉じて居住まいを正した。チラと道行く人々を見る。聞かれている様子はないが、ここ数日でヒバルは明らかに態度を硬化させている。もう少し考えた言動が求められるようになったようだ。


「考えても答えは出ません。今後、よそ者がやってくることが増えるなら賃貸も足りなくなるかもしれないんです。この怪力女が金持ってるようには見えませんよ」


 そう言って視線がシアンに向けられる。ダミアンもそれに倣って彼女の方を見た。

 彼女は実に満足そうな顔をしてシフォンケーキを平らげていた。ミルクティーもストローなんか使わないで、がぶ飲みだった。


「これで資産持ってるなんてことはないでしょう」


 結局、シアンとは元の海岸沿いで別れることとなった。少し残念そうな顔をしたように見えたが、シアンはやはりあまり表情を変えない女性だ。周りの人間がどれだけ彼女を心配していようと、そして憂いていようともそれを知る由もないのだ。

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